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第2話
一直線に駆け寄って紫央の傍らに寄り添った。他人から見たら大分親し気な距離感だ。一途に彼だけを見つめ瞳を輝かす薔太を、葛城紫央は慈愛に満ちた眼差しで見つめ返してきた。
「二人きりの時は、いつも通り呼べばいいのに」
小さな頃から兄代わりの紫央を「しぃちゃん」と呼ぶ習慣はなかなか抜けるものではない。薔太は幼さの抜けきらぬ輪郭の頬を染め、上目遣いに紫央を見あげて首を振る。
「そんなわけにはいきません。立場が違います」
「薔太は頑固者だな」
帽子をとり背筋を伸ばして畏まる薔太に、紫央はやれやれというように肩をすくめて微笑んだ。
「それより、紫央さん。どうしてこんな朝早くにいらしたんですか?」
「久しぶりの開館日に団体の予約が入ったというから気になって様子を見に来たんだ」
「そうなのですね」
紫央は祖父である紫仙の作品の管理を娘である実母や姉と担っている。そしてこのアトリエの現在の持ち主にして『金蘭亭 葛城紫仙アトリエ資料館』の若き館長だ。
高い鼻梁に光がさすと少し青みがかって見える大きな瞳。立体的で端正な美貌は父方に流れる西洋に縁を持つ血のせいだろう。広い肩幅に長い手足を持つ偉丈夫で、禁欲的なスーツ姿であってもその下には学生時代スポーツで鍛えあげた逞しい筋肉を想像するに容易い。
薔太にとっては幼い頃から憧れてやまぬ、特別な存在感を放つ男性だ。うっとりと彼を見上げたまま、薔太は鶴首をゆっくりと傾げた。
「僕だけに任せるのはやっぱり心配ですか?」
「まさか。そんな風に思ったことはないよ。この場所を誰よりもよく知っているのは薔太なことに間違いはないだろう。ここで育ったんだから」
「たしかに。それはそうですが、僕はただの管理人の孫と言うだけで、紫仙先生の血縁ではありませんから……」
ここ金蘭亭はこれまで紫仙の生前の遺言通り、所有していた作品とアトリエを、ファンに披露するための資料館として季節ごとに数日だけ開放していた。それは彼の遺志を継いだ薔太の祖父が亡くなるまで続いた。そして現在は研究者や学生の団体から予約が入った時のみ開放するスタイルに落ち着いている。
開放日に管理人としてこの場所にいるのがかつてこの建物の管理を手伝っていた洋紅の孫である、薔太の仕事だ。今はまだ大学生の薔太だが、学芸員の資格を得た暁には、正式に資料館唯一の職員となる。
そうなったら開館日を増やしてここは日本唯一の葛城紫仙の資料館としての役割を担うことになるのだ。
「でも薔太は紫仙に孫の俺より可愛がられてきただろ?」
紫仙は茶目っ気を帯びた顔つきでそんな風にからかってきた。しかし薔太は長い睫毛を半ばにふせ、おっとりと首を振る。
「それは言いすぎですよ。紫仙先生は紫央さんのことも、とても大切に思ってらっしゃいました」
薔太が幼いころから葛城紫仙のアトリエで文字通り『育った』という話をすると大抵周りには驚かれ、羨ましがられる。
最晩年の紫仙が友と過ごした『金蘭亭』は、彼が『片桐鉄線』名義で書いた小説の舞台ともなっており、ファンの間では長年幻の聖地といった扱いを受けていたからだ。
そして何より数奇なのは、薔太は紫仙とは血の繋がりはなく、紫仙の親友で建物を管理していた男の孫だということだ。紫仙と紫央の母親は血のつながった実の親子であるが、あまり仲が良いとは言えなかったらしい。
都内の別の場所にある本宅で育った紫央は、母親に渋い顔をされながらも頻繁に遊びにここに来ていた。男四人それぞれのペースで生活していたこの場所は、静寂と穏やかな暮らしがある。口うるさい母と姉から、一年の殆どを海外で暮らし美男だが浮気性である父の悪口ばかり聞く実家より、居心地が良かったのだろう。薔太にとっては年の離れた兄のような、幼馴染みのような縁深い存在だ。
「薔太は特別だ。俺にとってもね」
大きな掌が、目にかかるほど長く伸びた薔太の前髪を後ろに撫ぜつけていく。額に触れた指先がこそばゆい。幼子に触れるような優しい手つきに、薔太の中の子猫も嬉し気ににゃおん、ごろごろと喉を鳴らした。でも子供扱いが少しだけじれったい。
「紫央さんにとっては、僕は今でもすぐにべそをかく小さな薔ちゃんのままでしょ? これでも俺、片桐鉄線研究の第一人者の教授から、助手にならないかって誘われてるんだからね」
七つも年が違うから子ども扱いされているのは重々承知だ。だがどうしてもすねたような口ぶりになってしまう。祖父を失った薔太にとって、紫央は文字通り居場所を与え、護ってくれた恩人だ。そんな彼に頼りにされたい、成人したての気負いがそうさせるのだろう。紫央は形よい眉を顰めると、なだめる様に薔太の頬を指の背で撫ぜた。
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