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第3話

「それは困るな。ここは薔太がいなければ成り立たない。頼りにしてるんだ。ずっとこのまま、どこへも行ってはいけないよ」   優しい紫央は薔太の心を読んだように穏やかな声でそうねぎらってくれた。見え隠れする執着めいた台詞にすら、ふるるっと心が熱く震える。もちろん男性で大人で立派な紳士である紫央が、自分のようなつまらぬ男を気にかけるのは、幼馴染みとして育ったことによる哀れみからだろう。  だが今この世で自分をこんな風に思い気遣ってくれる人は紫央しかいないということも、薔太はよく分かっている。分かっているからこそつい、身体中の力がふにゃんっと抜けるように、心の底から彼に靡き甘えてしまうのだ。 「ふふ。ありがとうございます。そういわれると、すごく嬉しいな。僕にとって家族みたいに思うのは、今はもう紫央さんだけだもの。兄さんみたいに近しく思ってるから」 「……兄さんか」  紫央からふうっと僅かに嘆息が漏れた気がした。何か失礼でもあったかと、薔太はびくっと身体を震わせる。 「ごめんなさい。身の程知らずでした。兄さんだなんて……。厚かましいですよね」 (紫仙先生の孫でこの家の本当の持ち主は紫央さん。僕は紫央さんの好意で住まわせてもらっているだけの、赤の他人。身の程をわきまえないといけないのに……)  先日成人した折に紫央の母親からいい加減自立しろと釘を刺されたばかりだ。  しかし薔太にはここより他に行く当てはない。薔太の母は海外での再婚のために幼い薔太を祖父の元に置き去りにして音信が途絶えたままだ。  その祖父が三年前に亡くなり、いよいよ他に行き場がなくなった。その時点でここを出て高校も辞め、直ぐ働くという選択が頭を過ったわけではない。だが親しい人を次々に失った傷心の薔太に紫央は「でていかなくていいよ。ここにいて将来俺の仕事を手伝って」と声をかけてくれた。その気遣いと優しさが涙が出るほど嬉しかった。  そして幼いころから何かれと薔太を気にかけてくれる彼が後見人となり、高校卒業はおろか大学進学までも後押しをしてくれたのだ。  しかし紫央の母は薔太が紫仙と祖父亡き後もこの家に住み続けていることを今でも良くは思っていない。紫央がこの家を相続するため、引き換えに多くの資産を失うことになったことも、洋紅のことも『軒を貸して母屋を取られたようだ』と嫌っていたことも知っている。  それでも薔太を庇って『薔太が将来学芸員の資格をとって、資料館の全てを管理していけるように俺が責任を持つ』と期待してくれている。そんな彼の思いに報いることが今、薔太に出来る唯一の恩返しといえるだろう。 「早く一人前になって、紫央さんのお役に立てるように、勉強もここでの仕事も、沢山頑張ります」  薔太は強張った肩を大きな手で抱かれ力強く引き寄せられた。ふらふらとそのまま逞しい胸に抱かれる。 「そんな他人行儀なことを言うな」 「紫央さん」 (温かい……)  求めていた人のぬくもりに包まれると、自分はここにいてもよいのだ、彼の傍で生きていてもよいのだ、と心底ほっとする。そして今の薔太を取り巻くすべてを与えてくれた男に、少しでも報いたいとも思うのだ。 「薔太が自分を卑下することなんて一つもありはしないよ。真面目で常に勉学に励んで学校の成績も優秀だ。俺の手が回らないから、この家の管理もお前ひとりに任せてしまっていることは、常々すまないと思っている。だが気難しい紫仙が最も信頼していたのは洋紅さんと孫の薔太だけだ。だからこれからもできる限り、他人に任せずこの家はお前と俺で管理していきたい」 「はい、もちろんです」 「こんな古い屋敷を手入れして保っていくことは並大抵のことではないと分かっている。今も昔も遊びたい盛りのお前が学校が終わるとすぐここに戻って、祖父たちの手伝いをしてくれていたことに感謝しているんだ。祖父たちが愛した金蘭亭を、俺と一緒に守っていってくれると約束してくれた事が嬉しい。だから今まで通り、その他のことは全て俺を頼ってくれればいい。俺を信じて、薔太は何一つ心配しなくていいよ」  上背があり逞しい、彫刻のように鍛え上げられた逞しい紫央の腕の中、瞳をつぶれば何一つ怖いことはないという気持ちになれる。 (しぃちゃん。大好き)  もう小さな子供じゃないから、面と向かって言うのは照れくさいけれど、心の中ではいつもそう呼びかけている。  幼いころ、母が恋しくてたまらなくて泣いた日があった。久々の子育てに試行錯誤しながら薔太を育てていた祖父にはとても言えなかった。  この庭の隅、山吹の木陰に潜り込んで小さな身体をもっと丸めて、隠れて泣いていた。そんな薔太を探し出してくれたのは学校帰りに祖父の家に寄った紫央だった。  

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