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第4話

 それは初夏に向かう日差しは明るく気候の良い季節だった。零れるように咲く山吹の黄色は、涙で歪む視界にも眩い煌めきを放っていたのを覚えている。  溜まった涙が溢れて頬を濡らしたら、困ったような顔で薔太を見下ろす紫央の不思議な色の瞳と目が合った。静かな瞳に、何を話してもこの人は自分のことを受け止めてくれるのではないかと、そんな期待に頬は熱くなり心音がとくんっと波打った。 「大丈夫かい?」  まだ少年らしい柔らかな声だった。優しく薔太を気遣うそれを耳にしたら、もう我慢ができなくなった。薔太は小さな胸に秘めていた、健気に母を待ち続けては裏切られた思いの丈を細い声で吐き出した。 「ママ迎えに来てくれるっていったのに。うそつき。ボクのこときらいになったからすてたんだ。おじいちゃん達もボクがいたらめいわくだって、しぃちゃんのママもいってたもん。ボクなんて、誰もほしがらない、いらない子なんだ」  皐月の温い風が涙で濡れた頬をすーすーと撫ぜて行った。涙の雫が薔太の薔薇色の頬を伝って落ち、次から次に乾いた地面に染みていく。 「そんなことないよ」  紫央は学生服の膝が汚れるのも構わず跪いた。そして綺麗にアイロンが当てられたハンカチを取り出すと、慰めるようにそっと薔太の涙を拭ってくれた。 「こんなに可愛い薔ちゃんを、愛おしく思わないはずないだろ? 俺もおじいさまたちも、お前のことが大好きだ。だからもう泣かないで」  紫央はそういうと泣きじゃくる薔太をぎゅっと抱きしめてくれた。涙はすぐには止まらない。ひっくひっくと肩を震わせ泣きじゃくる薔太を、紫央が優しい手つきで背をさする。それが嬉しくて、でもまだ心は切なくて、ぐしゃぐしゃの顔のまま薔太は嗚咽交じりに呟いた。 「しぃちゃん、ぼくっ……、ぼく」 「うん」 「ここに、いたい」 「うん。薔ちゃんはずっと、こうして、いつまでも俺の傍にいればいいよ」  黄色が滴るように鮮やかな山吹の花影で与えられた抱擁は、幼い薔太の胸に深く強く刻まれた思い出だ。  その時からずっと、薔太の世界の中心は紫央だった。紫央のいうことは絶対で、彼の為ならば自由を謳歌する他の学生とは違い、少し窮屈なこの暮らしも耐えられると思うのだ。 「紫央さん……。もう行かないと。お客様がいらっしゃいます」   いつまでもこうして傍に寄り添っていたかったが、そうもしていられない。名残惜し気に預けた胸から顔を起こした薔太の綺麗な額に、紫央が唇をそっと押し付けてきた。 「分かったよ。いこうか」  薔太は照れて頬を染めたが、紫央は涼しい貌だ。  紫央は日本の男性にしてはスキンシップが過多だが、それもきっと父方のお国柄なのだろうと薔太は納得している。  摘んだ花がらを入れたバケツをさりげなく取られて、連れだって庭を横切る。二人で園芸用品をしまった物置に諸々を片づけてアトリエに戻ると、気の早い団体がすでに玄関に到着をしていた。 「薔太くん!」  親し気に名前を呼ばれて驚いた薔太は大きな瞳を見張って一瞬立ち止まった。  すぐに大学で見慣れた面々を見つけて顔を輝かせると、歩みを速めた。日頃せかせかとすることなどない上品な紫央だが、何故かやや眉をひそめ、長い脚の歩幅を生かして薔太についてくる。  門の前に並んだ七人ほどの団体の顔ぶれを見回し、薔太は感嘆の声を上げた。 「え、菱田さん? 大場先生も! みんなもいる! どうしたんですか?」 「薔太、こちらの方々は?」  肩に置かれた紫央の手に、少しだけ力が籠もる。 (紫央さんの声、なんだか少し怖い)  きっと予約よりずいぶん早い時刻からわいわいと賑やかすぎるからだろう。彼らに対していささか呆れているのかと薔太は理解した。紫央は物静かであまり喧しいのを好まないのだ。 「大学の同じ学部の友人たちと、文学部の学生さんと大場先生も……。大場先生は『片桐鉄線』先生の研究者で……」  薔太を助手にしたいと声をかけてくれた教授だが、それを言うと紫央の機嫌を損ねるような気がして慌てて口をつぐんだ。 「大場先生のことは存じ上げているよ。まさか今日お会いすることになるとは思ってもみなかったですが」 「葛城さん、お久しぶりです。学生たちのおかげで、私もようやく金蘭亭に来られましたよ。実に喜ばしい。ここで鉄線の秘蔵っ子に彼の話を直接聞けるとは、僥倖です」   大場は四十絡みの銀縁の眼鏡をかけた、かつての文学青年らしい神経質そうな見た目だ。彼が血管の浮き出たほっそりした手を差し出してきたので、紫央はわずかに口元だけで微笑んでその手を握り返した。  「薔太。同じ大学の皆さんがいらっしゃるなら、俺に一言言ってくれてもよかったのに」  紫央がなんだか固く閉ざされたような声色で聞いてきたので、薔太は慌てて首を振った。

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