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第8話

「それはそれは」  屈託ない笑顔を見せる友人たちと違い、大場教授と紫仙の研究者だという女性が意味深な目くばせを交わし合う。それを目にした薔太の胸の中にもやっとしたものが広がった。 「随分な入れ込みようだな」 「……それはどういう意味でしょうか?」  意図を図りかねた薔太が眉を顰めると、教授は唇を吊り上げるだけの、嘲りを帯びた笑みを向けてきた。 「そのままの意味だ」  返答に困り眉を下げ、戸惑う薔太に矢継ぎ早に大場が続けてきた。 「君、『甘い束縛』は当然読んだことがあるだろう?」  「『甘い束縛』? すみません、俺まだ読んだことがないんです」 「あきれたなあ。君はこの資料館の正式な学芸員を目指しているのだろう? そうしたらその人物の育った時代背景、学んだ学問、同時代の文献、作品ならば随筆、小説、絵画に至るまですべて目を通すべきだろ」  今の大場に張り付いた笑顔は、あの女性秘書や紫央の母が時折見せる、薔太を嘲るようなそれに似ていた。大きな目を見張り、そのあと目を伏せ、薔太は小さく頭を下げた。  大場から勉強不足を指摘され、とくとくと心臓を鳴らし薔太は、かあっと頬を赤らめた。そして消え入るような声で呟いた。 「『片桐鉄線』の作品は少しその……。性描写が強めな部分もあるとのことで、しぃ、紫央さんに成人するまで読むのは待ちなさいって。ずっと言われていたので」 「それはまた、随分と過保護だな」  紫央を悪く言われたようで反論をしたくなったが、流石に今この場で目上の人にそれはないとぐっとこらえる。  紫仙は一般的には優美な筆致で愛らしい市井の子どもら、神聖さすら漂う美人画、今でいうイラストレーションの走りのような、ひたすらに美しい風景画等を主に描いていた。  彼が片桐鉄線名義で小説を書いていたことは没後に分かったことだ。片桐鉄線が書いた小説は恋愛ものだが、ジャンルとしたら不倫ものと呼べるだろう。  寺にも飾られている静謐な絵を描く画家のインモラルな小説は、その存在を人々に知られた当時話題になったらしい。 (俺だって、あらすじぐらい知ってる。主人公の男は画家だ。幼いころから恋していた幼馴染みの女性が別の男と結婚し、彼も家の定めた許嫁と婚姻関係を結ぶ。しかし夫に先立たれた女性が一人娘を連れて路頭に迷いかけたところを、主人公は自らの隠れ家とも呼べる庵に匿う。かつて恋した未亡人と画家は同居し、二人は次第に死んだ親友に対する情と初恋の人に対する情に揺蕩いながらも、惹かれあう)  薔太は画家の先生が書く話だから主人公が画家なんだ、ぐらいにしか思っていなかった。 「俺も先日成人しましたから、ちょうど読もうと思っていたところです。すみません。いつかここで『片桐鉄線』展を開きたいとは思っているのですが……」 (でもきっと、紫央さんのお母さまがいい顔をしない。父の作品の中であれは『恥部』だって言い切ったらしいから) 「君は、箱入り息子というか、箱庭育ちというか……。まあ、仕方ないだろう。君のおじいさまは著名な薔薇の園芸家で品評会でも賞を獲った『千朱』を作出したので有名だったらしいが、道楽みたいなその援助をし続けていたのも紫仙だった。ここでの仕事を任せていたのも、ただの友情ばかりと思っていたのかね? ではしっかり読んでみるといい」 「……あの。私も片桐鉄線についてはその……」  眼鏡の奥、じぃっと熱っぽくもひた向きな瞳を向けてきたのはここの予約を取った女性だ。彼女から向けられている眼差しもまた、また強い熱を帯びており、薔太は居心地の悪さを感じていた。いわばこれは好奇の瞳というたぐいのものだろう。紫央と二人で歩くときにたまに向けられる女性たちの羨望の眼差しにも似ているようで、もっと明け透けで遠慮がない。  曖昧に微笑んでから他の学生の元へ動こうかと思った矢先、杉田が静かに囁いてきた。 「あの、少しだけ、いいですか?」 「はい」 「卒論を書く上で片桐鉄線について色々と調べて私なりに作品の解釈や新しい発見をしたいと思っているんです。それで質問があるんですが、解散後に少しお時間をいただけますか?」  彼女がすまなそうに申し出てきたので、親切心と職務に対する使命感から薔太は愛想良く頷いた。 「承知しました」  一時間半の見学ツアーを終え、他の学生たちが薔太に「また明日」と手を振りながら解散していった。そして片桐鉄線の研究者である学生と教授の二人だけがその場に残った。  薔太は薔薇や金木犀が入った香しい紅茶を淹れると、テラスで待つ二人の元に紫仙愛用の鎌倉彫の盆で運んできた。

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