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第10話
父の分からぬ自分、紫仙の優しい眼差し、紫央の母から向けられる憎しみ、世間から身を隠すようにこの場所にいた祖父。そしてこの場所ごと、過去と息子を捨てた母。
さあっと血の気が引いてきた。震える指で、何とか薔薇柄のカップをソーサーに置いた。
「妻子を本宅に残してもここに入り浸っていたわけは、そういうわけなんじゃないかってね。君も共に暮らしていて、何か思い当たる節はあったのじゃないかね?」
「俺は……」
二の句を告げずにいる薔太にとどめを刺すように、教授はにいっと微笑んだ。
「私は君とあの美男の館長さんの関係も気になって仕方がないね。まるで君たちは紫仙先生と君の家族の因縁の『煮凝り』のようだ。震えがくるよ。興味深くてたまらんね。だからこそ、ぜひ私も君にあの小説を読んだ意見を伺いたいものだ」
※※※
その晩、紫央が金蘭亭に帰ってきたのは夜もとっぷりと日が暮れてからだった。耳の良い薔太は表に車が止まった音にすぐ気づく。待ちわびた男を迎えようと、浅葱色の有松絞りの浴衣の裾を乱して玄関まで走り寄って行った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「くしゅっ」
昼間の予想通り、夕刻から降り出した雨ですっかり気温が下がってしまった。小さなくしゃみをした薔太の髪の間に手を入れて、紫央は秀麗な眉目を顰めた。
「髪がまだ湿ってる。これでは湯冷めして、風邪をひいてしまう。すぐ床につきなさい」
紫央は着ていた背広を脱ぐと薔太の薄い肩に着せかけてくれる。薔太は頬を染めつつ、上目遣いに紫央の双眸をひたと見つめてから首を振る。
「いやだ。今まで紫央さんが帰ってくるの待ってたんだから」
それでなくとも昼間の出来事が尾を引いて眠れそうにない。せっかく今日はマンションでなくこちらに紫央が戻っているのだからどうしても話がしたかった。
「可愛いことを言ってくれるね」
背後でタクシーが静かに出発した。薔太はそのまま頭を引き寄せられて一度ぎゅっと抱擁を受ける。
母がもしも紫仙の若い愛人だったのならば、何故祖父はそんなことを許したのだろうか。それともその時は母と紫仙は相愛であったのか? 分からない。そしてもしも紫仙が自分の父親ならば、紫央と自分は……。
(俺としぃちゃんは叔父と甥の関係になるんだ)
男女ならば婚姻が許されぬほどに血が濃いことになる。
なんだか昼間から腹のあたりによどんでいた心細い気持ちが込み上げて、自ら紫央の広い背に手を回してしがみつく。
「どうしたんだ? 今日はずいぶん甘えただな」
頭の中をぐるぐると回る問い。気を許したらすぐにでも『しぃちゃんはどこまで知っているの?』と口から零れそうになってしまう。ぐっと瞼を瞑り、温みを感じてひと心地つくと、薔太は紫央を気遣った。
「……紫央さんも身体が冷えてしまいます。早くお風呂で温まってきてください」
「そうするよ。明日から数日休みをとった。仕事を片づけていて中々こちらに顔を出せずにすまなかった。薔太の成人祝いがおざなりになってしまったから、急だが近場に旅に出てもいいと思っている。どこか行きたいところは?」
一週間もこちらに顔を出さなかった理由はそれだったのかと、合点がいって嬉しくなった。てっきり婚約話が進んでしまい、こちらと疎遠になっていくのかと気を揉んでいたからだ。紫央からの思いがけない申し出に心が躍ったが、薔太は控えめに微笑んで背の高い彼をじっと見あげた。
紫央の本当は何もかも見透かしているのではないかと思うような深い藍色の瞳は本当に美しい。見惚れながら薔太は囁いた。
「嬉しいです。紫央さんとここでゆっくりお休みを過ごせたら、俺はそれで十分です」
そう一度言葉を区切ってから、一度紫央の胸にこつんと額をうち付けた。
「薔太?」
そののち意を決し、薔太は紫央のシャツの袖をぎゅっと掴む。紫央はどうしたんだ? といわんばかりに僅かに首を傾げた。
「あのね。紫央さん。俺、今晩、どうしても話をしたいことがあって……」
「分かったよ。では部屋で暖かくして待っていなさい」
紫央は逆の手で薔太の頭を童にするように撫ぜる。薔太は潤みかけた瞳を伏せて大きく頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
金蘭亭の設備は建てた当初から変わらぬ部分の他に、非公開にしている主に水回りの設備が存在している。
小さな屋敷を『母屋』とするならば、庭の手入れの道具を片づけた小屋とその裏にある平屋の『離れ』が祖父の洋紅と薔太が暮らしていた場所だった。
紫仙はこの他にもいくつか屋敷を持っていたので、いつでもここにいるわけではなかったらしい。しかし妻を亡くしてからの最晩年は、完全にこちらに居を移した。
通いの家政婦さんの作る食事をとったり、たまには祖父とテラスで晩酌をしたりと心穏やかに暮らしていたのだ。
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