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第八章 焼戻

翌日、沖縄県において、梅雨明けが宣言された。 同時に、晴れ男の義史は大城硝子に現れなくなった。その翌日も、翌々日の土曜日になっても、工房を訪ねて来る中に彼の姿は無かった。 うち木曜日と金曜日は、靖も姿を現さなかった。二人は、〈大城硝子〉を立ち上げる前、靖が職人として修行を積んだ国頭郡恩納村に向かったと言う。工房主不在という事もあり、大城硝子はどことなく閑散としていた。 ひさ子からそれを聞いた理久は、こっそりと安堵したものだ。母の店で出会(でくわ)して以来、どのような顔をして彼に会うべきか分からなかった。 バツイチという言葉やその意味を、知らなかったのではない。むしろ、理解するには充分過ぎるほどの環境にいた。 二〇一六年現在、離婚率が全国で最も高いのは沖縄県だからである。 主な原因は夫から妻や子供への家庭内暴力、あるいは犯罪に関与しての逮捕であり、その根は貧困にあると指摘されている。沖縄県の最低賃金は国内最低、貧困率は全国平均の二倍に届かんばかりだ。 こうした事情には、観光以外に主だった産業の無い社会的背景がある。また離島という土地柄、収入の割に生活コストがかかるという点も挙げられるだろう。収入額の増減が激しい自営業者、非正規雇者が多く、そうした状況は経済面ばかりでなく精神面をも不安定にさせる。 未婚女性の出産率の高さもまた、そうした状況から来ていると考えられる。多感な思春期に安心と居場所を与えてくれた相手への依存から、十代のうちに妊娠と出産を経験し、高校を中退せざるを得ない少女たちがいる。 アメリカの統治下に置かれていた時代、中絶が禁止行為とされていた事もあり、多くの国際児が生まれた。彼らの父親には、妻子を残して国に帰る者も珍しくなかった。現代の少女たちもまた、男性と家庭を築こうとするも上手くいかず、必然的に未婚の母になるか、子供を抱えての離婚に至るケースが多い。 母子家庭と貧困という問題の結び付きは、進学の選択肢を取らなかった理久にとっても、全くの他人事ではない。理久が大城硝子で三年の月日を過ごす傍らで、幼馴染の直晴は東京への大学進学を考えている。 義史に結婚と離婚歴があり、さらに子供がいるという可能性まで考えられるほど多くの経験を、未熟な少年がしていなかったに過ぎない。 義史の過去に、どこかの女性と、人生を添い遂げようと契りを結んだ事がある。それを知っただけで、人知れず抱えていた想いが、実を結ぶ前に砕けたように感じたのだ。 そこに、美香の妊娠の話題が拍車をかけた。相手の男が誰であるかなど、知る由もない。十七歳になっても、まだ手の届かない場所で起こる出来事がある。そんな抱え切れなくなった感情を吐き出すと、美香と、それを伝えてきた晋一への怒り、そしてショーケースに叩き付ける暴力となって現れたのだ。 制御を失なった、感情的な面を見せてしまった後は、何とも気まずいものであった。 県道三号線を、理久は原付で南下していた。大城硝子は数年前より広報活動の一環として、町の店頭や郵便局、役所に無代紙を置くようになった。現在は那覇にも(つて)を持ち、そこへ届ける分を郵便局から配送した帰りである。 道路沿いには、いくつものビーチがある。今日は天候に恵まれ、午後三時の海辺の情景は写真に記録したくなるほど美しかったが、見慣れてしまえば心は容易に動かなくなるものだ。砂避けの林を吹き抜けた風が運んでくる潮の香りも、多感な思春期を刺激するには至らない。 と、何かがコンクリート製の堤防を越え、ふわりと飛んできた。 理久は原付を急停車させ、ヘルメットを被ったまま駆け寄る。道路に落ちたのは、麦わら帽子だった。デザインから、男物であると分かる。 拾い上げるとすぐに、 「すいませーん!」 ビーチの方から大きな声がした。理久は目を凝らしてそちらを見る。 現れたのは、義史だった。 「いやあ、申し訳ない。わざわざ停まってもらって。この辺よく走ってるんですか?」 申し訳なさそうに、同時に親しげに話しながら歩いてくる。海遊びをするつもりだったのか、足元は裸足で、見覚えのある赤いシャツの前を開けており、シーサーの大きな柄の入った海水パンツを穿いている。 互いの顔が認識できる距離まで近付くと、ぱっと表情を明るくした。 「あらら、これはこれは! 理久くんではないですかあ!」 これまでも何度となく、理久を見つけた際に見せてきた、嬉しそうな表情と口振りだ。髪を後ろで短く一つに結わえており、手首にはヘアゴムの形に日焼け跡がついていた。 「……こんちは」 「はい、こんにちは。あ、帽子も。ありがとね」 小さく会釈をした理久に、義史は大袈裟に腰を折って返した。そして、受け取った麦わら帽子を頭に乗せながら、 「メットかっこいいね。マーカイガー?」 と、いつものように陽気な調子で訊ねてきた。 理久が何も言わず首を傾げると、今度は恥ずかしそうに笑う。 「どこ行くの、ってマーカイガーじゃなかったっけ……またおつかい?」 それを聞き、ようやく理解した理久は、原付に目を落として答えた。 「おつかい……の帰りです」 「そっか、えらいね」 やはり、幼い子供に接するような口調であった。 「よっしーにーには、何してたんですか?」 「俺? ちょっと黄昏(たそが)れてた。懐かしいなあと思ってさ」 「懐かしい?」 「奥さんと初めての沖縄で来た所なの。ここ」 それを聞き、またしても理久は、胸がざわつくのを感じた。彼が何度も沖縄を訪れているのは知っている。不自然な事は何もないはずだ。 「厳密には、元、奥さんだけど」 何も知らない義史はそう付け足し、両手を腰に宛てがって、海の方へと視線を向けた。麦わら帽子の影になった横顔は、どこか寂寥感を湛えているように、理久の目には映った。 「理久くんに言った事あったっけ? おじさん、バツイチなの。子どもも居てさ」 「はあ」 伝えようもない、複雑な感情に苛まれる。腹の底を、バーナーの火でじりじりと炙られるようだった。 「糸満は──言っちゃ悪いんだけど、ちょっとマイナーって言うかさ。良い意味で穴場的な、そういう所に連れてっちゃうんだよね、俺って」 照れくさそうに言う義史だったが、不意に、理久に顔を向けてきた。逸らす前に、視線が合ってしまう。 「もう見飽きちゃった? (チュ)(ウミ)は」 それは、ビーチに来るようにとの誘いのようだった。 理久はひとまず原付を道の脇へ寄せると、ヘルメットと上着を脱いでシート下のメットインに押し込み、鍵を掛けた。汗で髪が濡れ、癖が潰れてまとまっているのが気になった。 日曜日だというのにビーチは閑散として、家族連れが二組ほどいるばかりだ。近くでは、リゾートホテルの建設が進められている。 堤防の向こう側は大きな階段状になっており、下段に行くほどビーチに近付いて、年季の入ったコンクリートに、白い砂がまぶされていた。風は海から陸に向かって吹き、潮の香りを理久の鼻まで届ける。 波打ち際の少し手前に、義史の物と思われる荷物がぽつんとある。コンビニエンスストアのロゴが入った白いビニール袋と、見覚えのあるバッグの間に、島草履が並べられ、その上にスマートフォンが行儀よく置かれている。 義史は荷物のそばに腰を下ろすなり、ビニール袋をガサガサとかき回した。理久もその隣に座る。 「沖縄のコンビニって、絶対紙パックにストローつけてくれるよね」 取り出されたのは、紙パック入りのレモンティーだった。義史は話しながらパックの口を開け、プラスチックストローの封を切る。 「内地は違いますか?」 「鹿児島では聞いた事あるかなあ。でも、基本的にないね」 そして、はい、と理久に差し出した。あまりにも自然な動きと、開けてしまった紙パックを前にして、理久は受け取らざるを得ない。一ガロンに相当する九百四十六ミリリットルのパッケージは、アメリカ統治時代の名残だ。 「理久くんはどう? 彼女──ヤーノイナグとデートするってなったら、どんな所行くの?」 軽く頭を下げた理久を見る事もなく、ビニール袋をかき回しながら訊ねてきた。女性の名前を出されて激高した姿を確かに見ていたはずだが、触れてはならないという感覚など無いらしい。 「……居ないですよ」 理久は小さく答え、レモンティーを飲んだ。そうして初めて、喉が乾いていた事に気付く。 「そうなの?」 義史は三百五十ミリリットルの缶ビールを一本と、一口サイズのカルパスの大袋を取り出して並べる。 「オジー自慢の、ってね」 独り言のように言って缶のプルトップを開き、差し出してきた。淡い金色のラベルに、青色の星が三つ並んだロゴが印刷されていた。理久は黙ってそこに紙パックを近付け、軽く合わせた。 「はい、カリー」 義史は飲む前から楽しげに笑い、缶に口を付けて流し込む。髭の剃り跡が残る顎の下に、喉仏が上下する。酒に興味を示して来なかった理久だが、彼が喉を鳴らして飲むビールは、不思議な事に美味そうに見えた。 「……まあ、今どきの子はそれが普通なのかな。好きな人もいないとか、普通に言うもんね」 義史はそこでようやく話すのを一度止め、カルパスを口に放り込んだ。理久くんも食べてね、という言葉を最後に、にわかに沈黙が訪れる。 今度は理久が思い切って口を開く。 「い、居ない事はない、です……好きな人は」 そう伝えれば、興味を示してくるのが分かりきっていたからだ。 「えっ! まじで!?」 案の定、義史が大きな声で聞き返してくる。まさかその相手が自分であるとは、露ほども考えていない様子だ。 理久はやはり目を合わさず、下を向いた。打ち寄せる波が砂浜を濡らすのを見つめる。 「でも……どうしたらいーか、分かんなくて」 「おおー! なんだ、ちゃんと青春してんじゃん!」 義史はますます嬉しそうに目を輝かせて言い、理久の背中を、ばしばしと叩いた。痛みはなく、ただ息が苦しくなる。理久はそれを誤魔化すように、ストローを口に咥えた。 「そっか、アプローチ方法ねえ……」 まるで相談を持ち掛けられたかのように、乗り気の義史は顎に手を遣って考え始める。 「俺は結構、プレゼント攻撃とかしてたなあ。そんな高い物じゃなくて、小さいお菓子とか、ジュースの差し入れとかさ」 それを聞き、理久は吸い込んだレモンティーを吹き出しそうになった。慌てて飲み下し、口を押さえる。 「あ、でも二十代になったら見栄張ってバッグあげたりしたかも。若気の至りってやつですな」 隣にいる義史が呑気に続けているが、聞いている余裕は無い。レモンティーの香りが鼻を、咳き込みたい衝動が喉を突き上げてくるのだ。 理久は堪らず紙パックを置いて激しくむせた。 「えっ! 何で!?」 驚いた義史だったが、すぐに手を伸ばし、背中をさすって来る。 理久は顔を背け、しばらく咳き込んだ。背中を叩かれた時よりも、二重にも、三重にも、苦しさがあった。思わずその手を払い除けてしまいたくなるほど、義史は優しかった。 咳は程なくして治まり、喉につかえる違和感だけとなる。理久が深く息を吐き、体をひねって義史の方を向くと、色付き眼鏡の奥の目は安心したように和らいだ。 「大丈夫? 変なとこ入っちゃう時あるよね」 しかし理久が何を言うより先に、義史は別の事に気付いてその笑みを消してしまった。 「足、どうしたの?」 不意に訊かれ、理久は自分の足元を見た。 薄らとストラップの形に日焼けした左足の甲に、大きな青痣がある。三日前、ビール樽を落とした時に出来た物だ。 「ちょっと、おーるーしたわけ……」 理久は焦ってしまった。見たままを伝えると、義史は心配そうに眉根を寄せる。 「どっかにぶつけた? まだ痛い?」 「痛いけど、もう、平気です」 手で痣を隠すようにして応えた。怪我をした経緯だけでなく、その要因を、本人に知られてしまいそうな気がした。 この気持ちを、伝えてはならない理由はない。しかし、伝えた後に待ち受けているであろう未来を思えば、容易に伝えるのも憚られる。美香の二の舞になる気がした。 「そっか。でも、冷やした方がいいんじゃない?」 そう言って、義史は立ち上がった。麦わら帽子を荷物とまとめて置くと、裸足のまま、躊躇する素振りもなく水の中へと入っていく。 膝まで浸かり、理久を呼ぶように振り向いた。 理久も同様に立ち上がって島草履を脱ぎ、後に続く。 「ね! 気持ちいいでしょ?」 色付き眼鏡の上に手を翳した義史が言ってくる。 その向こうに、水平線があった。広々とした青い空と透き通った美しい海がどこまでも続き、遮る物は何もない。 理久が水に入るのを見守っていた義史が、唐突に切り出す。 「うちの息子ね、蒼空(そら)っていうの。草かんむりの(あお)大空(おおぞら)で、蒼空」 顔を上げた理久が何か言う前に、目の前に広がる海へと視線を向ける。 「女の子だったら海美(うみ)にしようと思ってたんだ。美ラ海をひっくり返して……海に美しいで、海美。俺、苗字に貝とか入ってるし、良い感じじゃない?」 吹き付ける潮風が、彼の赤いシャツと、短く縛った髪を揺らした。 「そんで今回、沖縄に来たら理久くんがいた。ソーラとかリークって、良い名前。でっかくて、誰でも知ってる」 敢えて人々の口調を真似、名前を伸ばして言うのに、 「だからよー」 理久は曖昧に返事をした。 「ダカラヨー、理久くんのことも可愛くて堪んないんだよ、おじさん」 そう言った義史に、理久は確かに心を掴まれた。目を細めた義史の浮かべる、愛おしいものを見るような、柔和な表情は、これまでに盗み見たどの彼よりも温かだった。 「一人で海遊びもつまんないと思ってたんだ。理久くん来てくれてラッキー」 義史が伸ばしてきた手を、思わず握っていた。 次の瞬間、強く引き寄せられる感覚があった。あっと思った時には、義史の体の脇をすり抜け、体勢を崩していた。 ドボン! と大きな音がしたかと思うと、理久の全身は冷たい海に浸かっていた。 肩を擦ってしまうほど浅い砂地は柔らかい。塩辛い味が鼻と口を、泡が肌を撫で、水面に向けて駆け抜けていく。理久は慌てて水を掻き、起き上がった。海水を吐き出し、癖の収まった髪が顔に貼り付くのをかき上げた。 「にーに!」 つい、大声で言っていた。ちむむちむんで怒鳴ってしまった時よりも高い声が出た。 声変わりを経験して以来、大きな声を出す機会が減っていた事、そして、義史の笑い声が響いている事に気付く。大空に響きそうなほど高らかで、無邪気な声だった。 「やっけーしーじゃやっさ……!」 膝に手を添えて立ち上がる。力むと、声は濁って低くなった。 義史は理久を励ますように、それでいてからかうように手を叩き、 「ほら、男の子ならやり返して来なきゃ!」 と言った。それからくるりと背を向け、浅瀬を走って遠ざかっていく。 理久は一度、水面近くまで姿勢を下げると、左足を後ろに引いた。足の甲がずきりと痛んだが、構わなかった。踏み込みをつけて、一気に駆け出す。 水の上を走るかのように、あっという間に追い付き、立ち止まって見ていた義史に掴みかかる。 「わっ、早っ! えっ、ちょっ、待って──」 両腕で体を抱き込み、先ほど自分がされたのと同じように、力任せに海に放り投げた。油断していたらしい義史の声は、上がる白い水飛沫にかき消された。 それを見た理久は笑いを堪えられなかった。 赤いシャツが揺蕩い、ザバザバと水を掻くのを、腹を抱えて笑った。 「ああ、(つめ)てーっ!」 水面から上がった義史は眼鏡を外し、前髪をかき上げて頭を振った。 「ちょっと! 理久くん!」 水の中に浸かったまま、膝を立てて座り、理久を呼ぶ。そして、同じように笑い出した。 「やばいって、まじで! そんなキャラじゃないじゃん!」 「お互い様さー! にーに、何やってるば、ほんとに!」 理久も笑いながら言い返し、濡れたTシャツの前を絞った。 だがその直後、バシャッという音と共に、またしても冷たい感触が浴びせられた。舌に塩辛い味が広がる。義史が海水を掬ってかけて来たのだ。 理久はそれまでどのように振る舞っていたか、どのような感情を抱いていたかもすっかり忘れ、夢中でやり返した。 白い飛沫と泡を立てて水をかけ合い、声を立てて笑った。腕や脚を取り合ったり、体に抱き着いたりしながら、時には倒れ込むようにして一緒に海に入った。目に、鼻に、口に、容赦なく海水が流れ込んでくる。その塩辛い痛みは、これまで義史と出会って味わったどの痛みより新鮮で心地が良かった。 「ああ! もう、終わり、終わり! 降参!」 何度目か水に倒され、起き上がった義史が叫んだ。楽しげではあるが、疲れが伺える声色だった。 全身ずぶ濡れになった理久も、制止されてようやく、息が上がるほど動き回っていた事に気付く。 「もー……おじさん疲れちゃったよ、理久くん」 義史は立ち上がり、怠そうに背中を丸めて浜辺に上がった。眼鏡を持った片手を揺らし、波打ち際をひたひたと荷物の方へ歩み寄る。理久もそれに続いた。波の音が穏やかに追いかけて来る。 「あー、どっこいしょ」 わざとらしく言いながら、荷物の横へ腰を下ろす。 海から上がった理久は肌に貼り付くTシャツを絞った。 「久しぶりです。海で遊んだのは」 何の気もなく、こぼしていた。 そんな理久を見上げ、義史は納得したように言う。 「ウチナーンチュは海に入らないって言うもんね」 「泳げない友達もいますよ」 理久は直晴を思い出して伝えた。海の近くに住んでこそいるが、彼とは小学生の頃に浜遊びをしたきりで、一緒に泳いだ事はない。 それを聞いた義史はくすくすと笑う。 「でもさ、バーベキューとかするんでしょ?」 「最近はあんまり、誘われてないです。忙しいって、思ってる」 「そうなんだ。頑張り屋さんなの、皆知ってんじゃん」 義史は折り畳んだ眼鏡をシャツの胸ポケットに差し込み、後ろに手を突いた。そしてまた、理久に視線を向ける。 「最後に遊んだのはいつなの?」 「十年くらい前です。お(とう)がまだ生きてた時に」 膝まで海に浸かった理久はあっさりと答える。 「ね。お父さんのこと、聞いたらまずい?」 義史の雰囲気が、それまでと変わったのが分かった。明らかに優しい声色になり、少年の心に気安く触れるのではなく、そっと寄り添うようだった。 「別に。でも、話すほどの事も……」 そこまで言い、理久はふと思い出した。 「おじさんから聞いてないですか?」 取材相手である靖のルーツを探るため、二日間も同行していたのだ。話好きで、靖とも良好な関係を築いている義史であれば、たとえ故人との思い出でも聞き出しているだろう。 「ううん、聞いたよ。(おさむ)さんていうんでしょ? 理久くんの()と同じ漢字で」 やはり義史は何の事ないと言う風で答え、一度、手についた砂を払った。 「お母さんのお店でよく会うウミンチュ仲間からも聞いてる。理久くんが顔似てきたって事は、かっこいい人だったんだね」 大城硝子で義史と知り合ってから、ちょうど一週間になる。が、彼がどれほどの頻度でちむむちむんを訪れているのか、理久は知らない。 でも、と言葉を切った義史は、態度を改めるように姿勢を起こし、膝の前で緩く指を組んだ。 「お父さんとしてのその人は、理久くんからじゃないと見えないじゃない?」 義史が何故、父について知りたがるのか。 単なる好奇心からではなさそうだった。彼の改まった態度からも、これまでの関わる相手を不快にさせない振る舞いからも、故人について無用意に首を突っ込む性分でないのは伝わる。 今は亡き理の人物像に、複数の目を通して迫りたがるのは、さながらインタビューのようだ。何か目的があっての行為だとは分かるようでいて、その目的が、理久には見えて来なかった。 理久の頭の中に、忘れようとしていた、母の店での出来事が思い出される。 店に入ってきた理久が樹里の息子であると判明した時、義史は驚きを隠せないようだった。開店時刻から、樹里に遣いを頼まれた理久が店に着くまでの時間で、女将の身の上を聞き出し、漁師仲間と打ち解けているとは、いくら友好的であっても考え難い。 ちむむちむんは、観光客よりも地元住民から愛されやすい、小さな店である。しかし妻を伴って糸満のこのビーチに足を運んだほどの彼ならば、地域に根ざしたあの店を知っていても不思議はない。ともすると、これまでの沖縄滞在でも何度か来ていた可能性さえ考えられた。 「──理久くん?」 呼ばれ、はっと我に還った。どれくらい黙っていたのか、分からなかった。いつの間にやら、暮れ始めた空は黄色から薄水色のグラデーションとなっていた。 「あっ……ごめんなさい、何の話、してましたっけね」 咄嗟に詫びるが、義史はじっと理久を見る。胸の内を見透かそうとするかのように、眼鏡を掛けていない眼はいつになく真剣だった。 そしておもむろに、脇に置いていた荷物を自分の左側に移動させると、右腕を肩の高さに上げて見せてきた。 「おいで」 「え?」 意図を測りかねた理久が聞き返すが、 「いいから」 それだけ言い、まっすぐに見つめてきた。 「…………」 理久はその場で固まってしまう。どうしたものかと思いあぐねる。 隣に座るべきなのだろう。だが、急にそれを促してきた義史の狙いが分からなかった。 かと言って拒めば、気さくに接してくる彼を拒絶するも同義だ。会話を続けるためにも、あの台風の日のように申し出を固辞するわけにはいかなかった。 そろそろと海から上がり、待っている義史の隣へ、先程よりも近い位置で座った。 義史が躊躇いもなく肩に腕を回して来る。 「体温高いねえ! さすが南国育ち!」 何故か嬉しそうに言った義史の指先からは、煙草の匂いがした。海水に浸かった程度では落ちないほど染み付いた匂いが、彼が成人してからの年月を思わせる。 理久は一気に強ばってしまった。肩と首に力が入り、奥歯を食い縛る。耳や頬、そして下腹が熱く火照っていく。心臓の音さえ伝わってしまうのではと思う。濡れた生地が肌に貼り付く不快感なども、考えている余裕はない。 何とも答えられなくなった理久と、何も言わなくなった義史を、傾き始めた陽が夕日となって照らし、砂浜に一つの長い影を落とし始める。 しばらくそうした後、義史が、おもむろに切り出した。 「がお父さんになったら、変かな?」

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