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終章 徐冷

二十五日の夕方、宴が開かれた。明朝に沖縄を発つ義史を送るため、靖を筆頭とした〈大城硝子〉の面々が企画したのだ。 閉店作業は祐介に一任してビーチに集まり、バーベキューセットやタープテントを設置していると、何と〈ちむむちむん〉の常連客らも地酒を手にやって来た。晋一の計らいだと言う。 ひさ子は腕によりを掛けると言って野菜と肉を焼き、理久は紙皿と割り箸を配り、タッパーに詰められた料理を配膳して回った。これは、参加の叶わなかった樹里から言付かった物である。 義史は、これまでで最も有意義で楽しい滞在だったと喜んだ。 水平線に日が落ちる頃、すっかり上機嫌になった面々は、誰からともなく沖縄民謡を歌い出した。さらに祐介が合流する頃には、晋一の持って来た蛇味線の音色が響き、指笛に合わせて踊り始めていた。 最年少にして唯一の未成年である理久は所在なく、まるで置かれた荷物に隠れるように、タープテントの隅に座っていた。 アルミ製の脚にナイロンの座面をつけたスツールは軽量で、座っている尻の下にクッションはない。タープの下はランタンの放つ光によって明るく、暖かく見えていたが、LED電球から熱は発せられず、動かずにいると夜風が冷たかった。 「理久くん! 理久くん理久くん!」 どれくらいそうしていたか、義史が大声で名前を呼びながら近付いてきた。 配ったプラスチックコップではなく、琉球ガラスのタルグラスを手にしている。靖から友情の証だと贈られたそれを、すっかり気に入ったらしい。透き通った赤色に、細かい泡と、白い(かすり)のような模様が入れられていた。 「楽しいねえ、理久くん!」 例に漏れず上機嫌な義史は、素面の時に輪をかけて陽気になっている。目元に朱が射しているのが、ランタンの光で透けたレンズ越しに見えた。 「そーですね」 理久は短く返事をする。ズボンのポケットには、先日作った、とんぼ玉を通したヘアゴムを忍ばせてある。今日のうちに渡さなければ、といった焦りを、悟られるまいとしていた。 靖の贈った品とは、出来映えだけでなく意味合いが異なる。人前で渡すなどという事は、できそうにない。 「何飲んでるの?」 義史が背を屈め、タープの下に入ってくる。その顔から自身の手元のコップに眼を落とした。 「ジュースです」 「あ、お酒じゃないんだ。真面目だね」 「はあ」 理久はどのように切り出すか迷い、曖昧に返事をするのみだった。 ところが、事もあろうに主役である義史から誘いがあった。 「……ちょっと、抜け出さない? 俺酔っ払ってて足元危ないから、付き添ってよ」 理久は義史に連れられる形でテントを出、飲み物をテーブルに置いて、波打ち際へ歩き出した。 人けのない方へ向かうと、口笛が遠ざかっていき、代わりに、波の音がよく聞こえるようになる。ビーチに街灯はなく、堤防の向こうにいくつかの灯りがあるばかりだ。 夜の海は、理久の知るよりも深く濃い闇の中にあった。 「ごめんねえ、大人が集まるとすーぐ呑んじゃって。そりゃあ子どもは楽しくないよね」 義史は一度来た方向を振り向き、明るいランタンの照らす人の輪を見て、のんびりとした口調で言った。 やはり彼の、理久に抱く印象は変わらない。輪に入れずにいるのを、面白くなさそうにしているとして声を掛けてきたのだ。 「ま、理久くんも分かる時が来るよ。自分で作ったグラスでお酒呑むとか、楽しそうだなあ」 そう言ってまた歩き出そうとした義史が、理久の視界から消えた。砂に足を取られて躓いたのだ。 「わっ!」 「あいっ!」 理久は咄嗟に手を伸ばしていた。 転びそうになった義史が、その手を借りて体勢を持ち直す。驚いた表情を浮かべていたのも束の間、すぐにふやけるような笑みを取り戻していた。 「……と、危ない危ない。暗いのにグラサンかけてるから見えないんだって思ったでしょ」 と、色付き眼鏡のつるに触れて見せ、 「残念ながら、度入りなんだなこれが。だから外したって、それはそれであんまり見えないんだよね」 ばかだよなあ、とみずから言って笑う。 それから繋いだままの手に気付き、ありがと、と言って離した。指先がわずかに引っかかり、それが、理久の中に尾を引いた。 「……よっしーにーにが、好きです」 なんの前触れもない、告白だった。 「ん?」 眼鏡を掛け直した義史は一度聞き返し、いっそう笑顔になる。 「ほんとに? 嬉しいなあ。若い子って何考えるか全然分かんないし、実はあんまり懐いてくれないもんかと思ってたから」 「そーいう意味じゃなくて……」 理久はそこから言葉を続けられず、俯き、左手の親指を右手で握り込んだ。 すると、義史も何かに気付いたように口を引き結ぶ。細められた奥二重の視線が、理久から背けられた。 「んー……それはさあ、東京への憧れなんじゃないかな」 「え?」 「理久くん、東京行きたいんでしょ? それで俺は──自分で言うのもナンだけど、東京の人間。だから、ね?」 「…………」 彼の言わんとする事は、理久にも伝わっている。しかしそれだけでは説明できそうにない事もまた、伝えなければならないのだ。 だが、義史は腰に片手を宛てがい、何もない闇のような海を見て続ける。 「理久くんのことは好きだよ、まじで。近頃の若者とは思えないくらい頑張ってるし、こんなうっとうしいおじさんにもちゃんと相手してくれて。ほんと、超いい子」 黙り込んでしまった理久に対し、義史はいつも以上によく喋った。間を空けぬよう、付け入る隙を与えるまいとすらするようだった。 「でも、落ち着いて考えてみな? 俺は男で、倍も歳くったおっさんで、バツイチで子どももいる」 そして、理久に顔を向け、今度はおどけてみせる。 「あれ? なんか、自分のこと嫌いになっちゃいそうだな」 はは、と乾いた笑いを続けた彼は、あわよくばこの件が冗談で済むように、波風を立てないようにしている。 アートライターとして、取材の成果と楽しい思い出だけを持って帰る予定なのだ。このままでは、旅先の人々と築いた関係に、亀裂を入れる事になる。そのように考え、またそれを避けようとしているのは、理久にも分かった。 上手く言葉が出せなくなった理久は、もどかしく両手をポケットに手を突っ込んだ。小さな正方形の封筒を引っ張り出す。大城硝子と判の捺された袋から、中身を取り出して見せた。 「──こ、これ! おれが作りましたっ!」 あの晚、祐介の作成したとんぼ玉は、芯棒から取り外してパーツを付けられると、オレンジ色に透き通ったガラスのイヤリングになった。そこへ、絵の具を使い、いかにも女性が好みそうな、花柄の模様を描いていた。 片や、理久の手元にあるのは、形こそ整っているが何の柄もないとんぼ玉を、黒いゴムに通しただけの代物だ。数珠ほどの大きさの、透き通った赤と青のガラス玉が一個ずつ留まっている。片方は義史自身が好きだと言っていた色、もう片方は義史が我が子の名前に付けた空や沖縄の海を思わせる色だ。 靖の渡した立派な琉球グラスともまったくの別物で、大きさも、見映えも劣る。義史の好みを把握していようとも、今の理久には叶えるだけの力が無かった。形作って渡すには、これが精一杯だった。 「えっ? えっ?」 状況が把握できず、戸惑う義史の反応は珍しかった。理久はその左手を取ると、既に着けられているヘアゴムと並べるように押し嵌めた。 「よっしーにーにのために、いつも、髪留め着けてるからに……」 「何? 俺が貰っていいの?」 義史は不思議そうに手首を顔の高さまで挙げ、遠くに見える明るさに透かす。そして、もう片方の手で眼鏡を額に押し上げるなり、 「うわっ、すごい! すごいじゃん! かっこいい!」 と、嬉しそうな声を上げた。嘘偽りもなく、世辞でもない。作品と認めた物を目にした彼の反応は、いつも正直そのものであった。 その様子を見ながら、理久は先程と同じように親指を握り込み、声が震えそうになるのを抑えて訊ねる。 「これで、真剣なの分かりますか? おじさんのグラスは同志の証だけど、おれにとっては違います。おれだって──おれは、子供(わらば)でねーから」 すると、ようやっと義史は理久をまたまっすぐに見た。掛け直した眼鏡の奥は暗く、どのような目を向けられているのか、理久からは分からなくなった。 「……分かってるよ。手、ずっとそうやってんじゃん」 仕事中ですら陽気だった彼の真摯な態度に、理久は却って鼓動が早まってしまうのを感じた。親指を握った手の平に、汗をかいていた。 「いま怖いでしょ、すごく」 「…………」 指摘された理久は黙って両手を離し、体のわきに下ろして拳に握った。 それを見た義史が、大きく溜息を吐いた。手首に嵌められてしまったヘアゴムに、もう片方の手で触れる。 「……やっぱり、受け取れない。貰えないよ」 理久の胸に、ひび割れのような痛みが走った。重く、押し潰すような苦しさを伴っていた。 覚悟はできていたはずだ。 この想いを自覚した時から理解していた。二人の関係を考えれば考えるほど、やはり感心されるものでない。義史の判断は正しく、真っ当で、当然である。 実るなどありえない事と、実ってはならない事を分かりきった上で、理久はこの行動に出た。 それでも、やはり本人の口から言葉となって伝わってきた現実は、いつか足に受けたものなどとは比べ物にならなかったのだ。 波の音が遠ざかり、聞こえなくなった。しんと静まり返った闇の中に、理久は独りで立ち尽くしているような感覚に陥る。打ち付ける海水は靴下まで染み込み、重く、冷たく、足首を掴んで飲み込もうとしてくる。 「──って、本来は言うべきなんだろうね」 そんな理久の心を、義史の声がふたたび陸へと引き戻した。 理久は耳を疑い、俯いていた顔を上げる。 義史の手は嵌められたヘアゴムに触れてはいたが、それを外そうとはしていなかった。代わりに、うなじの髪を触る。前髪の中では、眉根を寄せているのが見えた。 「ああ、弱ったなあ……。俺、芸術で食べてる人の作品の重み、分かってるつもりだからさ。貰っちゃうのは理久くんに失礼だし、貰わないのは作家さんとして失礼だよね。どうしてあげたらいいのか」 まるで独り言のように、悩んでいると口にする。その態度にわざとらしさはない。 てっきり突き返されるものとばかり思っていた理久だったが、義史はそうしなかったのだ。 「も、貰えないのは……僕が男だから、ですか?」 理久が思わず聞き返した。 「それもあるけど──いや、女の子でも貰っちゃだめだろうなあ。まあ、イナグだったらこんなおじさんと仲良くもしてくれてないだろうけどね」 〈やーのいなぐ〉という言葉を、義史に教えたのは理久である。それが、彼が口にするにはおよそ相応しくない表現だと、理久は知らなかった。当然、義史も知らずに使ってしまっている。 なんて言うか、と言葉を選ぶように話しながら、義史は眼鏡を外した。暗さに目が慣れ、薄らと浮かび上がるように表情が見える。 「ワラバじゃないって言っても、理久くんはまだ若すぎるじゃない。俺のことも、東京のことも、知らないからこそ、良いように勘違いしちゃってるんだと思うんだ」 「それは……」 理久には否定も肯定もできなかった。 すると義史は、ちらと遠くへ視線を飛ばした。理久もそれに倣う。宴はまだ続いているようだが、立って踊っているより、ベンチやスツールに座っている人数が多くなっていた。歌声も、蛇味線の音も聞こえない。 そこで、義史がおもむろに切り出す。 「理久くん、いい事教えてあげる。実は俺も、昔ちょっとだけ、男の人が気になってた時期あってさ」 それを聞き、理久は驚いて振り向いた。予想もしていなかった発言に、声が出せなくなってしまう。 義史からは、それまで放っていた、陽気な雰囲気が消えていた。淡々とした口調で語り始める。 「誰にも内緒だけど。ちょうど理久くんぐらいの頃ね、部活仲間だったかなあ。もうあんまり顔とか覚えてないんだけど……だから、分かるよ」 「…………」 理久は何も言えず、ただ話を聞いていた。 「そのお年頃ってさ、ちょっとおかしくなっちゃう事があるの。でも大丈夫だよ。俺は告白しなかったけど、それで良かったと思ってる。経験者が言うんだから、間違いないって」 後に待つ女性との結婚や子供の存在という未来からも、義史の主張は間違っていないと言うべきだろう。 それから、わずかに明るさを取り戻すように、 「あ、理久くんが悪いとか言ってるんじゃないよ! 勇気出してくれたのはすっごく伝わる」 と言って、感動したように両手で胸を押さえて見せた。 「けど、何年かして理久くんが後悔しないように、俺は聞かなかった事にしようかな」 その手を耳に移し、塞ぐふりをする。経験者だという彼が導き出した、理久を思う優しさ故の結論なのだろう。 だが、当の理久には、もう引き下がる事はできそうになかった。 「……それは、嫌やっさ」 震える声で反論した。込み上げてくるこの感情に、その対処に、正解など存在しない。 理久は義史の手を掴み、まっすぐ見上げた。 「ちゅーや最後だから、こげ準備ばして……。僕も、分かってます。歳も離れて、男同士(いなぐどぅし)で、あいえなーって……けど、ここまで行って無かった事にしたくねーからに」 「…………」 今度は義史の方が黙り込む番だった。 掴まれたその手を、振り解こうとはしなかった。眼鏡を取った顔が近くにあり、黒目が左右に揺れて、理久を見返している。受け入れる事も、拒む事もできないという風だった。 しかし、しばらく沈黙した後、 「……そうだね、ごめん。こんなの、一番失礼なやり方だ」 と苦笑した。 「良い大人なのに情けないね。スマートじゃなくて。申し訳ない」 一度でも、一ヶ所でも、ひび割れてしまったガラスが、元に戻る事はない。急な温度変化に耐えられず、歪な形で固まってしまえば、それは作品としては失敗であり、また砕かれて、カレットに戻される。 そうしてガラスは幾重にも工程を経て、形を変えながら、完璧な仕上がりに近付く。一千度をゆうに越えた素地であろうと、最後には徐々に冷ます過程が必要なのだ。 理久はようやく手を離し、ひとつ、提案をする。 「返事できれんなら……僕が工芸士になったら、また会ってもらえますか?」 義史を悩ませながら、理久自身も何も考えていなかったわけではない。アートライターである彼の都合と、今の自分にできる事を考えれば、それが最も筋が通っている気がしたのだ。 「ええ?」 義史が驚いて聞き返す。 「また会えるくらい、大城理久って雑誌に載れるくらいの職人なります。今はとんぼ玉だけど、じょーとーな、しにかっけーグラスば作ります。そーしたら……」 懸命に話す理久が言葉に詰まると、義史が後を続けた。 「……そーしたらその時には、、めちゃくちゃ自慢できる作品になってるかもね」 どうやら、受け取る事に決めたらしい。少年の気持ちより、若い職人見習いの決意を選んだのだ。 だからよー、と理久も同意する。 「僕のこと信じてくれますか? にーに」 その言葉を聞いた途端、義史は顔を綻ばせた。まだ躊躇は残るが、そこに、至福の混じった表情だった。 「……ずるいでしょ、ここでニーニ呼びはさあ」 掠れた声でそう言い、堪らなくなったように下を向いて笑った。 一度目元を押さえたが、すぐに顔を上げる。目元は赤らんでいるものの、口角の上がった、見慣れた笑顔だった。 「俺も、理久くんの作ったグラスで、理久くんとお酒呑んでみたい。もう兄弟(チョーデー)だもん。理久くんが大人になって、まだ俺のこと憶えてたら、連絡しておいで」 そして、ポケットから名刺を取り出した。二週間前に工房に訪れた際、自己紹介のタイミングを逃した理久にだけは渡していなかったのだ。 「はーやー……」 理久は高鳴る胸を押さえられず、両手で受け取った。 望む結果でなかったとしても、構わなかった。義史との縁がここで切れなかったという事は、期待していなかったほどの成果だ。 思わず煌めくような目で見返すと、義史も頷き、もう一度、顔の高さに腕を挙げて見せた。 「理久くんが有名になるまで、これ、預かっとくからね」

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