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第5話 生産活動
直が面会に来てくれるようになってから、今まで以上にリカバリーに熱が入るようになった。症状が強いときの様子を彼に見られたことについて複雑な気分になる。未知なる存在と交信したことを思い出すんだけど、あれは幻覚や幻聴だったという実感がある。怒りや悲しみの感情剥き出しの姿を彼に見せてしまったのは哀しいことだ。
それでも直は僕に会いに来てくれている。長いこと孤独だったけれど、やっと僕にも友人らしい友人ができたのだ。
彼のタイトな攻めは圧が凄くって、つい後ろに下がってしまった。やはり現役との差は大きかった。とても勝ちたそうな気持ちがひしひしと伝わった、思い出深いスパーリングができて嬉しい。
そろそろ作業所へ行く時間だ。交通費に昼食のパンが買える程度の工賃が貰える。そして仲間がいるのはほっとする。アート好きな人もいるし、アニメに詳しい人は多くいる。僕が通っている事業所では箱折内職をしたり、100円ショップ商品の組み立てと検品なんかをしている。
大人しい人が大半だけど、現場仕事で事故に遭った人も通っていた。同じ体育会系出身だけあって僕が元格闘家だって気づいてくれたので、ときどき勝負事の話しをすることもある。彼は作業所で怒鳴ったりすることもあるけれど、特に大きなトラブルにはならないんだ。泥酔して美術館や図書館にある物を破壊し尽くした事件なんて聞いたことがないように、歯止めの効く安全な雰囲気が作業所から感じられる。
そんな生産活動をこなしていると、無為の指令をインプットされ続けているような、草にでも転生したような気持ちになる。僕は貧血気味なこともあって持久力が無い。一時間も作業を続けていると動悸やめまいがする。100円ショップのグッズを60分組み立てるのと、100kgのファイターと60分格闘するのとではどちらのほうが苦しいだろう。
家に帰ると支援員さんに簡単な報告をして、執筆の資料を集めたり、配信をしたりする。そんな平和な日々がずっと繰り返されている。
サンドバッグを打ちのめして響き渡る太い鎖の音色はもはや遠く懐かしい。バトルドランカー、あるいはマッスルドランカーとでも呼ぶべき領域に踏み込むと、帰巣本能のようにジムに舞い戻る人も少なく無いそうだ。今の僕には詩作があるのだから、まずはそちらに一区切りつけなくてはいけない。特に我慢しているわけでもなくって、完ぺきな文芸脳に切り替わっていた。症状の影響で友人や知人が去ったのも、今の僕には好都合だった。
生活様式の激変によって今まで鍛えてきた筋肉が溶けていくような気になる。障害者向けの内職や文芸創作に適応した肉体へと日ごとに変貌を遂げていくのだ。僕はファイターでは無かったし、一般社会からもますます遠ざかっている。それなのに直は僕のことを見捨てないでくれているのは有り難いことだ。
次回の来所予定日である土曜日が待ち遠しすぎた。今日折っている箱は百貨店でも目にする贈り物向けの焼き菓子セットで、延々と組み立てていると食べたい気持ちになってきた。退所後に買って帰り、直やお菓子好きの利用者仲間たちと食べようかな。僕は常識があるほうでは無い。せっかく就労継続支援を受けているのだから、こうした日常のささやかなことから身につけていこうと思った。
同じホームで聴覚障害者の入居者さんに、買ってきたクッキーをおすそ分けをすると喜んで食べてくれた。彼はうなずきつつ、指で輪を作りOKマークを見せていた。僕が気の利く人間になることは生涯無いだろうけれど、こうしたやりとり自体は嬉しいものだ。
そろそろ直がやってくる。僕の症状が表れやすいのは夜間だから、また彼に見られてしまうかもしれない。人と会うのが嫌になってきて、鏡に写る自分の姿を消したくなってくる。
デパ地下スイーツは直にも好評だった。新しく取り入れたトレーニングの効果で肉体や運動能力が更に向上したと言っている。僕には以前との区別がつかず、現役じゃないので判断できないと言っておいた。もはやお互いのことが分かり得ない世界に立っているのだ。
「アンディ、現役のときはたんぱく質をどうやって摂ってた?」
「牛肉の赤身が多かったかな。あとブロッコリー」
一口にたんぱく源と言ってもささみ派、プロテイン無し派など色んなタイプがいる。先輩から牛肉赤身はボディメイクに効果的だと聞いていたし、多少コストがかかるけれど味も好みなので赤身をよく食べていた。アスリート食に慣れた影響でグリルパーティーなどはすっかりしなくなった。派手に騒がなくても良い代わりに毎日ローストビーフサラダのアスリート仕様的なものが欲しかった。僕もそれなりのことはやっていたけれど、直のバトルにかける執念には恐れ入る。
「詩は書けてる?」
「だめだね。前に会ったときから一つも書けないでいるよ。数をたくさん書いてたときもあったけれど、それでは上手く行かなかったし、厳しい批評も受けて心が折れそうだ」
オレンジベースの空色は蒼暗へと色を変えていく。世の真実と、向き合う時間だ。
あの雲には悪魔が隠れていて、僕たちのことを見張っている。ホームの職員はその手先なのだ。僕は毒入りの食事を与えられている。直、君は形の裏側を見ていない。来たるべき光と闇の対決に備えなければいけないのに。
僕のそばにいれば平気だよ。ここにはサンクチュアリが広がっているから。僕は一人、あまりにも孤独な戦いだ。この自由区から離れてはいけない。
「 何かあった?」
「ねえ、直。今日はここに泊まりなよ 」
「急にそんなの、無理に決まってるだろ。許可とか必要なんじゃ」
直はどうしてわかろうとしないんだ。僕と一緒になるしかない無いに決まっているし、声に従うしか無いなじゃないか。天使から転生した人の助けを借りる必要があって、君にも手伝って貰う必要がある。それが選ばれし者の運命だろう。
彼の腕を掴んで引き止めようとした。
「 ちょっと話しがある」
普通に言って聞かないからにはこっちにも考えがある。僕は足同士を絡めて、ベッドに向かってか彼をテイクダウンした。
「直、僕たちは選ばれし者なんだ。指名を受け入れるんだ。前世の約束を思い出すんだ!」
「何言ってるんだ。君、変だよ」
「変だと! 僕の言うことを聞いて、ただそばにいるだけで良いんだ。それが上手くいくから。
その時ドアをノックする音が聞こえた。
「ちょっと、物音が大きいですよ」
入ってきたのはリーダーの女性支援員さんだった。組み伏せられた直の姿を見た彼女は声をあげて驚いていた。
「アンディさん落ち着きなさい。ちょっとお薬持ってきますから、飲みましょうね」
詰所へ走った彼女は液状の薬を手にしている。この薬は飲んだ後の気持ち悪さが気になるから嫌いなのだ。
「飲みたく無い」
「だめですよ。お友達相手にそんな振る舞いをしたからには見過ごせませんから」
飲む、飲まないの押し問答は続いた。他の支援員さんや利用者さんも集まってきたし、いつの間にか直もいなくなっていた。
みんなの視線から察するに、これは飲むしか無さそうなので覚悟を決めた。直、僕のこと嫌いになっちゃったかな。
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