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第1話
「新しいアパートを用意してやった。金もやるからここから出ていけ。」
同棲して二年になる恋人に、お金が入った封筒を突き付けてそう言われた。
ここ三か月ほど、恋人の様子が様子がおかしかったのだ。
急に仕事をやめてふらふらしだし、家にこもっていたかと思うと一週間ほど外泊する日があって、どれだけ問い詰めても無視を決め込んでいた。
挙句の果てに昨日、女の人を家に呼んで事に及ぼうとした。
僕は彼を愛していたので様子を見守るつもりでいたけれど、さすがに女の人との浮気は許せない。醜態だとわかっていても、泣いて喚いて彼を責めた。
そうしたら、彼は別れを口にした。
僕は拒否をしたし理由を聞いたけれど、「別れるのに飽きた以外の理由があるか」と言われてキスシーンを見せつけられたら、もうその場にはいられない。
スーツケースに荷物を突っ込み、二人で暮らした思い出のアパートを出る。
なにも考えられずに足を進めて、気づくとまぶしい光が僕を照らした。そのまま僕は車に跳ねられて──
嘘のようだけれど、重い瞼を開けると彼との同棲を決めた日に戻っていた。
そして、絶対に断るつもりでいたのに、僕は馬鹿だ。
「俺が生涯かけて君を愛し、守り抜く。だから一緒に暮らそう」
最高に幸せだったあの日の告白の再上映に、無意識に頷いてしまっていた。
僕と別れる前の彼はとても優しい。
頭痛持ちの僕の体調をいつも気遣ってくれるし、なにかに追いかけられる夢を見て僕がうなされていると、夜中でも起きて抱きしめてくれ「俺がいるから大丈夫だよ」と優しく囁いて背を撫でてくれる。
出かけるときには、外に出るとすぐに周囲を確認して、道路は安全かと確認してくれる過保護ぶりだし、常に手を固く繋いでいてくれる。
まるで僕をお姫様のように扱い、そう言うと「俺の姫だからね」とはずかしげもなく言う。
いつもいつも僕を見守っていてくれて、そっと手を貸してくれる、そんな人。
僕はまた、どうしようもなく彼を大好きになる。
けれど僕はこの恋人に捨てられてしまうのだ。なにが恋人を変えたのか、その理由を知りたかった。
『飽きた以外に理由があるか』
最後に言われた言葉が頭をよぎる。
こんなに優しくて愛情を注いでくれた彼が僕に飽きた理由はなんだ。
──いいや、ありすぎた。
僕は愛情に甘えてなにからなにまで彼に任せきりだった。
「働かなくていいよ。俺が養うから家でゆっくりしてて」
「買い物はネットでしたらいいよ。受取も俺がやるから面倒じゃないだろう」
なんて言われて、家から出ないで日々グタグタして。
彼と暮らしてからの二年間で、僕は彼がいないとなにひとつできない駄目人間になっていた。家事はやっていたけれど、大した工夫もしないでいた。
それならば飽きられないように変わろう。今なら別れの日までに間に合う。
手始めは料理だ。そう決めて、僕は外に買い物に出かけた。
彼は仕事から帰宅するとすぐ、料理の香りに気づいてくれた。
「ただいま。今日の夕飯はビーフシチューだったな……あれ? ハンバーグ……?」
「うん、久しぶりに一人で買い物に行ってみたんだ」
「……どうして? 材料、あったよね」
あれ? 喜んでくれるかと思ったのに、なんだか顔が怖い。もしかして、無駄使いをしたと思われてる?
「ごめんなさい。明日はあるものを使ってしまうから。でももうネットで買うのはやめて、これからは外に買い物に」
「必要ないと言ったよね? おまえはこの家にいてゆっくりしていたらいいんだよ?」
彼は僕の言葉を遮り、乱暴に食器を置いた。
目つきがさっきより怖い。
やっぱり無駄使いだと思われているのだ。
稼ぎもないくせに、彼に聞かずに買い物をしたからだ。
僕は謝り、買い物は今までどおりネットスーパーですると約束すると、彼の機嫌はすぐに直った。
そして、その夜は「きつい言い方をしてごめん」と大事に大事に愛された。
やっぱり優しい人だ。僕も彼のために何かしたい。
そして翌日、僕はネットでアルバイトを見つけ、面接に行った。
久しぶりに彼以外と密に話して疲れたものの、心地よいい疲労だ。
食事の用意を終えてソファで休んでいると、彼が帰宅した。
「ただいま。……もしかして、今日も出かけた?」
「あ、ごめん。靴をしまっていなかったね」
面接用の靴をそのままにしていた。こういうだらしないところも直さなければ嫌われてしまう。
急いで靴を手に取ろうとすると、腕を掴まれた。
「どこに行った?」
「実はね! アルバイトが決まって。僕、少しでも家にお金を入れるよ。明日から行くか、ら……」
どうしたんだろう。腕の力がしだいに強くなっていく。それに、昨日よりも顔が怖い。
どうして?
そう思ったと同時に、ドン! と壁に押し付けられた。
「働かなくていいと言ったよね? 働いてどうしたいの?」
「家にお金を入れようと……」
「大丈夫だよ。俺が稼ぐから」
「でも」
気持ちを伝えようとするも、すぐに遮られた。
「はい、この話は終わり。今まで通り家の中にいてくれたらいいんだ。バイトは俺が断っておく。連絡先、出して」
「え、でも」
「でもじゃない。出して」
威圧的とも取れる彼の様子に、それ以上なにも言えなくなる。同時に、僕たちの生活が異様であることに気づいた。
彼は朝から晩まで僕の行動を確認している。毎日たくさんのスマホメッセージ。お昼休みと帰宅前には電話。
『今、なにしてた? 変わったことなかった? 誰にも会っていないよね?』
『すぐに既読がつかないと不安だな。返事待ってるから』
どうして。いつからだっけ。
僕が彼と知り合ったのは同棲をする三年前。
彼が勤める会社のビルのカフェテナントで働いていた僕を、彼が見初めてくれた。
彼は僕の笑顔と明るい接客に癒やされていたんだと言ってくれて、僕もかっこよくて立ち居振る舞いのスマートな彼に憧れていたから、とても嬉しかった。
とはいえあの頃は。
どちらかと言えば交際が初めての僕の方が夢中で、僕から連絡を入れる方が多いくらいだった。
変わったのは……同棲を決意してくれた頃からかもしれない。
当時酷い頭痛に悩まされて休職した僕に彼は言ってくれた。
『無理するな、俺がいるから仕事は辞めてよく休め』と。
そして、なにからなにまで面倒を見てくれるようになった。
同時に連絡が多くなり、僕を姫というよりは、まるで子供にするように過保護になって。
ああそうか。過去に戻り、今初めてわかった。
彼は手に入れた物を大事に長く使う人だ。同じように、僕にも執着めいた気持ちを持ち、甘やかな鎖で縛りつけ、束縛している。
――僕は駄目人間になったんじゃない。彼がいないと駄目な人間にされたのだ。
――なんて幸せなことなんだろう。
彼が僕を囲い込み、大事に大事に愛でてくれる。
このことに、幸せ以外のどんな感情があるというのか。
普通ならおかしいと思うだろう。逃げようと思うのだろう。
けれど僕は、どうしようもなく彼を愛している。
――ねぇ、だからお願い。いい子でいるから、君好みの可愛い子でいるから、僕を捨てないで。
束縛するなら一生束縛してよ。どうして途中で僕を投げ出したの?
こうして、僕は二度目の人生の二年間を、より彼に甘えて過ごした。もう捨てられたくなかった。
彼だけを見つめて、彼の言うことに従順に行動する、そんな日々。
ただひとつ違うのは……彼のスマホにこっそり追跡アプリを入れたこと。
これで、彼がいつもと違う行動をすればすぐにわかる。
僕もそっと彼を監視して束縛する。絶対に離すものか。
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