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第2話
もうすぐ彼が突然仕事を辞めた時期になる。
いまのところ彼は変わらず僕に愛を囁き、浮気の影もない。一人ではどこにも行くなと僕を家の中に閉じ込めている。
だからなにかあるとすれば、これ以降の一週間ほどだ。
「……ん? 病院に入った? 体調悪かったっけ?」
彼のスマホのGPSが総合病院を指した。
けれど帰宅したとき、彼は病院に言っていたなど言わず、体調不良を訴えることもなかったから僕は追求しなかった。病院くらい、たまには行くだろう。
けれど、このときちゃんと問い詰めていればよかったのだ。
彼は病院へ向かう回数が多くなり、徐々に滞在時間も長くなり……そして、彼は突然仕事を辞めた。
さすがに悪い予感がして、病院の受付に彼のことを聞きに行ったけれど、法律上彼と他人の僕は、なにも知ることができなかった。
当然彼を問い詰めもした。けれど彼はすぐに僕に背を向けて部屋にこもってしまう。
彼がいない間に部屋に入って調べたけれど、なにもわからない。出てくるのは僕との思い出の品だけ。大事に大事に保管している。
「それなのに、どうして……」
僕はとうとう彼の尾行を決行した。
すると、やはり今日も彼は病院に向かった。
そして、僕が見たのは、診察室に入る彼ではなく「相談室」と書かれた札のある部屋に入った彼。
彼は三十分ほどするとそこから出てきて、女性と病院の庭に出ていく。
──あれは、あの日の浮気相手の女の人!?
女の人は医師や看護師ではなさそうだったが、紛れもなく病院の職員だ。
病院に浮気相手がいた?
彼女に会いたいがために仕事までやめて病院に通った?
まさかそんな、そこまでするか?
けれど、彼女と出会っているということは、僕はもう用済みなのだ。どうやっても別れる未来を変えることができないのか……!
悔しくて、情けなくて、悲しい。
ひどいよ、いい子にしてたのに、二度も僕を捨てるなんて!
激昂した僕は、大股で二人がいる方へ向かった。
彼と彼女が寄り添いながら話す声が聞こえてくる。
「──大丈夫ですか? 治療室へ行きましょう」
「すみません。ふらついてしまって。大丈夫ですから。それより、例の件なんですけど、ご無理を言いますがお願いします」
「いえ……恋人を深く思われるあなたの最後のお願いと言われると、本来なら受けてはいけないのに、私もお断りすることができません」
その言葉に足を止める。治療室? 『最後のお願い』?
眉根を寄せると、彼女の声が再び聞こえてくる。
「──ですが本当にいいんですか? 恋人の方に、本当のことを言わなくて」
「はい。私の恋人はとても繊細な人なんです。昔暴漢に襲われてひどく辛い目に遭い、その時期の記憶を失くしています。医師によれば、別のショックで記憶が蘇る可能性があると」
「そんなことが……?」
「はい。自惚れと笑っていただいてもいいのですが、私たちは相思相愛なんです。だから僕が病気で死ぬと知ったら、彼はショックを受けて事件を思い出すかもしれない」
なに? なんの話をしているの?
記憶……暴漢……?
頭がズキズキした。急に息がしにくくなってくる。
辛い目……追いかけられる悪夢をたびたび見る僕。
……悪夢? それは本当に、夢?
目を閉じて、夢を頭に浮かべる。
「あ……」
目の裏に鈍い光が走った。
誰かが僕を追いかけている。
あれは……あれは、仕事からの帰宅が遅くなった日だった。
近道の公園を通ったら、後ろから大きな男に飛びつかれて、口を塞がれて――
僕は必死で走って逃げた。けれど追いつかれて、張り倒されて、頭や顔を何回も殴られた。
それで、それで、それで……!
あれは、夢なんかじゃない!
「うぐっ」
服を破られ、いいように身体をなぶられたことを思い出し、吐きそうになる。
けれどそのとき、彼の声が聞こえた。
「僕が病院に駆けつけたとき、彼はぼろぼろでした。忘れさせていてやりたいんです。それにね、私は恋人を必ず守ると決意し、人生の最後までそうできると思っていたから、ずいぶんと干渉しすぎました。でも恋人はもう大人だ。ちょうど離してやる時期だったのかもしれません」
穏やかで優しいけれど、諦めを含んだような、切ない声。
僕の中で渦巻いていた黒い塊が、その声に流されていく。
彼が蓋をしてくれた思い出さなくてもいい過去よりも、彼が病気で死ぬという言葉の方が重要だった。
「いとおしすぎて、全ての危険から恋人を守りたかった。空気でさえ敵のように思った事もあります。でもそれで、恋人を鳥籠の小鳥にしてしまいました。だからせめて、せめて僕が生きているうちに羽ばたかせてやり、そっと見守りたいんです。死んでからでは遅いから」
わからないよ。ねぇ、君は何を言ってるの?
「ですが私との浮気のお芝居を見せるなんて、それもショックを与えるのでは?」
彼女が問い、彼は首を緩く振る。
「そうかもしれませんが、私の死を見るより、憎んで嫌いになる方が楽だと思います。それならば新しい恋もできるでしょう。ああそうだ、私と別れた恋人に、彼を守れる人をご紹介くださる約束、忘れないでください。紹介する時は、さりげなくお願いしますね。恋人はここ何年も僕以外と外に出ていなかったから、驚かせないように、優しく声をかけて……」
「そんなのいらない!」
いまだ全容は見えないけど、こらえきれずに大声を出して、彼にぶつかっていった。
彼は目を見開き、息を止めたように動かなくなる。
ここまできてようやく、彼の目が落ち窪み、頬が痩けていることに気づいた。
「……どうしてここに」
「尾けてたんだ。追跡アプリをつけて、見張ってた。君が、好きだから」
それなのに、僕は彼の「本当」を見なかった。自分が振られないことばかりに必死になって、一番近くにいたのに彼の病気に気づかなかった。
彼がこんなに痩せていたのにも気づかないで。
「僕はどこにも行かない。最後まで君のそばにいる。ずっと、君が作ってくれた安全な鳥籠の中にいる!」
人目もはばからず、骨が浮いた体にしがみついてわあわあ泣いた。
彼も泣いて、彼女も泣いている。
「私がお二人をサポートしますから、どうか今まで通り二人で暮らしてください」
彼女は涙が乾くとそう言った。
彼女は病院のソーシャルワーカーだったのだ。
その後、彼は自宅療養となり訪問診療を受け、僕はずっと彼のそばにいる。
彼は顔色がいい日もあるけれど、死が近いのだと覚悟する日もある。
「本当にこれでよかったのか。遺して逝くのが心配だ」
彼は何度も同じことを僕に確認する。
僕も何度も同じ答えを返す。
「遺して逝かないで。君が死んだら一緒に行くよ。生涯一緒だと約束したでしょう?」
「……死ねないな」
そう言うと、彼は弱々しくも笑ってくれる。
ただ、こんなやりとりをしていても、僕には後を追って命を断つ勇気がないし、彼もそれをわかっているだろう。
それでも。いいや、だからこそ僕は誓う。
人生が続く限り彼を愛し抜き、彼を弔う。そして、人生を終えたら彼の魂を探すのだと。
物理的に離れても、僕たちの心は永遠に一緒だ。
あとどれくらい一緒にいられるのかわからない。医師が言ったリミットはもうとっくに過ぎている。
そして、今日も僕は、彼が稼いで貯めてきてくれたお金でネットで買い物をして、働きに出ることもなくずっと家にいる。
ずっと彼のそばにいる。
それで彼が幸せそうに笑ってくれるのが嬉しい。
「愛してる。永遠に君を愛してる」
僕と彼の手が重なり、声が揃った。
完
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