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第15話
『久しぶり、俺は元気でやってるよ。
ホテルは繁忙期なので今大忙しです。
そっちは仕事には慣れてきましたか?
川で泳いだ話、懐かしいな。俺も、もう何年もあの川で泳いでないよ。
なぁ、もし、休みが取れたらさ・・』
ーー
「民屋さん、お疲れ様です〜」
アルバイトの学生に声をかけられ、青葉は顔を上げた。
「お疲れ様で〜す」
時刻はまもなく二十一時。
青葉の勤務ももうすぐ終わりだ。
ホテルのレストランで働き始めて今年で四年目。仕事にはすっかり慣れたが、今もまだ学ぶことは多い。
働くことにゴールはないのだと、最近はよく思う。
「ただいまー」
誰もいない暗い部屋のスイッチを入れながら青葉はため息混じりに言った。
今日も一日疲れたが、これで座り込んだらおしまいだ。
靴を脱ぐと、そのまま浴室に直行する。
夏なのでシャワーで十分だ。
汗を流して体を洗い、浴室から出ると今度はキッチンに向かう。
今日は遅番だったので夜の賄いは食べてきた。
冷蔵庫から酎ハイの缶を取り出すと、それを持ってやっと部屋の真ん中に座った。
お酒はあまり強くないが、一日の終わりに一本は飲みたいと思っている。
そっちの方が気持ちよく眠れるからだ。
自分も大人になったな、と一人お酒を飲みながら思った。
あの頃とは違って、身体の疲れは取れにくくなったし肌も髪も元気はない。
朝起きて鏡の前の自分の姿を見ると、思わずため息が出る。
そんな、見た目をやたらと気にしてしまうのは
先日大胆なメッセージを送ってしまったからだろう。
しかし返事はまだ来ていない。
冷たい酎ハイを胃に流し込んだ所で机に置いてあったスマホが振動した。
青葉は前のめりで画面に目をやる。
しかし期待していた相手からではなく、昨日もメッセージのやり取りをしたばかりの人物からだった。
『友人代表のスピーチは青葉がいいって凪ちゃんも言ってた!なのでよろしく!』
テンション高く送ってきたことが文面からも伝わってくる。
『了解!!ありがたく引き受けます』
青葉は素早く返事を打つと、再び酎ハイを口に含んだ。
栄一と凪が結婚することを決めたのはつい最近のことだ。
結婚式や入籍は来年を予定しているらしいが、『式に誰を呼べばいいか』『余興でいい案はあるか』と、毎日栄一からひっきりなしに連絡がくる。
かなり盛大にやる予定のようだ。
再び机の上のスマホが振動したので、青葉は酎ハイを飲みながら手に取った。
きっとまた結婚式に関する話だろう、と思って画面を見ると予想とは違う質問がきていた。
『青葉、2月くらいに東京に弾丸で行ってたよな?飛行機?電車?どっちで行った?』
思わずゴクリと大きな音を立てて酎ハイを飲み干す。
それから少しの間画面を見つめ、慎重に返事を打った。
『飛行機で行ったよ。日帰りだったからさ。東京に行く予定でもあるの?』
当たり障りなく、あちら側に話題が広がるように促す文面だ。
するとすぐに返事が返ってきた。
『新婚旅行どこ行くか考えてるんだけど、凪ちゃんが飛行機乗りたくないって言うんだよー。だから国内で新幹線で行けるところ考えてる。東京は行ったことないからいいかなと思ってるんだけど』
そういえば中学の修学旅行は隣の県、高校は関西だったことを思い出した。
理由がなければ東京に行く機会はない。
それほどの距離がある場所だ。
二月に日帰りで東京に行ったことはかなり思い切ったことだった。
けれど・・あの時は、今行かなくてはと思ったのだ。
きっとこのタイミングを逃したら、もう関わることはないかもしれないからと。
ーー
母親から突然電話がかかってきたのは、一月の終わりだった。
年末年始の繁忙期も終え、職場の忙しなさが落ち着いていた頃だ。
『食堂宛に手紙が届いてね。何かのチラシかと思って見たら東京の美大の卒展のお知らせだったんだけど』
「東京の美大?」
自分の人生には全く関わりのない言葉に青葉は眉を顰めた。
「なんでそんな所から手紙がくるんだ?間違い?」
『私も何かの間違いかなぁって思ってそのお知らせを読んでたのよ。そしたらなんと懐かしい名前があったの!それで合点がいったわけ!』
母の声は楽しそうに弾んでいる。
「名前?」
『そう!守月志朗君!ほら、高校生の時あんたが仲良くて、お店も手伝ってくれた守月君!』
「・・・え」
『出展者名の中にあってね。一緒に入ってたパンフレットにも載ってたのよ、守月君の絵。それがね、どう見ても萩亥佐の絵なの!』
「・・・」
青葉はゴクリと唾を飲み込む。
『後で写真撮って送るわ。すごい上手よ〜。守月君、絵描くの続けてたのね』
「・・・それ、いつ?」
『え?なにが?』
「その卒展。いつやるの?」
『いつって・・だって場所は東京よ。行けるわけ—』
「いいから教えて!」
そう叫んだ二日後には、東京への飛行機のチケットを取っていた。
卒展の期間は四日間と短く、青葉は平日休みの一日を使って行くことにした。
もちろん日帰りだ。東京は遠いところだと思っていたが、飛行機なら朝一番の便に乗れば比較的余裕がある。勝手に遠いと思って諦めていたことを今更悔やんだ。
ただ東京に着いてから、会場に行くまでが大変だった。
志朗が通っているらしい大学のキャンパスが会場なのだが、東京の電車は路線も多く複雑で何回も駅員に確認することになった。
地元とは人の流れもルールも違う。やはり東京という存在は近いものではないかもしれない。ここで暮らしていけるとは到底思えなかった。
ようやく辿り着いた時にはお昼を過ぎていた。
会場は思ったよりも賑わっている。
学生達に混ざって、一般のお客さんの姿も見えた。
青葉は恐る恐る中に足を踏み入れる。
ここのどこかに志朗がいるかもしれない。
そう思ったら急に緊張で胸が苦しくなってきた。
もし、彼が目の前に現れたら・・
こちらから声をかけるべきだろうか。
それとも向こうに気づいてもらえるまで待つべきか。
あの絵が見たい。
ただその思いだけで勢いでここまで来てしまった。
だから本人にかける言葉は考えていなかった。
そもそも・・
志朗は、どんな思いで案内を送ってきたのだろう。
青葉はゆっくりと歩きながら、展示されている作品一つ一つに目を向けていった。
学生達の個性が光る作品はどれも興味深い。何をモチーフに作ったのか、どんな工夫をしたのかなどがそれぞれの作品の横に置かれたカードに書いてある。
そのカードは自由に持って行っていいようになっていて、青葉も気になった作品のカードを手に取った。
作者の名前と学部、それから中には個人のSNSのアカウントが書かれたものもあった。
きっとそういったもので、仕事に繋げる人もいるのだろう。
立体作品が並んでいる場所を曲がると、一つの絵が目の前に飛び込んできた。
青葉はその場でピタリと足を止める。
それから小さく深呼吸をすると、再びゆっくりと歩き出しその絵の前で止まった。
二つの季節の風景が、一つの大きなキャンバスの中に収められている。
真ん中半分で区切られたそれは、右側が陽の光を浴びて色鮮やかに映える夏の風景。左側が寒さを目で見て感じ取れるようなモノトーンの冬の風景だった。
しかし描かれているのは同じ場所だ。
同じ場所を二つの季節で描いている。
母からパンフレットに載っていた絵を事前に写真で送ってもらってはいたが、実際に見てみると受ける印象は全く違った。
ただ、懐かしんで描いてくれたのだと思っていた。十代の青春の一ページのように。
けれど・・
この絵は・・もしかしたら・・
「あ、守月さんの作品じゃない?」
背後から女性の声が聞こえ、青葉は顔だけ後ろに向けた。
「本当だ。相変わらず綺麗だねぇ」
横に並んだ二人の女性が志朗の絵を見ている。
「今日守月さん見た?」
「見てないねぇ。あぁー、もうすぐ卒業しちゃうの寂しい〜。イケメンが拝めなくなる〜」
「あっ、ねぇ。これ、もらってこ。ほら、SNSのアカウント載ってる。DM送れるんじゃない?」
一人の女性がそう言って手に取ったのは、作品の横に置かれたカードだった。
「本当だ〜、守月さんSNSやってたんだ!意外だね!あとで見てみよう」
女性達はそう言うと次の展示の前へと移動していった。
志朗の作品の前にいるのが再び青葉だけになると、青葉も先程話題になっていたカードを手に取った。
『守月志朗 油絵学科』と記載されている。
作品に対してのコメントはない。
この絵は油絵なのか・・
そう思いながら改めて作品を見つめた。
何層にも塗られた絵の具が自然の色を生み出し、大きな窓のようなキャンバスから外の風景を見ているようだ。
色鉛筆はもう使っていないのかな、と思いながらカードの裏面に目をやるとSNSに繋がるQRコードが記載されていた。
そのQRコードの下には※印でコメントがついている。
『趣味用のアカウントです。主に色鉛筆画』
その文面を見るやいなや、青葉は急いでスマホを取り出しQRコードを読み込んだ。
何も発信はしてないが、見る専用のSNSのアカウントは持っている。
とはいえ、普段見るのは地元の観光情報などだ。仕事に関することにしか使っていない。
QRコードを読み込むとすぐに『白』というアカウント名のページに繋がった。
『志朗』の名前と掛けているのだろうか。
一つの画像をタップした。
画面に大きく映されたそれは、色鉛筆を使って細部まで綺麗に塗られた夏の街並みだった。
大きな入道雲の下には、灰色の建物が立ち並んでいる。
東京のどこかだろうか。絵に対してのコメントはない。
知ってる人が見たらわかる場所なのかもしれない。
画面をスクロールして他の作品を見ていく。
知らない街や時々静物画などの絵が並んでいる。
その中でふと目についたものがあり、画像を開いてみた。
「・・あ」
懐かしい、萩亥佐分校の校舎が描かれている。
季節は春だろうか。桜の花が咲いている。
青葉は新学期に校舎の前で写真を撮ったことを思い出した。
「あの、すみません。いいですか?」
後ろから声をかけられハッと振り返る。
後方から一人の男性が青葉の横に置かれていたカードに手を伸ばそうとしていた。
「あ、すみません!どきますね」
青葉はそう言うと、早足で志朗の絵の前から離れていく。
それから展示スペースを出て、人気のない場所に移動すると壁にもたれて再びスマホに目をやった。
先ほど見た分校の絵の他にも、懐かしい風景の絵があることに気がついた。
季節も場所も様々だが、どれも萩亥佐のどこかであることはわかる。
きっと彼の記憶の中にある風景を絵にしているのだろう。
彼の心の中には、あの場所はこんなにも穏やかに優しく残っているのか。
青葉は画面から顔を上げて周りを見回した。
もしかしたら志朗がどこかにいるかもしれない。
『萩亥佐を描いてくれてありがとう』と・・
せめて伝えられたら・・
会場から外に出て、キャンパス内を歩く人達にじっと目を凝らしてみたが志郎の姿は見つからなかった。
先ほど女性達が話していた通り、今日は来ていないのだろうか。
青葉はスマホに目を落とすと、志朗のSNSのページにある『メッセージ』をタップした。
ここから、彼へメッセージを送ることができる。
お礼と・・それから感想と・・
伝えてもいいだろうか。
しかし一文字打ったところで指が止まる。
彼からもらった別れの手紙には『東京に戻ったら青葉のことも忘れてしまう』と書いてあった。
彼の今の人生に自分はいないのだ。
きっと・・懐かしい場所の、風景の一部くらいになっていることだろう。
青葉は目をつぶって文面を考えた。
それからゆっくりと文字を打ち始める。
『お久しぶりです。萩亥佐の民屋青葉です。青空食堂に卒展のお知らせを送ってくれたこと、母から聞きました。ありがとうございます。母もとても喜んでいました。作品を見させてもらいました。あの絵は萩亥佐の絵ですよね?萩亥佐を作品の題材にしてくれたこと、とても嬉しいです。これからも頑張って下さい。応援しています。』
硬すぎる文面に思わず自分で首を傾げた。
けれど、どう書いていいのか正解がわからない。
志朗が青空食堂に卒展のお知らせを送ったのは、萩亥佐を題材にしたからという理由だけかもしれない。青空食堂に送れば、あの地域の人達にはすぐに広がる。少しだけ食堂で働いたことのある志朗ならわかることだろう。
あくまで萩亥佐の人達に知らせるためだったとしたら。
それなのに急に自分が馴れ馴れしくメッセージを送るのは違う気がした。
ーそうだ、これくらい硬い方がきっといい。
青葉は自分に言い聞かせると、送信をタップした。
硬い文面が志朗に送られた。
返事は来るだろうか。
返事はしてもしなくても、どっちでもいいような文にしたつもりだ。
彼に変な負担はかけたくない。
それから数日間はなんの反応もないまま日々は流れた。
仕事に行き、仕事から帰るだけの毎日だ。
あれはあくまでお礼のメッセージなのだから。気にしてはいけない。
そう思いながら過ごした。
SNSに反応があったのは、卒展を見に行った日から一週間ほど経った頃だった。
メッセージのところにマークがついている。
青葉は深呼吸するとゆっくりそのマークに触れた。
『お久しぶりです。返事が遅くなってごめん。なんて返事をしようか考えていたら時間が経ってしまいました。色々伝えたいことはあるのだけど。まずは、絵を見てくれてありがとう。俺のアカウントは何で知ったのかな?送った卒展のお知らせには載せていなかったはずだけど・・
きっと俺の記憶の中の青葉より、青葉はずっと大人になっているんだろうなってメッセージを読んで思いました。元気にしてる?
もし、青葉が良ければまたこうやって連絡できたら嬉しいです。』
どことなく辿々しい文章から、彼なりの緊張が伝わってくる。
青葉はメッセージの中で名前を呼んでくれていることに心が浮き足だった。
大人ぶって距離をとったメッセージを送ってしまったことが恥ずかしくなる。
返事をしよう。
今の自分を知ってもらって、そして今の彼のことも知りたい。
そしてもう一度、友達から始められたら・・
それから、少しの間隔を空けてメッセージのやり取りは続いた。
東京に日帰りで卒展を見に行ったことを言うと、志朗はとても驚いていた。
SNSのアカウントを知ったのは『その時にもらったカードを見て』と言うと納得していた。
別のルートを考えていたらしい。他に知り得る方法などあったのだろうか?
志朗がなぜ東京に戻ることにしたのか、その理由も教えてくれた。
家族が病気だったのなら戻るのは当たり前のことだ。自分だってそうする。
なぜ、当時そう言ってくれなかったのかと聞いたら『ただでさえ寂しい思いをさせるのに、青葉に心配かけたくなかったから』と志朗は答えた。
そうやって気遣ってもらっていたあの頃の自分の幼さが情けなくなる。
今だったら、もっと違う形で志朗といられたのではないだろうか。
メッセージをやり取りしていてそう思うことが何度もあったが、それを口に出すことはしなかった。
今はお互い別々の道を歩いているのだ。
あの頃の気持ちを未練たらしく思っているのはきっと自分だけだ。
せっかく今こうやって、普通に連絡を取り合うことが出来ている。下手な期待をしてそれを壊してはいけない。
志朗は書籍のデザインを行う会社に就職したそうだ。
四月になると新生活で忙しいのかメッセージの頻度はぐっと減った。
数日、数週間と間隔が空き、五月の終わりを境に志朗からの連絡は止まった。
新入社員研修も終わり本格的な仕事の始まる頃だろう。
社会人一年目の大変さは青葉にもよくわかっている。
志朗がペースを掴めるまでは、こちらからメッセージを送るのは控えることにした。
そうやって連絡が途絶えたまま、職場のハイシーズンがやってきた。夏休み期間というやつだ。
地方都市にあるこのホテルも連日たくさんの宿泊客が訪れ大忙しになる。
志朗から再び連絡が来たのは、そうやって慌ただしく過ごしていた七月の終わりの頃だった。
『久しぶり、元気ですか?
毎日茹るような暑さが続きますね。夏になると萩亥佐で過ごした日々を思い出します。またあの川で青葉と泳ぎたいな』
淡々と、昔を懐かしむ言葉が書かれたメッセージだ。
けれど・・どこか元気がないような・・そんな様子が伝わってくる。
新しい生活で疲れていないわけはない。
さらに今年は例年より早く梅雨が明け、猛暑が続いている。
東京の暑さがどんなものかは分からないが、気力や体力を奪っていくにはきっと十分な暑さだろう。
「・・・」
青葉はスマホの画面をじっと見つめた。
それから少しすると、意を決するように指を動かし始めた。
自分でも大胆な返事だと思っている。
けれど・・
彼が『また・・』と思ってくれてるのならば・・・
待っている。俺はずっと、この場所で・・
ーー
机に置かれたスマホが再び振動した。
栄一から続けてメッセージがきている。
『結婚式、高校の同級生には全員声かけるつもりだけど守月は無理そうだよな?』
タイムリーな文章に青葉は口先を尖らせた。
志朗と改めて連絡が取れるようになったことを栄一にはまだ言っていない。
志朗がこの地にやってきてくれるのか。
それが分かってから伝えた方がいい気がした。
変に期待をして、いつ返事がくるだろうとソワソワしながら過ごすのは疲れるものだ。
手に持っていたスマホが再び振動した。
栄一は結婚に向けて相当テンションが上がっているのだな・・
そう思ってクスリと小さく笑って画面を見る。
しかしそこに表示されていたのは、栄一ではなく待ちに待っていた名前だった。
ーー
五年ぶり?いや、六年ぶりになるのか?
指を折りながら離れていた年月を計算する。
十代だった自分達が、今はもう二十代半ばだ。
あの頃と違っていたって驚くことではない。
けれど——
「久しぶり、青葉」
駅に降りたった彼は、確かにあの頃よりも大人びているけれど穏やかな笑顔はなにも変わっていなかった。
「わざわざ出迎えてもらえるなんて。ちょっと恥ずかしいな」
志朗はそう言って照れくさそうに鼻の頭を掻く。
「青葉、今日仕事わざわざ休みにしてくれたの?だったらごめんね」
「・・・」
「青葉?」
ヒラヒラと目の前で手を振られ、青葉は我に帰りハッとした。
「あっ、わるい。なんか・・ビックリして」
「ビックリ?」
「いや、その・・志朗が・・目の前にいるって・・」
そこまで言って自分の声が震えていることに気がつく。
「・・青葉・・」
「ほっ、ほら!この車乗ってよ!まずは食堂まで行こうぜ!」
志朗の眉尻が下がったことに気がつき青葉は慌てて話題を変えた。
親指で指した先にはシルバーの軽自動車がある。就職する際に購入したものだ。
「青葉、運転できるんだ?」
驚いたように目を丸くして志朗が車を見つめた。
「そりゃあ車がなきゃ困るからさぁ。18になってすぐに免許取ったよ。俺は専門で受験勉強も必要なかったし」
「調理の専門に行ったんだよね。意外だったなぁ」
志朗は青葉の車に近づきながら言った。
「俺も。でも自分がやりたいこと何かなって考えたらこれだって思って」
青葉はそう言って笑うと車のドアを開けて志朗に中に入るように促した。
志朗は「ありがとう」とお礼を言って助手席に乗り込む。
人を乗せて走ることにもずいぶんと慣れた。
父親より運転が上手いと母も褒めてくれる。
青葉は志朗がシートベルトをつけたことを確認すると、ゆっくりと駅前のロータリーを走り出した。
駅から萩亥佐までは40分ほどの距離だ。
「・・懐かしいなぁ」
車窓からの景色を見ながら志朗がポツリと呟いた。
「あぁ、この辺?店とかはあんまり変わってないよな」
青葉が周りを見回しながら言うと志朗は小さく頭を振った。
「いや、初めてここに来た時のこと思い出してた。園部先生が駅まで車で迎えに来てくれたんだけど、萩亥佐のいい所を車の中でたくさん話してくれたんだ。それで緊張がほぐれたんだよ」
「へぇ〜。萩亥佐で最初に出会ったのは園部先生かぁ。今も分校にいるはずだよ。後で挨拶行ってみようか」
「本当?行きたいなぁ」
志朗は嬉しそうに微笑む。
そのまま柔らかい視線がこちらに向けられているのを感じ青葉は「何?」と前を向いたまま聞いた。
「・・ううん。青葉だなぁって思って・・」
「え?なんだよ、それ」
青葉は困ったような顔で笑った。
「俺、青葉はきっとすごく大人になってるんだろうなぁって思ってたんだ。だから、会うまで少し怖かった。でも、会ってみたら青葉は青葉のままで安心したよ」
「えー、高校生の頃から変わってないって事?」
「違うよ。ちゃんも大人っぽくなってるよ。でも、青葉の優しい雰囲気は何も変わってないってこと」
「・・・」
先ほど志朗を目の前にして、青葉が思ったことと一緒だ。
志朗も同じように感じてくれていたらしい。
そのことがくすぐったく感じ、青葉は口元だけ笑って「そっか・・」と小さな声で答えた。
そんな青葉の反応を見て志朗は一呼吸おくと、改めるように正面を向きゆっくり口を開いた。
「・・・青葉、ありがとう」
「え・・」
「青葉から『休みが取れたら萩亥佐に遊びに来ないか』ってメッセージが来た時、俺すごい嬉しかった。俺はここに戻ってきちゃダメだと思ってたから・・」
「な、何言ってんだよ?そんなわけないだろ?」
思わずハンドルを握る手に力が入る。
「いつだって遊びに来いよ。みんな大歓迎だよ。志朗が来るって言ったら俺の母ちゃんなんてウキウキして家中掃除してたんだから」
「はは。嬉しいな・・」
志朗は目を細めて鼻先を擦った。
「・・仕事、大変か?」
青葉は横目で志朗をチラリと見ながら聞いた。
「え、なんで・・?」
「志朗からのメッセージ。なんか疲れてそうに感じたから・・昔を懐かしむのって、今が大変だったりするからじゃん?」
「・・あー、そうかぁ。普通を装って送ったつもりだったんだけど・・青葉にはバレちゃってたか」
観念したように眉を下げて志朗は笑う。
「職場には恵まれてると思うんだ。でもまだ仕事に慣れていないからいつも一杯一杯で。毎日忙しくて、今日が何曜日かもよく分からないで過ごしてる時に、ふと外に出たら蝉の声が聞こえてさ。それで『あぁ、今夏なんだ』って思ったら無性に恋しくなっちゃったんだ」
「恋しく?」
「うん。萩亥佐の景色とか、川の音とか。それから・・」
志朗はいったん言葉を切って青葉に目を向ける。
「青葉の笑い声とかね・・」
「・・・」
青葉は視線は前に向けたまま、ゴクリと小さく息をのんだ。
その言葉の意味を探るように思考を巡らせる。
しかし考えたところで真意を知っているのは隣の彼自身だ。
ならば素直に言いたかったことを言い、聞きたかったことを聞こう。
「・・志朗が萩亥佐のこと忘れていないって知って俺嬉しかったよ。だって、志朗は俺に言ったろ?東京に戻ったらきっと忘れてしまうって」
「え・・言ったっけ?俺」
「言ってたよ!手紙で!自分で書いたことなのに忘れるなよ!」
「あ、あぁ・・あの時書いたやつかぁ。あの時はああやって書くしかないと思ったんだ。自分に言い聞かせる意味でもね」
「言い聞かせる意味?」
「どうせ忘れるから大丈夫だって。だから青葉と別れることも平気だって、そう自分に言い聞かせるつもりで書いたんだよ」
「・・・」
「青葉は、深海君とうまくいくだろうと思ったからね。それを見るのも怖くて逃げたのもあるし」
「・・それは・・」
青葉が反論しようと口を開くと、すぐに「聞いたよ」と志朗は微笑んで言った。
「深海君から。彼、会いにきてくれたんだ。俺のバイト先の美容室に」
「え・・いつ?」
初めて聞く話に青葉は目を丸くする。
「今年に入ってすぐくらいかな?その時に聞いたんだ、青葉とのことも。俺はもう、萩亥佐の人とは関わらないって決めて過ごしてたのに・・深海君が会いに来てくれたもんだから・・発破かけられて、それで・・」
「それで・・あの卒展のお知らせ、食堂に送ってくれたのか?」
「・・うん。青葉の連絡先は消してしまってたし、忘れられてたらって思うと怖かったのもあって・・だから、食堂に卒展のお知らせを送ることにした。俺からだって気づかれなくてもいいって思いながら・・」
「・・・」
青葉は隣で口を噤んだ志朗の様子を伺った。
傷つかないよう逃げ道を残しはしても、それでももう一度繋がりを持とうとしてくれたのだ。
五年という歳月が空いて、それをするのにどれだけ勇気がいっただろうか。
「ありがとう、志朗」
「え・・・」
「志朗がお知らせを送ってくれたから、俺は今こうやってもう一度志朗と話せてる」
青葉は口元に笑みを浮かべた。
「俺は、志朗が元気にやってくれていればいいってずっと思ってた。萩亥佐のことは忘れてても元気ならいいって」
そう。自分もそうやって言い聞かせていたのかもしれない。
彼がいない寂しさを乗り越えるために。
「でも、俺は忘れられなかったよ。志朗のこと。目標を見つけて、前に進むことだけを考えてやってきたけど。その先でいつか志朗と会えるかもしれない、志朗が見つけてくれるかもしれないって心の中でこっそり望んでた」
「・・・青葉」
「ほら、俺って未練がましいからさ。知ってるだろ志朗も」
自虐的に笑う青葉を見て、志朗は眉を下げながら言った。
「そんなこと言ったら・・俺の方がよっぽどだよ」
「え?」
「見たでしょ?卒展の絵」
「・・卒展のって、あの萩亥佐の?」
同じ風景を夏と冬で二分割されたように描かれたあの絵を頭の中で思い浮かべる。
「そう。あの絵。何か、気が付かなかった?」
「・・何かって・・」
青葉は初めてあの絵を見た時に感じたことを思い出した。
しかし口にするには少し恥ずかしい。
躊躇って黙っていると、志朗が「どう?」と念を押すように聞いてきた。
青葉は唇の先を尖らせると、ボソリと小さな声で言った。
「あの、キャンバスの中に・・萩亥佐を閉じ込めてるみたいに・・感じた・・」
「・・え」
志朗が間の抜けたような声を出したので、青葉は思わずカッと頬が熱くなった。
「あっ、やっぱり違ったか?ごめん、俺なんか変なこと言ったよな?!」
恥ずかしさを隠すようにわざと大きな声を出す。穴があったら入りたい気分だ。
しかしそんな青葉の反応とは裏腹に、志朗は小さく頷くと「半分正解」と言って笑った。
「へ・・正解なのか?」
「半分ね。閉じ込めたかったのは・・萩亥佐じゃなくて青葉だよ」
「え、俺?」
今度は青葉の方が間の抜けたような声を出す。
「うん。気が付かなかったかぁ。あの絵の中に小さく青葉を描いたんだ」
「・・・」
「左側の冬の風景の方に。こっそりと描いた、付き合っていた頃の青葉を。俺が萩亥佐に置いていってしまったあの頃の・・ね?俺の方がよっぽど未練がましいでしょ」
「・・全然、気がつかなかった」
「ごめん、引いたよね?」
志朗はため息を吐くと微笑みながらも俯いた。
「青葉と付き合っていた頃から俺は全然成長できてなかったみたい。自分のこと嫌いになるほど後悔したのに。それでも・・青葉のことが忘れられなくて・・あの頃の青葉をあの絵の中に閉じ込めたいと思って・・描いたんだ」
「・・・」
ハンドルを握る手に力が入る。
青葉はウィンカーをつけると、車を道路脇に寄せて駐車させた。
「・・青葉?」
「ごめん。ちゃんと、志朗の顔見て話したかったから」
「・・うん」
志朗も覚悟を決めたのか、顔を上げて青葉に視線を向けた。
「俺・・今、俺なりに頑張ってるんだ。もう少し自分に自信がついたら、食堂を継いでこれからの萩亥佐を少しでも盛り上げていけるように・・」
「うん・・」
「だから、俺はこの場所から離れることはない。東京に行くことも・・ない。でも・・だから、ずっと俺はここにいる。どこにも行かないから、だからいつでも・・会いに来て、欲しい・・」
「・・・」
「すぐそばに居なくても、すぐに会えなくても、俺は寂しがらないから。志朗と繋がってるんだって分かっていれば大丈夫だから」
青葉はそこまで言うと、志朗の瞳をまっすぐと見つめて続けた。
「・・もう黙って居なくならないでほしい。言いたいことは言っていいし、我慢する必要なんかない。俺はどんな志朗でもかまわない。でも、志朗が自分を嫌わないでいいように、その・・俺のこと好きだって思ってくれたこと後悔させないように、俺頑張るから・・だからー」
青葉が言い終わらないうちに、志朗の両腕が青葉の身体を包み込んだ。
「えっ、志朗・・」
青葉は抱きしめられた腕の中で小さくもがいて顔を出す。
しかし志朗はさらにキツく青葉を抱きしめると耳元で囁くように言った。
「青葉は、青葉のままでいて。俺が好きだって、愛しいって思ったそのままの青葉で」
「・・・」
「頑張るのは俺の方だよ。もう、すぐに逃げたり諦めたりしない。青葉のことも、もう二度と手放したりしないから」
「・・・本当に・・?」
「うん。俺、ずっと・・後悔してた。青葉と離れたこと。自分を守ることばかり考えて青葉から逃げてリセットしたつもりだったけど、ずっと忘れられなかった。離れたら余計に・・あの景色と一緒に青葉の姿が頭に焼き付いていて。青葉の姿を探すみたいに萩亥佐の絵ばかり描いてたよ」
「・・あの、SNSの絵達?」
「そう。青葉からもらった色鉛筆を使って。少しでも何かで青葉と繋がっているって思いたくて。本当に、なんでこんなに忘れられないのに離れてしまったんだろうって後悔してた。だから青葉からメッセージがきた時は驚きすぎて、幻か妄想じゃないかって思っちゃって二、三日はちゃんとメッセージを読むことすらできなかったよ」
「だから、返事来るの遅かったのか・・」
「ごめんね・・でも本当にありがとう、メッセージをくれて。青葉がもう一度俺と繋がろうとしてくれたから、俺はここに来れた。
その、青葉がくれたチャンスを無駄にしたくない。だから、今度はもう絶対に勝手に消えたりしないよ」
「・・絶対にか?」
「うん、絶対に・・」
その返事を聞いて、青葉は志朗の背中に強くしがみついた。
「・・っ!約束だからな!」
ーーー
「おめでとう〜栄ちゃん〜!」
顔を真っ赤にして上機嫌な栄一の元へ、青葉は徳利を片手に近づいていった。
「おぉー!ありがとうなぁ青葉!」
栄一が嬉しそうにお礼を言う。
「いやぁ、こんなにみんなにお祝いされて俺は幸せ者だぁ」
披露宴でたくさん飲まされたこともあり、普段酒には強い栄一も今日ばかりはかなり酔っている。
「こうやって二次会も開いてもらってさぁ。懐かしい奴らにも会えて俺は嬉しいよ」
栄一は継ぎ足された日本酒をくいっと飲み干す。
「そうそう!あいつ!深海からも電報届いててさ。青葉が連絡してくれたんだろ?ありがとうなぁ」
「俺は栄ちゃんが結婚するって話をしただけだよ。みっちゃん、素っ気ないふりするけどなんだかんだ優しいからなぁ。そっか、電報送ってくれたんだ」
「おう。『お幸せに』って短いメッセージだったけどな。あいつ、いい奴だったんだなぁ。もっと中学の時話しとけばよかったよ」
「今からでも遅くないよ。今度機会作って同窓会でも開こう」
「おう、そうだな!やろうやろう!」
栄一はテンション高く言うと、青葉の隣にトロンとした目を向けた。
「守月も、今日は東京から来てくれてありがとうなぁ。またこうやって守月と会えるなんて思わなかったら俺は、俺はぁ」
そう言って栄一はボロボロと涙を流し始めた。
どうやら酔うと泣き上戸になるらしい。
「俺もこうやって三登の結婚式に来れて嬉しいよ。声かけてくれてありがとうな」
志朗は微笑みながら栄一の肩をポンと叩いた。
「何言ってんだよ!当たり前だろ!守月とは二年間あの分校で共に過ごした仲だろ!声かけるに決まってるじゃん!青葉がまた連絡とってるって知って俺がどれだけ嬉しかったか・・」
ヒックと喉を鳴らしながら栄一は言う。
「お前が東京に戻っちゃってから、青葉は平気そうな顔してたけど本当は寂しがってたんだからな。俺には分かってた!だから、またお前らが仲良くしてるって知って俺は本当に心から嬉しい!」
「ちょっ!栄ちゃん!酔いすぎだから!」
青葉は恥ずかしそうに頬を赤くして栄一の口を塞ごうとする。
「お前もな!青葉!寂しいならもっと寂しがれよ!そうしてくんないと俺だって元気付けてやれないんだからな!」
「えっ、えぇ〜。ごめんて・・」
「はいはい、栄一。青葉が困ってるからこっち来なさい」
見かねた凪がため息を吐きながら栄一の腕を引っ張った。
「ごめんね、青葉。こんなに栄一が酔うなんて珍しいんだけど。みんなが集まってくれてよっぽど嬉しいのね。面倒くさい絡みも許してやって」
「それはもちろん。栄ちゃんには俺だって沢山感謝してるんだから」
青葉はそう言いながら、凪の横で顔を赤くしてボーッとしてる栄一を見つめた。
「栄ちゃんの結婚式のおかげで、すぐに志朗に会える機会ができたからさ」
「え?」
青葉の小さな声が聞き取れなかったのか、凪が青葉の方に目を向ける。
「ううん。なんでもない」
青葉はニコリと笑って首を横に振った。
二次会を終えると、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
そのおかげで星はたくさん瞬いて見える。
冬の季節だからなのもあるかもしれない。
栄一は凪に引きずられるようにして帰っていった。
今日は栄一の実家に泊まるそうだ。
他の友人達も自分の家へと帰って行く。
二人残された青葉と志朗はゆっくりと暗い道を歩き始めた。
「志朗、眠くないか?今日朝一の飛行機だったんだろ?」
「大丈夫。楽しくて眠気はどこかにいっちゃった」
「たしかに、今日はいい結婚式だったよな。栄ちゃんも凪ちゃんも幸せそうだった」
「そうだね」
志朗はそう言うと柔らかく微笑んだ。
「好きな人と結ばれるって、幸せなことなんだなって改めて思ったよ」
「・・・うん」
青葉も笑みを浮かべて頷く。
それからそっと志朗の手に自身の手を重ねた。
「・・俺達も、そうだろ?」
「・・うん。そうだね」
志朗は嬉しそうに目を細めると、青葉の手をキツく握った。
「夏の萩亥佐も好きだけど、冬の萩亥佐もやっぱりいいね。星が綺麗に見える。昔青葉とクリスマスの夜に歩いた時のこと思い出すよ」
「あぁ、あの時かぁ」
クリスマスプレゼントに色鉛筆を贈った日のことだ。
「でも・・あの時は青葉と別れることを決めていたから、今ほど心穏やかではなかったけどね」
「・・そう、だったんだ」
そんなこととは知らず、自分は浮かれていたなぁと青葉は少し恥ずかしくなった。
「けど、今日は違うよ。これから先も青葉と一緒の未来があるんだ。そう思うだけで、寒さなんて忘れるくらい暖かい気持ちになるよ」
「・・志朗」
「また、会いに来るからね。何度でも」
「っ・・うん!」
青葉はニコリと笑うと、志朗の腕に勢いよく抱きついた。
志朗と、やっと心から繋がれた。
あの頃の、嫉妬や羨望に惑わされて簡単に切れてしまいそうな細い繋がりとは違う。
ちゃんと自分の存在に自信を持って胸を張って言える。確かな繋がりだ。
たくさん遠回りをしてしまったけれど。
けれど、そうやってそれぞれの道を歩むことを決めたからこそ、もう一度道は重なることが出来た。
そしてこれからも、俺達は別々の道を行く。
でも今は離れていても大丈夫だと、自信をもって思えるよ。
ちゃんと逃げずに、迷うことなくお互いを見つめ合えているから。
だから、また帰ってきて。
君の憧れたこの綺麗な場所で、俺はいつでも待っている。
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