14 / 15
第14話
「志朗、卒展はいつからだっけ?」
数年前よりも幾分かふっくらとした頬を緩ませて母が聞いた。
「2月の中旬くらいだよ」
志朗はダウンジャケットを羽織りながら答える。
卒業制作もひと段落し、今は社会人になる前の最後の自由な時間だ。
「お兄ちゃん残念がってたわよ。志朗が美容室のバイト辞めちゃうの」
「いやいや。いつまでもバイトしてるわけにもいかないでしょ」
「そうだけど。志朗目当てのお客さん多かったんでしょ」
「俺は受付やってるだけだけどね」
鼻を擦りながら志朗が上を向く。
「それより母さん、今日の体調はどう?」
「もう、大丈夫だってば。再発なしで5年たって一安心。志朗には迷惑かけちゃったからね。高校も途中でこっちに戻ってきてもらって。ごめんね」
「それは全然気にしないでって言ってるじゃん。じゃぁ、行ってくるね」
「はぁい、行ってらっしゃい」
母が明るい声で見送ってくれる。
志朗は口元に笑みを浮かべながら玄関のドアを開けた。
母の体調がすぐれないと兄から連絡を受けたのは高校二年の秋だった。
とはいえ、昔から元気にバリバリと働いていた母だ。
そんなに心配することはないと思っていた。
けれど兄から連絡が来るたび、決して楽観できる状況ではない深刻さが伝わってきた。
このまま、この遠い地に居ていいのか。
何不自由なく育ててくれた母が大変な時に寄り添わず、自分の望みを優先していいのか。
その迷いは、青葉と青空食堂に行った時に解決された。
家族と楽しそうに話す青葉を見て、やはり母のそばにいるべきだと決心がついたのだ。
家族という存在の大切さがこの食堂には詰まっている。
自分もそれに習おうと思った。
それに・・もうずっと、青葉の笑顔を見るのがキツかった。
喉に引っかかった魚の骨のように、チクチクと痛めつけてくる。
自分の過ちが自分自身を。
このまま、遠い未来まで彼と一緒にいられるとは思えない。
それならば今別れても同じだろう。
未練はきっと残らない。
終わりの日を決めて、その日までに出来ることをしようと思った。
『そばに居る』と青葉と約束をしたが、その約束も反故しなくてはいけない。
けれど彼は親しい人がいなくなる辛さを知っている。それを再び味合わせるのは申し訳ない。
それならば・・もう一度託そう、道耶に。
彼ならきっと、自分より誠実に青葉と向き合ってくれるだろう。
だけどせめて、その時までは・・
もう少しだけ。
隣りにいたい、君の隣に。
そんな、歌詞みたいなことを思っていた時期もあったなぁと、志朗は空を見上げて思った。ドンヨリとした曇り空だ。
このまま気温が下がれば、東京でも夜に雪がチラつくかもしれないと天気予報で言っていた。
今年はまだ雪を見ていないから少し楽しみだ。
東京の中でも、オシャレな若者が多く行き交う大通りを歩いた。
それから一本横の細い道に入り、数分歩くと白壁の建物がある。志朗はその建物の木目調の扉をガチャリと開けた。
「おはようございます」
「志朗くん、おはよう〜」
開店準備をしていた女性スタッフが笑顔で応える。
「今日は寒いねぇ」
「本当に。夜は雪が降るかもしれないですよ」
「えっ!本当!嬉しい〜!」
女性が黄色い声をあげると奥から「おう、志朗。受付の準備よろしく」と兄が顔を出してきた。
「はぁい」
志朗は返事をすると、スタッフルームに行き荷物や上着をロッカーに入れ準備を始めた。
兄の美容室でバイトを始めたのは十九歳の頃からなので、働いてもうすぐ五年になる。
仕事内容は受付や清掃なので資格はいらない。
時々、昔のようにヘアモデルもしている。働かせてもらっているお礼だ。しかしそれも三月でバイトを辞めたら終わりにする予定だ。
高校最後の一年間は通信制の学校に通いながら、母の看病や家のことをやって過ごした。
母の頑張りと医療の助けもあり、母の病状は好転していった。
そうやって慌ただしく過ごしているうちに一年が過ぎ、志朗は高校卒業後とりあえず兄の美容室でフリーターとして働くことになった。
進路をどうするか思い描くものはあったが、高校卒業までにそれを実現するのは難しかったからだ。
それから志朗は美容室のバイトをしながら美大へ入るための予備校に通い始めた。
なぜ美大に興味をもったのか。それは言うまでもない。
青葉との共同制作があったからだ。
描きたいものを表現する喜び。それをもっと感じたい。
描きたいと思えるものを描く技術を身に付けたい。
気がつけば志朗は絵を描くことに夢中になっていた。
一年の浪人生活を終え、無事美大生になってからの毎日はとても充実していた。
大学は今までの価値観がちっぽけだったと思えるような、個性の塊の人達で溢れていた。
志朗の悩みなど笑い飛ばされてしまいそうなほど、皆が自分の信念を持って生きている。
そんな人達に囲まれて過ごしているうちに、志朗の考え方も変わっていった。
自分を表現すること。その楽しさに気がついたら、兄の美容室のSNSに写真が載ることにも抵抗が無くなっていった。
時々大学内で他人からカットモデルについて話しかけられるが、それも以前ほど嫌ではない。
嫌なことは嫌だと線引きできる力を身につけたからかもしれない。
素直に褒めてくれる人には素直にお礼を言う。
そうではない人には、無駄な愛想笑いをしなければいいだけだ。そうすれば自然とそんな人は離れていく。
そういった人の目を怖いと思わなくなったのは大人になったからだろうか。
もっと早くわかっていれば・・
けれど迷い悩んだ時期があったからこそ、出会えた風景と人がいる。
そのことは後悔していない。
「いっらしゃいませ〜」
美容院が開店すると、続々と予約のお客さんがやってきた。
今日は土曜日なこともあり、全ての枠が予約が埋まっている。忙しい日になりそうだ。
女性客の方が比率的には多いが、SNSを見てやってきたという男性客も結構いる。
主には十代から三十代が多い。客層の年齢をもう少し上げるというのが、最近の兄の目標だそうだ。
志朗が受付でパソコン画面を見ながら作業をしていると、扉につけた鈴が鳴った。
お客さんが入ってきた合図だ。
「いらっしゃいませ」
志朗は顔を上げるといつものように柔らかい営業用の微笑みを浮かべた。
しかし目の前に立っている人物が目に入ると、思わず口元に笑みを浮かべたまま動きを止めた。
どこかで見たことがある顔だったからだ。
吊り上がった目元に黒々とした大きな瞳。
その瞳で見つめられると睨まれているのかと勘違いしてしまいそうになる。
何年か前にも、そう思ったことがあった。
けれどその時に思ったよりも、さらに迫力が増している。
歳を重ねた落ち着きがあるからかもしれない。
大きな瞳でじっとこちらを見つめていた彼は、一歩前に出るとゆっくりと口を開いた。
「予約してる深海です」
低音の掠れた声でそう言われ、志朗は慌ててパソコン画面に目を落とした。
「あ、はい。深海様ですね」
今日の予約一覧の中から「フカミミチヤ」の名前を見つける。
新規での利用のようだ。
「深海様、お待ちしておりました。本日が初めてのご来店でお間違いないでしょうか?」
「はい・・」
道耶は目を逸らすことなく答える。
「ありがとうございます。ではこちらで上着とお荷物お預かり致します」
志朗はそう言うと受付から出て道耶に近づいた。
向こうは気づいているのだろうか。ほとんど表情が変わらないのでよく分からない。
道耶は黒のダウンコートを脱ぐと、それを志朗に渡した。
手荷物はないようだ。
「お預かりいたします」
志朗は丁寧な口調で言うと、コートをハンガーに掛けて目印になる番号札を付けた。
「では、深海様。こちらで少しお待ちを・・」
「守月さん、ですよね?」
受付前のソファへ案内しようとする志朗の言葉を、道耶の静かな問いが遮った。
「え・・」
「覚えてないかな。萩亥佐で会った深海だけど・・」
道耶は少し戸惑うような表情を見せて俯く。
「あっ、いや!覚えてるよ」
志朗は慌てて大きく手を振った。
「深海君!ごめん、深海君の方が覚えてないかなと思って声かけるか迷っちゃったんだ」
「そうか。よかった・・」
ホッと一つ息をつくと、道耶は改めて志朗をじっと見つめた。
「この美容室で・・あんたが働いてるのを知って予約したんだ」
「え・・」
「見つけたのはたまたまだけど。SNSであんたのこと見つけて・・」
「あ、あぁ〜。あのカットモデルしてるやつ?見られたのかぁ」
志朗は頬を掻きながら誤魔化すように笑う。
「深海君、今こっちに住んでるの?」
「あぁ。大学で上京して就職もこっちでした。もともと実家は東京だからな」
「そういえばそっか・・」
そこまで言って志朗は口を噤む。聞きたいことはたくさんあるが、聞いていいかはわからないからだ。
志朗は口元に笑みだけ残して、受付にある新規客用のカウンセリング表に手を伸ばした。
道耶に書いてもらわなくてはいけない。
それをバインダーに挟んで道耶の前に差し出したところで、道耶がボソッと言った。
「なんで、連絡先消したんだ?」
「え・・・」
「消したろ。あの・・高二の春休みに会った後ぐらいに。青葉も他のクラスメイトも、みんな連絡出来なくなったって聞いた。だから、今更だけど最近SNSであんたを見つけた時には驚いた。それで、直接会いに行こうと思ったんだ」
「・・・」
バインダーを手に持ったまま、志朗は黙り込む。
どう答えれば辻褄が合うのか考えると同時に、青葉の名前に動揺したからだ。
その名前を人から聞いたのは何年ぶりだろう。
青空食堂のSNSも東京に戻ってきてからは一回も見ていない。
もう、自分の生活の中にはいない存在になっている。
「あ・・ご、ごめん。東京戻るってなったから、一回全部やり直すために消しちゃって・・えっと・・」
うまく言おうと思っても言葉がスラスラ出てこない。
「やり直すってなんだ?だからって連絡を断つ必要なんかないだろ。俺だってお前に言いたいことは沢山あったのに」
道耶の鋭い視線で見つめられ志朗は思わず唾を飲み込んだ。
「ごめん・・・」
「・・・」
道耶はジッとこちらを見つめていたが、小さくため息をつくと志朗の手からバインダーを取り受付前の椅子に腰掛けた。
それからサッと目を通しバインダーについていたボールペンでサラサラと記入しながら言った。
「・・あんた、今青葉が何してるか知ってるか?」
「え・・・いや・・」
「知りたいとは思わないのか?」
「・・・」
志朗は手のひらを握りしめて俯く。
『知りたいか』と問われれば答えは決まっている。
けれど、もう自分の人生に彼は関係ない。彼がどこで何をしていても、もう交わる気はないのだから。だったら知らないでいた方がいい。
「俺は・・彼が元気にしてるならそれでいいかな」
志朗は顔を上げるとニコリと笑ってみせた。
「もうお互い大人だしね。知る必要はないと思ってるよ」
「・・そうか」
道耶はそう言って目を瞑る。
これでこの会話は終わったか。そう思った時だった。
「じゃぁ青葉が元気かどうか教えるよ。今も俺は青葉とよく連絡とってるからな。俺が上京するってなった時も応援してるって長文の連絡をくれたりして」
先ほどまでの静かな話し方は何だったのかと思うくらい、道耶が勢いよく話し始めた。
「大学入ってからは大会がある時は必ず結果を報告した。駅伝に出るって目標があったから状況を知らせておこうと思って。あいつも結構まめに連絡くれるよ。学生時代は大変な時や落ち込んだりする時もあったみたいだけど、まぁ楽しそうにやってたみたいだ」
「・・へぇ・・そうなんだね」
志朗は口元だけで笑って応える。
道耶と青葉があの後どうなったのか、確認する気は全くなかった。こちらは託した側だ。
そんな驕った気持ちすらあったかもしれない。
けれど、改めて今も上手くやっている話を聞かされて、心から素直に笑えない自分に驚いている。
もう関係ないはずなのに。
「・・とは言っても、俺も長いこと青葉と直接は会っていないから本当に元気にしてるのかは知らないけどな」
「え・・・」
「こっちにきてから忙しくて萩亥佐には一回も行けてない。だからもう5年は会ってない」
「・・・」
五年?そんなに長いこと会っていないのか。
ということは・・二人は・・
「・・俺達はただの友達だ」
志朗の思考を読んだかのように道耶が言った。
「ずっとな。お前が引き合わせたあの時からずっと、俺達はいい友達だ。お前が思っているような関係じゃない」
「べ、別に俺は何も・・・」
「・・本当か?ずっと変な誤解したまま過ごしてたんじゃないのか?」
「誤解って・・・あの、俺からしたら萩亥佐でのことはもうとっくに昔のことで。最近じゃ思い出すこともほとんどないよ」
「・・・」
志朗の言葉に道耶は冷めた様な視線を向ける。
しかしすぐに目を逸らすとカウンセリング表の挟まったバインダーを志朗に差し出した。
「・・・わかった。これ・・書けました」
「あ、ありがとうございます」
志朗はそれを気まずそうに受け取る。
「あ・・では今日の担当の者が参りますまで、ここで座ってお待ちください」
仕事中だったことを思い出し、志朗は愛想笑いを浮かべると小さく頭を下げた。
それからカウンセリング表を持って受付に戻る。道耶はその間黙ってスマホに目を向けた。どうやらもう話す気はなさそうだ。
受付に入ってから、心臓が速くなっていることに気がついた。
冷静に対応をしたつもりでいたが緊張していたようだ。
志朗は改めて盗み見る様に道耶に目をやった。
体つきはほっそりしている。陸上は今も続けているのだろうか?
先ほど書いてもらったカウンセリング表の職業の欄には会社員に丸がついている。
少し毛先は伸びているが、確かに若手社員に多くいる髪型だ。
今日は整えにきたといったところか。
そんな事を考えていると、道耶の前に担当美容師がやってきて奥の方へと案内されていった。
道耶の姿が見えなくなりホッと小さく息を吐く。
まさかわざわざ会いに来るとは・・
SNSに顔を出している以上、誰かに見られるかもしれないという可能性は考えていた。けれど萩亥佐と東京ではかなり距離がある。
まさか会いに来る人はいないだろうと思っていた。
それがよりによって道耶だとは。確かにお正月の駅伝に出るためには関東の大学に進学しなくてはいけない。
彼がこちらにくる可能性は十分にあったが、その考えには至らなかった。
と、いうよりも道耶はずっと萩亥佐の近くにいるだろうと思っていたのだ。
青葉の近くに。せっかく再会できたのだから。そういう仲になったのなら離れないと思っていた。
けれど・・どうやらそういう関係にはならなかったらしい。
道耶も、そして青葉も二人とも未練を残していたのに。
一度離れてしまったらそれは無理だったのだろうか。
それとも・・
そこまで考えて志朗は小さく首を横に振る。
もう過ぎた事だ。今更何を考えても遅い。
それから一時間ほどして綺麗に髪を整えられた道耶が受付に戻ってきた。
伸びていた毛先は短く切り揃えられている。
「お願いします」
担当美容師から伝票を渡され、志朗はレジの前で会計作業をおこなった。
志朗が値段を言うと道耶はこちらを見る事なくバーコード決済で支払った。
「ありがとうございました」
志朗がお礼を言うと担当美容師が道耶を扉の前まで案内する。
もう受付の人間が関わることはない。
だから、これで・・もう。
「あ、あの・・」
身体が動くよりも先に声が出ていてた。
道耶と見送りの美容師が同時に振り返る。
「あ、俺ちょっと知り合いで。外まで見送ってもいいですか?すぐ戻るので」
志朗が言うと、美容師が驚いた様に目を見開いた。
「え、そうなの?いいよいいよ。ありがとうございました。またお待ちしてます」
美容師はそう言うと、扉のドアを開けて店の奥まで戻って行った。
「あ、じゃあそこまで・・送ります」
志朗は気まずそうに道耶を扉の外へと促す。
「・・・」
不審そうな目を向けながら道耶は志朗より先に店の外へと出た。志朗もその後に続く。
冷たい空気が頬を掠め思わず肩が縮こまった。相変わらずの曇り空だがまだ雪は降っていない。
「あの、今日は来てくれてありがとう」
志朗は後ろから道耶に話しかける。
「深海君に会って、その・・懐かしい気持ちになったよ。久々に萩亥佐のことも思い出せたし・・」
「本当に?」
「え・・・」
道耶が首だけをこちらに向けてギロリと大きな瞳で見つめてきた。
「・・ここに来たのは、美容室のアカウントをSNSでたまたま見つけたからだけど・・でも」
そこまで言って道耶は向き合うように正面を向いた。
「でも、お前自身のSNSもあるだろう?」
「え・・・」
「本当に、お前が萩亥佐をもう思い出さないんだったら・・あんな絵は描かないんじゃないのか?」
「・・・っ」
志朗はひゅっと小さく息を吸う。
「あの絵・・俺には、戻りたいって言ってるようにしか見えなかったから。でも、きっとそんなこと言えないって意地でも張ってるんだろうと思ったから、会いに来た」
「・・・」
「・・ちなみに、青葉は知らないよ。あんたのSNSもこの美容室のことも。あいつはもうSNSやってないからな。食堂のSNSは今は従兄弟が引き継いでやってくれてるらしいし」
「・・・」
志朗はうつむき加減でただ黙って道耶の話を聞く。
「昔を思い出して未練たらしく描くくらいなら・・今を見に行ってみればいいんだ。美化されすぎてたってガッカリでもしたら、前に進めるんじゃないのか?」
「・・なんで・・」
「・・・?」
「なんで、わざわざそんなこと言いに来てくれたの?深海君は俺のこと恨んでると思ってたよ」
「は?」
道耶は目を細めて志朗を見つめた。
「あの時、俺はわざと青葉に伝えなかったのに。それで二人を離したのに。全部・・全部自分の都合のいいように・・」
「・・・」
頬をなぞる冷たい風のように冷めた視線を道耶は志朗に向ける。しかしすぐに呆れたようにため息を吐いた。
「あんたってすごい自惚れてるよな」
「え・・」
志朗は思わず怪訝な表情を向けた。
「俺が、いつまでもあんたのこと考えてるわけないだろ。こっちは他にやることも考えることも沢山あるんだからな」
「・・っ」
志朗は頬を染めて唾を飲む。
そう言われてしまえばそうだ。
なぜ、いつまでも自分のことを覚えていて、そして恨んでいると思い込んでいたのだろう。
昔からそうだ。
良くも悪くも、自分は人から特別な感情を向けられることが多いのだと思っていた。
けれど今思えば、それは思い上がっていただけかもしれない。
人は、自分が思うほどこちらに興味があるわけではないのだ。
それなのに・・
志朗は急に恥ずかしくなってパッと横を向く。
「そうだよね。確かに俺、自惚れてた。そんな、いつまでも俺のこと考えたりしないよな」
「・・・」
「はは。ごめん、忘れて。俺、恥ずかしい・・」
「けど。それは俺のことだから」
志朗の言葉を遮るように道耶がハッキリとした口調で言った。
「・・・」
「俺はあんたのことをいつまでも考えない。けど、他はどうか知らない。あんたのこと・・ずっと忘れてない奴だっているかもしれない」
「・・・」
「それを確かめることが出来るのは、あんただけだろ」
「・・・・今更?」
志朗はポツリと呟く。
「もう5年も経ってるんだよ。新しい生活を送ってる彼に今更蒸し返すように聞くのは気が引ける・・だったら覚えてるのは自分だけでも、満足だよ」
「・・・」
「せっかく来てくれたのにごめんね。でも、ありがとう」
志朗は穏やかな笑みを浮かべる。
それを見て道耶は再びため息を吐くと踵を返した。
「わかった。もう、俺はこれ以上何も言わない。俺は関係ないことだからな」
道耶はそう言うとゆっくりと歩き出した。
志朗はその背中を眺めていたが、思い出したことがあり後ろから慌てて声をかけた。
「あ、あの。なんで、俺のアカウントわかったの?」
「・・え?」
道耶が足を止めて顔だけこちらに向ける。
「俺のアカウント、詳しいプロフィールは何も載せてないしコメントもほとんど付けてない。ただ描いた絵だけを載せてるから、同じ美大の友達くらいしか気づかないと思ったんだけど・・」
「・・・よく、見てたからな」
道耶は考えるように伏目になってからボソリと言った。
「え・・見てた?」
「あぁ。青空食堂のSNS。青葉があんたとの共同作品を載せ始めた時、今までのものとは違うからどうしたんだろうと思って何回も見にいった。これは誰が描いてるんだろうって・・青葉に協力してくれる親しい誰かができたのかって」
「・・・」
「悔しかったけど、伝わってきたよ。青葉が楽しそうにあの作品を作ってたのが。だからSNSであんたの絵を見つけた時すぐに気づいた。ただそれだけだよ」
道耶はそう言うと、再び踵を返し歩き始めた。
志朗はもうその後ろ姿には声をかけなかった。
五年という歳月は、人や環境を変化させるには十分過ぎる時間だ。
『懐かしい』と、過ぎ去った過去として思い出話のように語ることの方が多いだろう。
この街とは全然違う、緑溢れる山々とその間を縫うように流れる雄大で清らかな川。
人の作り出す音よりも自然の声が聞こえてくる日常。
目を瞑ればまだいくらでも思い出せる。
忘れていない。忘れられない。
当たり前だ。そんなこと無理だ。
だって、今の自分はあの日々から繋がっているのだから。
溢れそうになる想いを、絵にすることでここまでやってきた。
あの日々が自分を支えてくれた。
忘れられるわけがない。
あの場所も。一緒に過ごした彼のことも。
志朗は目を瞑り冷たい空気を鼻から吸い込む。
そしてフッと小さく息を吐いた。
それは白いモヤになってすぐに消えてしまった。
確かに、道耶の言う通りだ。
記憶の中の景色を支えに生きてきたから、本当の姿よりも美化されているかもしれない。
けれど、自分の心にある景色は紛れもなくあの姿なのだ。
今、あそこで暮らしている人達は元気だろうか。
自分を見失っていた時に、心からの安らぎをくれたあの場所に、あの人に。
せめて・・・
大人として新しい一歩を歩く前に・・・
ありがとうと、伝えてもいいだろうか。
『今、自分は元気にやっています』
『この風景に支えられています』
たとえ、自分のことは忘れられていても。
そう、せめて伝えたい。
ともだちにシェアしよう!

