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33 憧れとは、甘い胡蝶の夢なのか
ユンファ殿は俺を見下ろし、ふふ、と目を細めて、何かとても嬉しげに笑った。
「…ソンジュ様…実は僕には、大好きなお伽噺がありまして…――それは狼族と蝶族の、…あ、これです、実はこれなのですが、……」
「……ぁ、あぁ……」
と、ユンファ殿はいくらか興奮気味に、寝台に置いていたらしいその若草色の本――蝶と狼のお伽噺を片手に取り(もう片手は林檎を掴んだまま)、俺へとその本を差し出してきた。…俺はもちろん、それのことはよく知っているのだが…咄嗟、知っていますと断るのも何か水を差すようで、とりあえず、その一冊の薄い本を受け取った。
「…実は大好きなあまり、こっそりと盗むようにその本を持ってきてしまったのです、いやそんなことより、…ぁ、あの…その物語の中に、狼、狼族が出てきて……」
「………、…」
興奮気味に話しはじめたユンファ殿…――あぁ、もちろんそれはよく知っている。…それにしても彼、本当にこの本が大好きなのだろう。側面の頁 が白いわりにかなり読み込んだらしく、表紙の、若草色した和紙がところどころ毛羽立って、狼の里にあったものよりもこれは、やや年季が入っているようにさえ見えるのだ。
「…それで僕、実はずっと憧れていたのです、…いつか…いつか狼族の方に会えたらな、と……」
「……、んん…なるほど……」
俺はまた、ユンファ殿に視線を転じた。
…彼は本当に、狼族と出会うことに憧れていたらしい。その淡い紫色の瞳を、キラキラと幼気 なまでに輝かせ、俺のことを羨望の眼差しで見下ろしてくるのだ。――いやそれどころか、その白い頬をうっすらと桃色に染めてまで、…彼、ずいぶん興奮している。
「…まさか、ソンジュ様が狼だったなんて…ふふ、そんな……、…」
嬉しそうににこっとしたユンファ殿は、じわりとその目を熱く潤ませ――ふ、と目線を伏せると、この喜びを噛み締めているように、むしろ俺を見ないで「嬉しいな…」と幸せそうに呟いた。
そしてユンファ殿は、腿の上でまた赤い林檎を包み込むように持ち、それを見下ろしながら――どこか陶然とおもむろに、こう口ずさむ。
「――“蝶と狼、永恋 の誓いにつがい合う”……」
そのお伽噺の一節をユンファ殿の、そのかろやかな声で聞いたとき――俺はハッとした。…これはよい機会だ、と。そして俺はやや笑いつつ、こうおもむろに続けたのだ。
「…“たくさん卵を生むけれど、蝶は長くは生きられぬ”……」
俺もまたそのお伽噺、実は知っております――いくらかし た り とした笑みになってしまったかもしれないが、…これによってそう示した俺に、はた、と俺の目を見てきたユンファ殿は、とても嬉しそうな目をしている。
そして彼は、その続きをまたそっと――俺の目をじっと、その透き通ったやさしげな、薄紫色の瞳で見つめながら。
「…“守っておくれ、僕らの可愛い卵たち”…、ふふ…」
そうゆったりとした速さで続け、柔らかく微笑んだユンファ殿は、よりにっこりと笑みを深めた。
「…狼族のほうにも、このお伽噺が…?」
「…ええ。五蝶にも、このお伽噺が伝わっておられたのですね…、いや、実は我が故郷…狼の里にも、この物語…お伽噺として残っているのです」
「…そう…、そうですか。このお伽噺が、蝶と狼、その両方に……」
ユンファ殿は何か、嬉しそうにニコニコしている。
…ジャスル様の前じゃ、あんな人形のように白んだ顔ばかりしていたというのに――いや、俺が同じお伽噺を知っているとわかり、親近感を覚えてらっしゃるだけだろう。
そして彼は、うっとりとその切れ長のまぶたを伏せ気味に、いやに可憐な表情をするのだ。
「……僕…このお話が、本当に大好きなんです。――ずっと憧れていて…何度も読み返しました、そして…そのたびに変な、妄想を…してしまって……」
「………、…」
ユンファ殿は、膝の上に置いて包み持つ、真っ赤な林檎を愛おしそうな眼差しで見下ろしている。
「…誰か…あのお話の中に出てくるような、狼の、誰かが…あの小屋に訪れ、…僕なんかのことを、見初めてくださるんです……」
「……、…、…」
僕なんか…とは、何とも大変なことだ。
これほど、誰しもを魅了するようなほどに美しいユンファ殿が、な ん か とは…――彼、ご自分の美しさを、しかと等身大に見られていないのだろうか。
ユンファ殿はやはり赤い林檎を、夢でも見ているかのようにうっとりとした目で見下ろして、その薄紫色の瞳を、小さく揺らしている。
「…てふてふ、僕のてふてふ…こっちへおいで、僕のそばにおいで…――もう出ておいでよ…、僕の腕の中へ、おいで…、その狼の方は、僕にそう言ってくださって……」
「…………」
どうしても、胸が切なくなってくる。
ユンファ殿はあまりにも、幸せそうな微笑みを浮かべている。…あまりにも幸せそうな、柔らかく静かな声で、そう語っているのだ。――しかし、そんな柔らかく甘い夢を見ていたというのなら、よほどきっと死にたくなるほどに辛くなる現実が、もう明日に差し迫っているというのに。
いや…もしかユンファ殿は、そうした甘い妄想をすることで、まるで今このときのように――あの、小さな籠の中に閉じ込められているという――辛い現実を、ひと時でも忘れて、それでやっと凌いでいたのかもしれない。
そして、ユンファ殿は目線を伏せたまま、うっとりとした顔をして…しかし、声はどんどんと小さくなり。
「…そうしてその狼の方は、僕を、あの小屋から連れ出してくださるんです…。そしてその方は、何も恐れず僕の目を、見つめてくださって…、そっと…優しく、僕を抱き締めてくださって…、僕の髪を撫でて…、…その…、そのあとは、…つまり、…恋人同士の、…その……」
「……、……」
もごもごと…そこでぱっと頬を染めたユンファ殿は、そこまでで何か言いにくそうに口布の下、赤くふっくらとした唇を薄く開閉させて、はにかんでいるらしい。
しかしまあ、俺にも彼の「その…」の先が予想できなくはないのだが。
彼、やはりかなり初心 なんだろう…――人がこれほど言いにくそうになることなど一つしかない、…ユンファ殿は、恋人同士のつがいあい、つまりきっと、夜の秘め事のことを言いたいのである。
そしてユンファ殿は――恥ずかしそうに美しい眉の根をやや寄せては、きゅっと目を瞑り、その白いお顔をうす赤くしては。
「――っせ、接吻を、…してくださるんです、僕に……」
「…ぁ、せっ…、あぁ、…なるほど……」
せ、接吻…?
いや、てっきり俺は、――驚いたな。
どこまで初心だ、このユンファ殿――正直、下手な乙女よりも初心ではないか。
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