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34 貴方を想えば

                 ユンファ殿は顔を真っ赤にして、はにかんで笑い、また俺のことを見下ろした。   「はは、す…凄く変でしょう、変な、妄想でしょう、まるで夢のようで…とても現実には、起こりえないのに……」   「…ぃ、いえ、そのようなことはありませぬ…。まさか、変というのでは……」    …ないが…、驚いた、本当に。  まさか接吻ごときで、あれほどに恥じらう人がこの世にいたとは。  ユンファ殿は自嘲して笑うと、はぁ…と淡いため息をつき――平たい胸の中央、薄桃色の着物の(えり)元をそっと、その白い手で押さえては。  俺のことを、キラキラとした美しい瞳で、じっと見下ろしてくる。   「…そ、それに…ソンジュ様、実は、――そ、そっくりなのです…、その、僕の妄想の中の…狼に……」    はにかみながらもそう嬉しそうに言って、ユンファ殿は、ただじっと俺の目を見つめてくる。――じんわりとほのあたたかいものを、その美しい薄紫色の瞳に宿している彼の目を見ていると、…俺は頭の芯が痺れてきて、全くおかしくなりそうだ。  それは嬉しいな、とすら――この愚かな口から、こぼれ出てしまいそうだ。   「…“狼と蝶、見つめあう。…ただそれだけで、蝶と狼、つがいあう。”…――あの物語の…この一節が特に、僕は本当に大好きで……」   「………、…」    俺と見つめ合いながら何を、…いやまさか、――偶然に違いない。全てなんの意味もない。  そうは思えど、どうもこの胸が逸ってたまらぬ。…しかし、それは危機感というような不快なものではなく、至極あたたかい胸のときめきだ。違う。恋など。    俺はその薄紫色から目を逸らし、目線を伏せた――。   「…そうでございますか。さて…まあとにかく、貴殿が狼のことをご存知のようなら、詳しい説明も不要ですね。…ご心配には及びませぬ。――狼の私があわや、ジャスル様のご令閨(れいけい)であらせられるユンファ殿にご無体を働くことなど、決してあり得ぬことです。」   「………、…」    ユンファ殿は、は…とわずかな吐息の音を立てた。  しかし俺は目線を伏せたまま、続ける。――早急に話を着け、この部屋の扉の前に戻らねばならぬ。   「…狼は、恋い慕う者にのみ肉欲をいだく種族でございます、どうぞご安心めされよ。――ユンファ殿を他の者からお守りする以上のことは決して、…貴殿に触れるような真似は、決して私はいたしませぬ。」   「…………」   「…ユンファ殿。…私はジャスル様の側近でありますれば、これよりは顔を合わせる機会も幾度あるかと存じまする。――そのときはどうぞ、よろしくお願い申し上げます。…それでは、私は持ち場に戻りますので、…どうぞごゆるりと、長旅の疲れを癒やされよ。では失礼。」    俺はそうとだけ告げ、これ以上の会話は不要だと再び立ち上がった。――すると、ユンファ殿は待ってほしいというように、俺の腰骨あたりの布をきゅうと掴み、「そ、ソンジュ様、…ソンジュ様…」と縋るよう、顔を上げて俺のこと見上げた。 「…お待ちくださいソンジュ様、…もう少し、もうほんの少しだけで構いません…――どうかもう少しだけ、僕とお話しをしてくださいませんか……」 「…いえ、とんでもない…」  俺は言葉少なに首を振る。――そしてユンファ殿を振り切り、俺は彼に背を向けた。…しかし、俺の背に放たれる、焦りの声。 「っでは、僕の話を、貴方様が聞いているだけ、…いえ、僕がただ勝手に独り言を言っているだけ…そういうことにして、…ほんの少しで構いませんから、どうか僕とお話しを……」   「………、…」  困った、というのが本音だ。――当然かもしれないが、彼はまだジャスル様の恐ろしさを知らぬのだろう。  俺はユンファ殿に背を向けたまま、意識的に小さく放つ声で、その人を諌める。 「…僭越ながら、ユンファ殿。なりませぬ。――そのことが知れたら、貴殿も私も、どうなることやら…」 「…しかし、…しかしこれではとても、眠れない……」   「……、…」    まるで幼子のように弱い声を出すユンファ殿に、俺は目玉を回し、ええいと再度――振り返った。   「……とても怖くて、不安で…、さっき…、……」   「…………」    確かに、今伏せられたそのまぶたが、不安に儚く震えているのはとてもよくわかる。…それときたら全く、本当に、胸が痛いほどだ。――しかし「さっき」のあとはなく、ユンファ殿はそれきり口を噤んでしまった。  哀れに思え…俺はその場にまた跪き、片膝を立てた。ただ、その人の目は見ず、目線を伏せたまま。 「…そのお気持ちはよくわかりましたが…、もちろんこの会話に関して、私はまさか告げ口などいたしません。…しかし…誰かが通りがかったとき、我らの話し声がその者に聞こえてしまったら…――それを聞いた者はすぐさま、ジャスル様へとそのことを、報告するに違いありませぬ。…」   「…………」    俺の視線の先にある、ユンファ殿の白い指先――彼が手に持つ真っ赤な林檎、その、大きくも整った縦長の桃色の爪が、じわりと白む。   「…ユンファ殿…貴殿のご不安は、私もお察しするところではございますが、しかし…――今宵は、ただ会話することさえも命取りになる、大変危険な行為となるのです。…それが、貴殿のお命まで奪われかねぬ行為だと、どうかご理解いただきたい。…」  すっと見上げた先。  伏せられた白い切れ長のまぶた、黒々と生え揃って長いまつ毛が震え、ぱちり…ゆっくりとそのまつ毛が瞬きをして、がっかりしたように――ユンファ殿はその赤い唇を、きゅっと引き結んだ。    これ以上何かを言う気配のないユンファ殿は、やっと諦めてくださったのだろうか。  その手にある林檎を見下ろしている彼は、その薄紫色の瞳をまた、虚ろに曇らせていた。      

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