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42 初心な貴方に、せめてもの抱擁を

                「…なっ何をおっしゃるんだ、そんなこと、…」    できるはずがない、と言おうとする俺の言葉にかぶせるユンファ殿は、…いよいよ俺の体に抱き着いてきた。   「…ったった一度きりで構いません、貴方様の唇を、僕の唇に、ほんの少し触れさせるだけで結構です、…お願い、どうかお願いいたします、――一度だけ接吻をしてくださったらもう、…もうこれ以上、ソンジュ様を困らせるような我儘は決してもう、……」   「っなりませぬそのようなこと、…」    俺はユンファ殿を押し返そう、引き剥がそうと――その人の肩を掴むのに、……できぬ。手が震え、胸が震えて、この手にどうも力が込められないのだ。   「…っ僕はまだ未婚です、今宵の内はまだ、まだ僕はジャスル様のものではありません、…まだ…」――泣いているように小さく震えた声でそう言い募るユンファ殿は、徐々にしおしおと、その威勢を失い。   「…きっと、今宵の内ならばまだ、きっと…僕はまだ、きっと、きっと…ソンジュ様と口付けをすることだって…きっと、許される……」   「…ゆ、ゆる、許されませぬ、まさか、貴殿は今宵、姦淫たる行為は何もなさってはならぬという……」   「お願い…、…貴方様に、愛する奥方様がいらっしゃることは、これでも重々わかっております、しかし…、どうか……」    俺に抱き着いて泣いているユンファ殿は、ひ、ひ、と小さくしゃくり上げ――「一夜の夢が、見たいのです…」俺の耳元で、震えたか細い声がそう言う。   「…ごめんなさい…、勝手な我儘を申していることは、わかっております…――しかし僕は、もしソンジュ様が、僕に接吻をしてくださったなら…、きっとこれから先、ずっとその接吻を想い、幸せに生きてゆけるから……」   「……、…、…」    この胸の内の全てが、切なく疼く。  …ならぬ、ならぬと俺の頭が、厳しい声を轟かせる。  それでいて俺の体は、おいで、もっとこっちへおいでとユンファ殿を、抱き締めようとひくついて、じんわりと俺の目を熱く潤ませる。  その人の声はか細く、切実な願いを俺に――星にも月にも、たとえ神でも叶えられぬ――俺にしか叶えられぬ願いをそっと、俺へ、祈るように。   「淫乱で、淫蕩だと思われても、もはや構いません…。それでも僕は、…どうしても僕は…――僕はソンジュ様と、一度だけ、接吻がしとうございます……」   「……、ユンファ殿…、…」    俺は、迷う。  俺の迷い、震えて彷徨う両腕は――結局、俺に抱き着いてくるその人をふわりと遠慮がちに、そっと抱き締めた。  もちろん淫らな意味合いはない。もちろん情を絡ませたということでもない。――ただ、ただユンファ殿の、悲痛なまでの切実なお気持ちへ向け、ほんの些細な慰めに。 「…これで、どうかご勘弁を……」   「……、…、…」    俺の腕に抱かれたユンファ殿は、は…と小さく、息を呑んだ。…そしてぎゅう、と――俺を抱き締め返し、彼は。   「…はぁ…、……」    薄く幸せそうなため息をつき、俺の脇の下から回した腕で、俺の肩を背中からきゅっと、掴んでくる。   「……ソンジュ、様…、嬉しい……」    たかだか抱擁ごときで俺の名を嬉しそうに呼び、至極幸せそうに、嬉しい…ともらしたユンファ殿に――しかし俺は、勘違いのないように、と。   「…いえ、私のこの抱擁は、決して…」   「わかっております…、でも僕は、ソンジュ様が大好きだから…、嬉しくて……」    俺の腕の中で、まるで(さなぎ)から出でた蝶の羽のように小さく震えているユンファ殿は、…そう柔らかく、幸せそうな声で言うのだ。――俺はつい、しかとその人を抱き締めた。…「ぁ…」少し驚き、俺の腕の中でわずかたじろぐユンファ殿…これほどの厚い装束を身に纏っていながら、なんて細い体だ。  鼻腔をとろけさせるような、甘い桃の香り。  これが蝶の香りか――その濃厚な、完熟した桃の香りに頭がぼやけ…、和らいだ警戒に、俺の胸の内の力も抜けてゆく。…はぁ…とため息をついた俺は今更、この抱擁に際して自分が、息を止めていたことに気が付いた。   「……まるで…夢を、見ているようだ……」    ユンファ殿は陶然とした調子で、俺の耳元、そう呟いた。――はぁ…とまた彼も淡いため息をつき、ゆったりと、この幸せな夢に浸ったその人の声は、至極心地良さそうに。   「…こうしてソンジュ様に、抱き締めていただいている…ただそれだけで、幸せな夢を、見ているような…――そんな、とても素晴らしい心地が、いたします……」   「………、…」    俺も、――まるでうっとりと微睡むそのさなか、甘く柔らかな夢の中に浸っている…そのような、そんなふわふわと浮ついた心地が、その実俺の、金の髪の先にまである。  そしてユンファ殿は、俺の耳元、あるいはその距離でなければ聞き取れぬような小さな声で「…本当に、夢のよう…」と、うっとり言うのだ。――俺の胸の中、俺の早鐘を打つ心臓が、きゅうっと忌々しくも甘く、絞られる。   「……もう少しだけ、こうしていてくださいませ、ソンジュ様……」   「……かしこまり、ました…、……」      この夜が明けなければ――俺はこのまま、ずっとこのまま、ユンファ殿を抱き締めていられるというのに。    朝とはいつも、忌々しい現実を連れてくるものよ。  自分はあたかも正義の光、そのような清々しい顔をしている朝の顔が、こんなにも忌々しい。      

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