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54 この溢れんばかりの幸福は

                  「嬉しい…よかった、此処へ来て……」    ほのかな微笑みをたたえているユンファ様は、赤面したままに俯き、そう幸せそうにつぶやいた。   「……、ユンファ様……」    伝わらなかったか…――いやしかし、それにしても。  何が、よかったというのか。…何がよかったと――?  故郷に喜ばれながら生け贄として差し出され、好きでもない男に純潔を無理やり奪われ、あまつさえその無理な暴行を受けている自分の肌を、秘所を、本来は配偶者にしか見せないはずのその姿を、その何もかもを他人の目に晒す羽目になり――それでいてその者たちは、ジャスルの暴行を止めにも入らず。  悲しかったろうに、悔しかったろうに、虚しかったろうに…――ましてや、自分をそうして無理やり暴いた男が、明日の“婚礼の儀”をもってして、自分の配偶者となるのだ。    しかしユンファ様はむしろ、本当に幸せそうである。  …俺の目を見てはくださらないが、自分の平たい胸の中央に白い片手を添え、とても幸せそうに、うっとりと微笑んでいる。   「…本当によかった…――ソンジュ様と、今宵こうして二人きり、過ごせるなんて……」   「………、…」    はぁ、と俺の口から、震えたあわいため息がもれた。  思わずである。…もはや我知らぬところで、俺の胸の中が儚く震えている。    俺のため息にふっと顔を上げたユンファ様は、そっと俺の頬を、掠めるように撫でてきた。…一度するりとそうして、愛おしそうにまぶたを細め、俺の目をただじっと見つめてくる。   「…これは…まるであの小屋の中で見ていた、僕の夢のようです…。その夢が、今宵叶いました…――死ぬまでに恋をすることが、叶いました……」   「………、…」    なぜそう言いながら――悲しい諦観を眉に、その無垢な薄紫色に、宿している?   「…僕はほとんど、あの小屋の外に出たことがありません…。あまり人と、こうしてきちんとお話しをしたことも、そうありませんでしたが……」    ほんのりと微笑み、俺の目を見つめてくるユンファ様のその目は今、とても柔らかく優しい。   「…お話しをするのは、こんなにも楽しいことだったんですね。…ソンジュ様となら、いくらでもお話しがしたいと思います。…殺されてもいいと思うくらい…貴方様にお話ししたいことが、言葉が…不思議とたくさん、頭に思い浮かぶのです」   「………、…」    俺はもう先ほど、()()()と諦めたのだ。  もうこれ以上ごまかすことなどできない。…だから俺は、ユンファ殿…――否。…俺が、この心の底からお慕い申し上げている胡蝶のお方を――ユンファ()と、呼び慕ったつもりであったのである。  しかし、俺のその素直に、まっすぐになったこの恋い慕う気持ちを、ユンファ様は知ってか知らずか――困り顔をして、それでいて、俺の目を愛おしそうに見つめてくる。   「…それに…ソンジュ様ほど僕に優しく、親切にしてくださる人もおりませんでした…――日に三度食事が運ばれてくるときも、それを運んでくれる人とは絶対に目を合わせぬように、と言い付けられておりましたし…口布も、人がいるときは絶対に外すなと」   「…………」    つまりユンファ様は、あの口布で――その美しい顔を、むしろ害であるからと、隠せといわれていたのか。…そして人の目さえ見るな、と。――下手すればのみならず、ユンファ様は何度も何度も、「この穀潰し、役立たず、お前はどうしようもない淫乱だ」などと、“淫蕩の罪”を犯した淫猥な罪人として、家族にさえ罵られてきたか。    それでユンファ様は――()()()()、と言うようになられてしまったのだろう。…本当に美しい人だが、美しいと言われるのはただ、自分のその“鱗粉”の力が強いからというだけに違いない。    そう思い込まされた彼の、なんと悲しいことか――。    そこでユンファ様は、はにかんだように目を細めて、ぱっとその白い頬を薄桃に染める。   「…だからか…ソンジュ様と目が合ったとき、思わずどきりといたしました。――ふふ…とてもお美しくて、なんて優しい目をしていらっしゃるんだろう、と…。目を背けねばと思いながら……見惚れる、というのでしょうか…。ソンジュ様の、その青い目を見ていると…不思議と、とくとくとこの胸が、高鳴ります……」   「……ふふ…」    そう鷹揚(おうよう)に胸板の中央をそっと、片手で押さえてははにかんで笑うユンファ様は、…やはり可愛らしく、誰よりも楚々としていて、美しい。――あまりにもお可愛らしい、…俺は、笑みがこぼれるほどにそう思ってしまった。  しかし、そういえば確かに…ユンファ様はあのとき、その目を合わせたのはその実、俺とだけであった。…ユンファ様もまた俺と同様に、目を逸らすことさえ忘れて俺の目に、魅入っていたのか――ならば本当に、俺たちの出逢いは運命ではないか…――。        

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