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55 無かったことに

                     ユンファ様は俺と目を合わせたまま、ふんわりと笑みを深めては。   「…それから…僕はあの小屋の中で、ずっと一人きり、与えられた本ばかり読んでおりました。…兄上がいうように、僕はずっと、()()()()()()()()()()()()として、純愛の物語をただひたすらに…――あのお伽噺も、その教科書のうちの一冊です」   「…………」    これまでの孤独を語るその人は、それでいて――どこか幸福そうに頬を染めている。…どこまでも愛おしい人だ。  これほどこのユンファ様を守りたいと思うとは…かつて恋人をいくらか持っていた俺であっても、その実これは、生まれて初めての強い気持ちである。  はは、と目を細めて笑うユンファ様は、やはりどこかはにかんでいる。   「…つまり、僕は淫蕩であるから、純愛の物語をひたすらに読めと、いわれておりました。…そうして正しい愛の形を学べば、あるいは人をみだりに誘うような、その僕の淫乱な性格が正され、さらに…強すぎる“鱗粉”の力が弱まるかもしれぬから…と。――しかし僕は…ふふ、教育とはいえども、その物語たちが、大好きなのです。…」   「………、…」    ということは…と、俺は密かに眉を顰めた。  そうして無垢な、純愛物語ばかりを読ませられ――隔離され、世の中の情欲やら何やら、そうした穢れものとは一切触れてこないまま――誰よりも純粋に、どんな乙女よりもよほど清廉に育ったこのユンファ様を、…あのジャスル様の元に、うってつけだ、と嫁がせたのか。    ユンファ様が、生まれて初めての接吻に価値を見出していたことも、そうなら頷ける話だ。――純愛の物語には、そういった夢見がちなことばかり出てくる。  慕い、添い遂げると決めた相手と結ばれ、生まれて初めての接吻を交わし――その身をその伴侶に委ね、一生その伴侶以外の肉体を知らぬまま、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。    そんな物語ばかりを読み、それこそが正しい愛の形だと信じきっているユンファ様が――あまつさえ秘所を、配偶者のジャスル様以外に見せろと強要され、その他人の目がある中で無理やり暴かれた。  どれほどお辛かったか、どれほど、傷付いたか…――。    そもそもユンファ様は、五蝶の国のためだと割り切っていらっしゃるようだが、本当ならば――慕えないと確信しているジャスル様と結婚するというのだって、本当はお嫌だろうに。    俺に名前の字を教えてきたのは…――あるいは、その本当は嫌な気持ちを表した、ささやかな意思表示、または自己防衛であったのかもしれない。…慕っている俺にだけ、その自分の名前の字を教えておけば…気持ちばかりは、今宵ばかりは…俺の、俺だけのものでいられるから、と。    ふ…と顔を、目線を伏せ、にっこりと微笑むユンファ様は、懐かしむように優しい眼差しを、下のほうへ向けている。――まるでそこに、好きだという物語の本があるかのように。   「…生まれ付きの体質では結局、それで僕の、“鱗粉”の力が弱まることはありませんでしたが…――しかし、そんな淫蕩な僕でも、ひそかに憧れておりました…」    諦観の緩みを見せるユンファ様の、目元。  力なく閉ざされた切れ長のまぶた、弱々しい眉。   「…誰かお一人を慕い…、そのお慕いした方と結ばれて…――この唇を、この体を…終生その方にだけ、捧げられる恋…、…」    ふに、とユンファ様の人差し指が、彼の赤く肉厚な下唇にそっと触れた。…ふ…とゆっくり上がる白いまぶた、じわじわと見えてくるユンファ様の、その美しい薄紫色の瞳、おもむろに上がったその顔は――月明かりのように白く、儚い。…俺に向けられた彼の顔は、楚々とした悲しげな微笑みをたたえている。   「…(みさお)は、もはやどうしようもありません…――しかし…我儘を申せば、せめて初めての接吻は、お慕いしているソンジュ様としたかったのです……」   「…ユンファ様…本当に、俺などでよろしかったのですか…」   「…はい、ふふ…、むしろ僕は、貴方様がよかったのです……」    聞けば彼は、笑って小さく、コクリと頷いてくれた。  頬を薄桃にじゅわりと染めて、じっと俺の目を、熱っぽい薄紫色で見つめて――ふわりと微笑み。   「…その夢も、叶いました。…それに、抱き締めていただけた…、恋い慕う方とこうして一晩…――こうして見つめ合い…二人きりでお話しがすることも、叶いました」    そしてユンファ様はにこ、と笑ったが。  そこで悲しげに眉を寄せ、その薄紫色の瞳に諦観を宿すと――はぁ…と淡いため息と共に、うつむいた。   「……もう十分…、僕は本当に、もうこれ以上のことを、ソンジュ様に求めません…。貴方様には、愛する奥方様がいらっしゃるのだから…――僕はまた、人をみだりに誘惑してしまったんです…、先は貴方様を、僕が誑かしてしまっただけ…。ですから、どうかソンジュ様……」   「…、…、……」    そうか…ユンファ様は今、――また自分の“淫蕩な魂”、つまりあの“鱗粉”のお力に俺がそそのかされ、ユンファ様に美しいと言い、彼を抱き締めたのだと、勘違いしているのだ。    しかし、彼がそう思うのも無理はない。  俺は先ほど、ユンファ様を拒むためだけに、大層な嘘をついてしまった。  俺は、今にもこの喉元に、真実が差し迫ってきている。  ――確かに俺には妻がいる。…それもうら若く、もしくは人が羨むかもわからないほど、美しい妻だ。    しかし――俺はその実、その妻のことを愛してなどいない。…俺の体がつがいだと認めなかったその妻のことを、俺はもちろん、抱いていない。その女と、見つめあってすらいないのだ。    俺は今にもそう真実を告げ、このユンファ様を抱き締めそうな衝動が内側から激しく起こり、――体が強ばって、それをがちり、がちりと抑え付ければ、小さくこの身、揺れている。……どうしたらよいのか、わからぬのだ。    今抱きしめてしまえばきっと、ユンファ様は悲しむ。  …また自分の魔性の“鱗粉”が効いてしまったのかと、好いている俺を誑かしてしまったと、きっと彼は悲しむことだろう。   「…この一夜の夢、僕は決して忘れません……」    ユンファ様はそっとまぶたを閉ざし――そっとほんのり、微笑んだ。   「…明日が来ても…、明日、ジャスル様のものとなろうとも……――僕は今宵の、この幸せな夢を…ソンジュ様の微笑みを、大切な贈り物を…決して忘れません」    そしてユンファ様は、深くうなだれた。  …続くその人の声は柔らかく、それでいてたっぷりと、悲しい――儚い諦観を含ませて。 「しかし…ソンジュ様は本当に、どうぞお忘れくださいませ…――あの接吻も、何もかも、この一夜の夢として…どうぞ、全て無かったことに」   「…………」      無かったことに――。        無かった、ことに。          

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