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29  動く蝶、動けぬ狼

           やっと鎮まり返ったこの部屋は、とたんにしんみり、森閑とした。――ただ、ユンファ殿は相変わらず寝台に腰掛けたまま、じっとして本を読んでいる。     「…………」   「…………」    彼に与えられたもの――この広く豪華な部屋。  洋式の部屋である。…大きな天蓋付きの寝台、その隣の細長い机には、皿に山盛りの果物、水入れと、それを汲んで飲むための器。…それから蝶族のユンファ殿のため、固形物を吐き出すための壺。  ごてごてとした飾りの、大きな太った洋服ダンス――クローゼット、といったか――、簡単な筆記机と椅子が一脚、丸い鏡のついた化粧台と丸椅子、壁際に長椅子――ソファ、という――、その隣には浴室への扉、洋式の(かわや)への扉が並び。…俺がいるこの部屋の出入り口、その扉からでも開けて見える、寝台向こうの…両開きの扉のような、大きな窓。    ――月がよく見える、広い窓。  その窓の外に出れば、屋根のない空間…バルコニーというらしい。――開けたその場所からなら、雲一つない、星々煌めく夜空を見上げることも叶うが、…しかし。   「…………」   「…………」    ユンファ殿は、その窓に背を向けている。  読み終えたか…パタン、といよいよ腿の上にのせている本を閉ざした彼は、出入り口にいる俺のほうへ体を向けて寝台に腰掛け、いままたうっそりと俯き――斜めに揃えた脚の、その腿の上の本、その若草色の表紙の上にそっと置いた白い手の甲を、またぼんやりと眺めはじめた。  これほど広い部屋に、平民ならばおよそ、手放しに羨ましがるような豪華なこの部屋にいようとも――ユンファ殿は、何よりも自由ではない。    よほど彼は、俺よりも自由ではないのだ。  …俺はまだ、この屋敷の中を自由に立ち歩くこともできれば、この王都からさらに下の街にくだることだって許されている。しかし、このユンファ殿はどうだろう。    少なくともユンファ殿は、おそらく――第一子をご懐妊なさり、大々的なお披露目となるまでは、街に行くことさえ許されないはずだ。…つまり少なくとも、それまではこの屋敷にまた、彼は閉じ込められるに違いない。  そして今晩のみの話かもわからないが、誰ぞと会話することさえ許されていない。…それも嫉妬深いジャスル様なら、あるいはいつまで続くことかもわからない話だ。   「…………」   「…………」    お可哀想に――。    せめてもの慰めに、何か召し上がられてはどうだろうか。…食欲もないか。わからぬが、腹が空いていては上手く眠ることさえできぬだろうに。    もし食欲もないのなら、今背を向けている窓へ、ほんの少しだけ目を向けてほしい。…月が、星々が、暗い群青色の空に輝いていて、とても美しい。…美しい夜だ、とはとても思えぬかもしれないが、その輝きを見れば、ちょっとした慰めくらいにはならないものだろうか。    もう騒ぎ立てる声はない。ほんの少しばかりでも、自由な時間だ。月を見上げる自由くらいは、今の貴方にもある。…バルコニーとやらに出て、夜風に当たられるのはどうか。晴れない気分も、少しはスッとするやもしれぬ。   「…………」   「…………」    そう…ユンファ殿に話しかけてやりたい気持ちは俺にもある、むしろ山々だが、――敷かれた緘口令のせいで、そうとも声をかけてやることさえ叶わない。つくづく哀れである。     「…………」 「……、…」    不意に――ユンファ殿は、ふ…とその顔を上げた。  目があった。――その薄紫色の瞳…虚でありながらも潤んだその瞳は、俺をじっと見据えている。  つい体がドキリと揺れた俺は、さっと横へ目を逸らした。――体中がざわざわと落ち着かない。   「…………」 「…………」  どうやらユンファ殿は、そんな俺を見ながらすっと立ち上がって、少し早足に俺の元へと歩み寄ってきている。  ――なんだ、何か用らしい、とは思ったが。  何かご用でしょうか、と声をかけることもできず、また、俺よりも身分の高いお方がわざわざ俺のほうに赴く必要はない、と歩み寄ることさえできない――緘口令に付け加えて俺は、この出入り口の扉の前から動くことを、許されていないのだ。…もちろん、有事の際を除いて、ではあるが。    

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