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31 気遣いの林檎は蜜入り林檎
俺がこの部屋の壁際にある、洋服ダンスの扉を開け、寝間着を一着取り出して渡すと――ユンファ殿はその白い寝間着…浴衣を受け取り、ペコリと俺に頭を下げた。…ありがとう、というんだろう。
「…………」
「…………」
俺もまた軽く頭を下げた。
そしてユンファ殿は、寝台へそっとまた腰を下ろし…手に持った寝間着を膝に置いて、俯く。
「………、…」
あぁ、俺が見ているからだろうか、そりゃあ…まあ一応は同性同士であろうとも、人の目がある中で素肌を晒すのは、さすがにお恥ずかしいのだろう。
と、俺は踵を返そうとした。が…――はたと気が付く。
寝間着を要求した…ということは彼、もう眠ろうというんだろう。…しかし、ユンファ殿は何も口にしてはおらず、果物はおろか、水の一杯も飲んでいない。
それこそ、この寝台の隣に置かれた机の上のものは、全てユンファ殿が好きに口にしてよいものだ。…その証拠に、蝶族が口にしては吐き出すためのものらしい、小壺も置かれている。――ただ、…この部屋に来て、誰にそれを言われたでもない彼は、そのことを知らないのではないか。
もしか、遠慮でもしているのではないか。
本当は腹が空き、喉が乾いていて――しかし、どれにしても飲食してよいものかわからないので、とりあえず今日のところはもう眠ろう、という気になっているのかもしれない。
しかしユンファ殿は、この屋敷に来てから何も口にしていない。…腹が減っていちゃあ、不安だって増すばかりだ。それに、空腹じゃ眠るにも眠れないものだろう。
楕円形の金の皿の上には、さまざまな果物が山盛りとなってあるが――ひと際甘そうな、真っ赤に色付いた林檎が俺の目につく。
この甘い林檎でも口にすれば、あるいは、ユンファ殿のご不安も多少紛れるかもしれぬ。――本来は移動を許されてはいなかった俺だが――ここまで来てしまったならいっそのことだ。…それに、話さずとも工夫さえすれば、林檎一つをその人に差し示すことくらいは訳ないか。
俺は寝台に座るユンファ殿に、改めて向かいあう。
そして机の上、金の皿から真っ赤に色付いた林檎を一つ取り、ぽんっと悪戯に上へ投げてはまた掴み。
それから俺は跪き、片膝を立て――俺はその林檎を、寝台に腰掛けたままのユンファ殿へ、差し出した。
「………、…」
え…? と少し驚いたように、切れ長の目を開き、俺を見下ろしているユンファ殿。――俺は何とか身振り手振りで伝えようとさらに、その林檎の近くでカチリと歯を鳴らす。…そう林檎に齧り付く真似をして、それから。
す、とその林檎を宙で控え目に押し、“どうぞ、寝る前にこれでもお食べください”と彼に示した。――ただ、堅物の真顔でそれを差し出したって余計に厳しく思えるかと、俺は。
「……ふ…」
下手くそなりに笑顔を浮かべ、あくまでも友好的に、ユンファ殿の緊張を解くように――この林檎だけが俺にできる、俺と境遇のよく似たユンファ殿へのせめてもの励まし、せめてもの、慰めであった。
「……、…、…」
ユンファ殿は、しばらく俺の笑顔を見ていた。
くらくらと壊れそうなほど、その透き通った薄紫色の瞳を小さく揺らし――じわりと、その薄紫を潤ませた。
潤むとつやつやとした美しい光沢が見えて、およそまるで、貴石のような美しさを放つ瞳だ。
そして、ユンファ殿はじんわりとゆっくり、その白い頬を紅潮させ、嬉しそうにその美しい顔をほころばせる。
「…、ふふ…、…」
それからユンファ殿は、林檎、俺の顔と視線をチラチラ動かし、見比べながら――小刻みに震えているその白く大きな両手で、その林檎を包み込むよう、ふんわりと受け取った。
そして、白い寝間着が掛かった膝の上――手の中の林檎を下ろして見下ろし、どこかそれを大事そうに、その林檎の赤い表皮を撫でさすっているユンファ殿は。
「……ぁ、ありがとう、ございます……」
静かに、そうほんの小さな声で俺に礼を言った。
彼は――その薄紫色の透けた口布の下で、ほんの少しの微笑みを浮かべているままだ。
頬の白い皮膚、その内側の血をじんわりと滲ませて、少し安堵したような微笑を浮かべているユンファ殿は――やっと少し、人の顔をしてくださった。
「…ふっ…、……」
よかった――。
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