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真里也という名前
──女の子が欲しいので、別の人から精子をもらいます。
亡き父が教えてくれた両親の離婚の理由は、母が書き置きしたこの一文だった。
何年も前に聞いた奇怪なことを思い出してしまったのは、昨日が父の命日で墓参りをしたからだろう。
当時、まだ中学一年生だった射邊真里也 は、父と二人で居間にいたとき、この話を聞かされた。
真面目な顔をして何を言い出すんだ、と講義をしようと思ったけれど、母が自分に向けていた視線を思い出し、子どもながらに納得してしまった。
両親が離婚したのは、真里也が小学校へ上がる前だった。
小さい頃のことはあまり覚えてないけれど、母が真里也に接する態度が冷たかったことだけはなんとなく覚えている。
だったらこんな名前つけるなよ、と高二になった今なら母を罵倒することができる……いや、潜在意識が邪魔をするから、やっぱり無理かもしれない。
真里也という名前……。
やむを得ない事情、正当な理由。これらがない限り、一生この名前と付き合っていかなければならない。
生まれたときに与えられる、初めての贈り物だけれど、真里也は自分の名前が嫌いだった。
母がどんな理由でこんな名前を付けたのか、想像がつくから尚のこと好きになれない。小さい頃から友達に名前で揶揄われることは日常的だったし、冷やかされる原因に加味されている、この女顔も嫌いだった。
スケッチブックにため息を吐きかけると、かぶりを振って鉛筆を走らせた。
もう目の下からしか覚えていない母と過ごした陰翳な日々を記憶から末梢したいのに、ふとした瞬間に現れていまだに憂鬱な気分にさせてくる。
本来は明るくて人懐っこい性格だった真里也は、他人を受け入れることに抵抗を持つようになってしまった。そうなった原因は、他の男と関係を持つと、堂々と宣言して家を出て行った母にあると思う。
グラウンドのそばにある校舎の裏庭で、欠けたレンガを椅子代わりに、赤くて小さな鞠のような花に目を向けては鉛筆を走らせ、そんなことを考えていた。
シロツメクサに似ていている、まん丸い形が可愛くて、足を止めたのは今から三十分ほど前。
夏の試合に向けて精を出す野球部の掛け声が、浮上してくる不快さを払拭してくれるのが有り難い。
気を取り直してスケッチブックに向かっていると、紙の上に頭の形をした影が差し、見上げると、見慣れた男前が見下ろしていた。
「真里也、またこんなところで絵を描いてんのか」
茶色に染めた長めの髪を耳にかけながら、秀麗な相好を笑顔で更にパワーアップさせる玉垣羽琉 が、真里也の顔と絵を交互に見てくる。
凛とした奥二重は男らしく、うなじが隠れる長さの髪は、いい感じに毛先だけが天パで半円を描いている。耳にかけると湾曲部分が頬にかかり、くるんとなった毛先が風で小さく揺れていた。
凛々しい目元とキュートな髪の跳ねが、世間で言う、ギャップ萌えというのだろうか。『萌え』は置いといて、普通に真里也は羽琉の髪を気に入っている。
天使のような毛先の巻き髪を、小さい頃は指に絡ませてよく遊んだ。さすがに高校生ともなれば悪戯はしないし、何より羽琉も嫌がるだろう。
とにかくこのイケメンはモテる。
真里也にとっては普通の幼馴染だけれど、他の生徒は特別な存在で羽琉を見ている。いや、崇めていると言っても過言ではない。
確かに顔は美しい。
真っ白な服を着せて背中に羽でも付ければ、現代に舞い降りた大天使ミカエルの出来上がりだ。
人を魅了する容姿を持っている羽琉だけれど、真里也は彼の性格の方が好きだった。
見た目の派手さと違って真面目だし、何より優しい。それによく真里也のことを見てくれている。あと、ちょっと怖がりだ。でも、それを可愛いと思ってしまうのは幼馴染の贔屓目もある。
怖がりの理由の原因をはっきり言うとすれば、羽琉の家庭環境から生まれたものかもしれない。
それでも彼の性格には、小さいころから真里也は救われてきた。
感謝しても仕切れないほどに。
「絵じゃないよ、デッサンだから」
羽琉の顔を一瞥したあと、スケッチブックに目を向けながらため息混じりに言った。
「どう違うんだよ。絵は絵だろ?」
全く……。この説明はもう三回はしているはずだ。小学校、中学校、そして、高二になった今が、三回目だと思う。
「怒んなよ。ほっぺた膨らましてると、可愛い顔が台なし──っと、と。ごめん」
しまったって顔をしても、一度吐き出した言葉は元に戻せないんだからな、と羽琉を睨んでやった。
禁句を言ったんだ、睨まれるくらいで済んでマシだ。もし、最後まで言っていたら、足の脛 を蹴っていたところだった。
名前が嫌いなのもあるが、可愛いと言われるのはもっと嫌いだった。
背も低いし、女の子と間違えられるこの顔は、忘れたくても忘れられない出来事を簡単に連れてくる。
誰かが褒め言葉として言ってくれたとしても、真里也にとっては最悪の形容詞だった。
鉛筆を握り締めたまま、記憶に飲み込まれていると、長い指が頬に触れてきた。
羽琉がごめん、と言いながら真里也の頬を何度も撫でている。
想像以上に落ち込む顔をするから、キツく睨み過ぎたのかな、と反省した。
「怒ってないから」と言って、頬に置かれたままの手をポンポンと上から叩いてやる。
小学生のころからの幼馴染ともなれば、言葉数が少なくても言いたいことはお互いにわかる。
それに、あのことを知っている羽琉は、真里也の態度に敏感だ。ちょっとでも悲しんだり落ち込んだりすると、もの凄く心配してくる。だから、つい出てしまった禁句を慌てて誤魔化そうとしてくるのだ。
本当は羽琉に名前を呼ばれることも、可愛いと言われることも、ちっとも嫌じゃないのに、いじめ過ぎたかなと反省した。
家族以外から『真里也』と呼ばれて嫌な気がしないのは、羽琉だけだ。
羽琉は真里也の自慢だったから。
他人との壁を作ってしまう真里也は羽琉以外の友達はいないし、欲しいとも思っていない。祖父と羽琉、二人がいる世界で充分だった。
それでも他人を避けられないことは多々起きる。
羽琉の幼馴染だからと言って、ハートマークを飛ばす女子から質問攻めに会うことだ。彼女はいるのか、好きな食べ物は、趣味はなどなど。
羽琉と一緒にいると、女子からは羨望の眼差しを向けられるのも日常だ。
ダサいジャージすらモデルのように着こなすのだから、幼馴染のポジションを羨ましがられるのは仕方ない。
国宝級、とまでは行かないけれど、長身にスラリと伸びた手足。横顔を最大限に活かす筋の通った鼻梁。
芸能界やモデルにならないかと、中学生の頃からスカウトされるのはよく耳にした。それ故に、自分たちが暮らす昔ながらの下町で、羽琉の秀逸した美貌は有名だった。
有名な理由は見た目だけでじゃないけどさ……。
羽琉の抱える問題をよぎらせていると、「あ、真里也。睫毛付いてる、取ってやるよ」と気が利く幼馴染が顔を覗き込んでくる。
「え、どこ、どこ。取って」
自然と瞳を閉じて、羽琉に顔を向けた。
真里也は羽琉にこうやって世話を焼かれるのが好きだ。
小さいころから保育所で過ごすことがほとんどで、雑多に扱われることが多かった。その他大勢として一纏めされていたから、細かいところまで見ていてくれる羽琉の気遣いが特別扱いされているようで嬉しい。
気配で羽琉の手が差し出されるのに気付くと、上向いてと、顎を掴まれて顔の角度を変えられた。
頬に触れる羽琉の指先は少し冷たくて気持ちいい。
ささやかな触れ合いが気にならないのは、羽琉だけだ。
無防備に目を閉じて身を任せられるのも、羽琉だけだった。
「相変わらず、少女漫画に出てきそうなデッカい目だな。真里也の扇子みたいな長いふさふさ睫毛は、女子たちが喉から手が出るくらい欲しいんだろうな。あいつら金かけてそれを作ってんだもん。真里也の天然素材には逆立ちしても敵わないって嘆いてたぞ」
ほら、もう付いてない、と小さな鏡を差し出してくれた。
ジッと見ていると羽琉が背中に回って、同じように鏡を覗き込んでくる。
肩に顔を置かれ、頬と頬がくっつきそうな微妙な距離感は、幼馴染で親友だから何とも思わないけれど、羽琉の親衛隊に目撃されると厄介だからやめて欲しい。
そうでなくても、なるべくひっそりと生きていきたいのに。じゃないと、自分でも嫌気がさす癖の理由をその都度聞かれるのは非常に面倒だ。
「もう、離れろ。女子に恨まれるから。ってか、相変わらず鏡を持参してるんだな」
肩に置かれた顔を追い払うと、真里也は立ち上がって尻のホコリを払った。
「これは身だしなみだ。それよか恨まれるって何だよ。あ、真里也、帰るのか? じゃ、俺も一緒に──」
「まだ帰らないよ。行く所があるから」
言下に言い放つと、羽琉が眉を八の字にして苦虫を噛み潰したような顔を向けてくる。
「……また、實川 のとこだろ」
真里也が實川の所へ行くと言えば、必ずと言っていいほど羽琉は不機嫌になる。
「そうだけど……。あのさ、前々から気になってたんだけど、俺が先生のとこに行くと羽琉は困るのか? あ、だったら羽琉も一緒に行かないか。先生の絵を描くところは見てても飽きないし」
あからさまに不機嫌な顔をするから誘ったのに、「バイトがある」と、素っ気なく断られてしまった。
「そっか。バイトなら仕方ないな。でも羽琉は凄いよ。高一の時からずっと続いてるんだもん。商店街の会長さんも無遅刻で偉いって言ってたって、爺ちゃんから聞いたよ」
地面に投げ捨ててあった鞄を肩にかけ、真里也に背中を向ける後ろ姿に伝えたけれど、一度も振り向かず、片手をヒラヒラさせて駐輪場へ向かっている。
こんなタイミングで背中を向けられると何だか寂しい。だからって訳じゃないけれど、羽琉の気を引くようなことをつい、言いたくなった。
「はるー、今日も晩飯食いに来いよー。遅くなってもいいからさっ」
投げかけた言葉に一瞬、足を止めてくれたけれど、振り返ることもなく、羽琉の姿は校舎の角を曲がって見えなくなってしまった。
「ったく。何を怒ってるんだよ。けど、ちゃんと応援はしないとな。毎日、毎日、夢のために頑張ってるんだから」
残像に向かって激励を送っていると、後ろに人の気配を感じ、勢いよく振り返った。
真里也の目の前には、クラスの中でも、どちらかというと物静かなグループに所属している男子がいた。
えっと、確か変わった名前だったような──
「あ、あの射邊君。僕、君に話が──」
名前を思い出そうとしていると、声をかけられた。
これまで話したこともない相手に対して、体が反射的に身構えている。
返事に困ってると、彼がジリジリと近付いて来た。
思わず羽琉を探したけれど、さっき見送ったばかりだし、きっともう学校の外だ。
どうしよう、何て話せばいい? いや、それより名前はなんて言ったっけ……。
名前も思い出せない、返事もできない。おまけに向こうがどんどん近付いてくる。
軽いパニック状態になってしまい、真里也は頭を下げると、
「ご、ごめんっ! お、俺急いでるからっ」と言って、鞄とスケッチブックを掴むと踵を返して彼とは反対の校舎へと猛ダッシュで逃げた。
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