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癒しの場所

 校舎を一気に三階まで駆け上ったせいで、心臓がバクバクしている。  なにも、名前を呼ばれただけで逃げることはないのに、彼に悪いことをしてしまった。  でも、羽琉以外の生徒と話すのは今だに緊張して、うまく話せない。  また揶揄われたらどうしようかと考えると、過去に受けた傷がフラッシュバックして、頭の隅っこに追いやった出来事まで引っ張り出してくる。  一年の時はまだよかった。なぜなら、羽琉が同じクラスだったからだ。  羽琉を介してだと、途切れ途切れでも会話は出来た。けれど、二年生になって別々のクラスになると、少しは慣れていたことがリセットされてしまった。そして今みたいに、逃げてしまう。   「いい加減、慣れないと……」  美術室に着いて扉に手をかけたと同時に、フッと、さっき声をかけてきたクラスメイトの名前が降りてきた。  そうだ、彼は確か、『土師(はじ)』という名前で、美術部員だ。  真っ直ぐ切り揃えられたサラサラの黒髪に、三白眼が印象的だった、斜め後ろの席に座るクラスメイトだ。  滅多に自分から同級生に話しかけることのない真里也は、クラスメイトの名前を殆ど覚えていない。でも、彼の名前と顔は頭の片隅に残っていた。  二年生の初日、恒例の自己紹介で彼が名乗った時、周りからくすくすと笑い声が聞こえていたからだ。  彼より先に自己紹介を済ませていた自分も、土師と同じように周りから変な反応されたからひっくるめて記憶していた。  思い出したことに反省しながら美術室の扉を開けると、生徒が誰もいない。部活があれば、土師も来るだろうと思っていた。そのときに謝ればいいと思っていたのに、人っこ一人いない。  テスト期間前でもないのに、部活は休み? 部員がいないということは、先生も留守だろうか。  慌てて教室を突っ切って、奥にある美術準備室の扉を開けた。 「あ、よかった、先生いたっ」  ドアを勢いよく開けた真里也は、キャンバスに向かって筆を走らせている實川(じつかわ)を見てホッとした。 「よお、射邊。今日、ここへ来れたってことは、おじいさんの具合は良くなったのか」  土師に謝ることができず気が引けていたけれど、油絵の具の匂いが充満するここへ入ると気持ちは不思議と落ち着く。加えて、實川の穏やかな微笑みは、一週間空けただけなのに、もう懐かしかった。  真里也は一年生の時から、放課後になると實川が顧問をする、美術部の準備室で過ごすことが習慣になっていた。けれど先週、植木の剪定をしていた祖父、(ひろし)が脚立から足を滑らせて腰を痛めてしまった。  しばらく通院を余儀なくされたため、学校が終わると整形外科へ受診する博に付き添っていたから、ここへ来ることができなくて、ずっと、うずうずしていたのだ。 「はい。もう、通院はしなくてよくなったし、今は湿布だけ貼って、注文の仏像を彫ってますよ。腰が痛くて休んでた分、根を詰めてるから、今度はそっちの方が心配ですけど」  鞄から彫刻刀の入ったケースを出しながら、軽症ですんでよかったですよ、とホッとした気持ちを實川に報告した。 「そりゃ射邊も心配だな。けど、おじいさんの彫る仏像は素晴らしいからな。俺も一体欲しいけど、しがない公務員の給料じゃおじいさんの作品は手が出ないよ」  ちょっと休憩するか、と實川が筆を置いてペットボトルのお茶を口にした。 「先生、今日って美術部は休み? 隣の教室には誰もいませんでしたけど」  いいや、と言うと、實川がちょっと申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「——俺の親友で、工芸大学で准教授してるやつがいるんだけど、今日はそいつの招待で大学へ見学に行ってるんだ。引率しようと思ったけど、お前は作品描いとけって言われてね。申し訳ないなって思いながらも、お言葉に甘えてのんびり絵を描かせてもらえてるってわけ」  と言うことは、土師もきっと大学へと向かったのだろう。謝るのは明日にしようと、声をかけることに今からちょっと緊張してしてきた。 「そうだったんですか。じゃ、俺、お邪魔で──」 「いーや。射邊は、居てもらわないと困るな」  實川に遮られた言葉の意味がわからず、首を傾げていると、 「射邊の木を削る音で癒されるからさ、頼むよ」と、柔和な微笑みを向けられた。  はっきりとした年齢は知らないが、これまでに交わした会話から察すると、實川の年齢は三十路だと言うことはわかっている。  生徒——主に、女子の間で行われている『好きな先生ランキング』では常に上位だということも。それと、教師を続けながら、画家になる夢を諦めてないということもだ。 「何ですか、それ。それなら、じいちゃんのを聞かせたいですよ。小さいときに眠れなくても、じいちゃんの彫刻刀の音を聴くと、速攻で俺は寝てたらしいですから」 「へー。それは羨ましいな。それってアレだろ? えーっと、ほら、何て言ったっけ。エーエス? エム? あー思い出せないな」 「ASMRでしょ? 自律感覚絶頂反応って単語の略なんですって」 「あーそうそう。それだ。高校生の間で流行ってるんだろ? 聴覚や視覚への刺激によって得られる、超、心地いい感覚」 「超って──。それは知ってるんですね」 「そりゃ、高校教師だし。若者の関心を知るためには一応な」  片目を瞬かせながら、實川が再び筆を手にしたから、真里也は彼の背中側に回って絵を覗き込んだ。  キャンバスいっぱいに描かれていたのは、裸体の男性に、植物の蔓らしき紐状のものが巻き付いている絵だった。  描かれている男性の表情は、苦悶のように歪んで見えるのに、口元だけが微笑んで見えた。抽象的な絵の意味は、彫刻ひと筋の真里也には不明だった。けれど、惹きつけられる絵だなとは思う。 「ねえ先生。今描いてるこれって、音の瀬美術館大賞展の公募に出す作品ですよね。俺、完成するの、めちゃくちゃ楽しみにしてるんですよ」  机の上に道具を広げながら、真里也は弾んだ声で言った。 「あまり期待されても困るな。なんたって、連敗更新中だからさ。箸にも棒にもかからないよ。でも、射邊や、美術部員のみんなを見ていると、やってやるって気になるんだよ」 「俺も、俺も。爺ちゃんみたいに凄いもんは彫れないけど、もっと上手くなりたいし、先生みたいに何かの賞にチャレンジはしてみたいんだ」  手のひらより少し大きな面積の檜の板を机に置くと、真里也は横にスケッチブックを並べた。  グラウンドの隅でデッサンしていた花のページをめくると、板の上に鉛筆で同じ花の絵を描いていく。 「そうか。じゃ、二人で頑張るか。お前は彫刻、俺は油絵。種類は違うけど、同じ芸術作品だ。もし今年が駄目でも、次がある。やれるだけやろうな」 「はいっ」  いい返事だな、と満足げな笑みをくれて、實川は再び絵を描き始めた。  高校一年の時、真里也の担任だった實川は、クラスのみんなと馴染まない真里也を心配してよく声をかけてくれた。  背がスラっと高く、細身で繊細そうな指先の持ち主は、筋肉質のタイプとはほど遠い、いかにも芸術家ですといった、独身男性教諭だ。  中性的な印象が女生徒だけではなく、男子生徒からも密かに人気を募っている。  羽琉とはまた違う秀麗さは、老若男女を惑わすかっこいい相好だ。  春風に熱をひと雫、加えたような風が舞い込み、教室のカーテンを巻き上げる。  外からは勇ましい掛け声が聞こえて、それがちっとも邪魔じゃなく、寧ろ心地いい。  静かな教室に聞こえるのは、筆が走る音と、木を削る音だけ。  放課後の、このひと時が一日のうちで一番好きかもと、真里也は思った。  鉛筆で下書きした上を、彫刻刀でなぞる。丁寧に、慎重に。  少しずつ、木の中に眠る姿を彫り起こしていく過程が好きだ。  平坦な表面を彫刻刀で削っていくと、頭の中で描いていたものが立体感を持つ。  下書きをしている時はワクワクするし、もう、ここを削ると最後だなと、終わりを迎える時は寂しくなる。それほど真里也は彫刻の世界にハマっていた。  真里也が彫刻に興味を持ったのは、一緒に暮らす祖父、博の影響だった。  八十歳を前に、今も博は仏像を彫っている。けれど、本職が仏師だったわけではない。  博の仕事は、火葬場の職員で、火夫(かふ)を担っていた。  火夫とは、火葬を行う際に炉内の可燃物を観察し、ご遺体が完全に焼けるように火力や風力を適宜調整する仕事だ。  ご遺体に火を()べ、見送るご家族に骨壺に納める骨の説明をする。そうやって日々、旅立つ仏様と向き合っていた博は、ふと、仏像を彫ってみようと思ったらしい。  素人が仏像を彫ったからと言って、極楽浄土へ行けるもんでもないけどな、と博は笑って真里也に話してくれた。  元々器用な手の持ち主だったのか、仏像の腕前はぐんぐん上がり、家の近所の寺の住職に一体譲って欲しいと言われたほどだった。このことがきっかけで、博の仏像は口コミで広がり、今では年に二、三体は製作して寺や誰かの自宅に迎え入れられている。  ある日、小学校の授業で彫刻刀を使う時間があった。この時、真里也が作った作品を担任が大袈裟なくらいに誉めてくれた。  当時の真里也は、あることがきっかけで言葉数が少なく、内に秘める性格になってしまった。そのことがあったからか、本当に才能を見出してくれたのか。とにかく過剰に誉めてもらったことで、真里也は彫刻に興味を持っていったのだ。 「そう言えば、射邊は進路のことを考えてるのか」  唐突な質問に即答できず、うーん、と唸っただけの返事をした。 「まだ二年の一学期だけど、もう直ぐ夏休みで、それが終わったらすぐ冬になる。そうしたらすぐ三年生だ。もし、やりたいことがあるなら早くに動いた方が対策を練れる。俺は担任じゃないけど、いつでも相談に乗るからな」  キャンバスに視線を置きながら、實川が言ってくれる。ありがたいなと思った。  まだまだ先の話だと思っていたけれど、教師からすればすぐそこまで迫っている感覚なのだろう。  やりたいこと——か。  不意に、羽琉のことを思い出した。  高校に入学した途端、待ってましたと言わんばかりに、バイト三昧の日々になった羽琉。  お互いの家は近所で、小学校も中学校も毎日一緒に登下校していたから、さっさとバイトへ行ってしまうようになってから、真里也はひとりで帰る寂しさを味わっていた。  バイトをする理由を聞いたら、夢のためだと羽琉が言った。その時の顔は、自信に満ち溢れ、眩しいほど輝いて見えたのを今でも覚えている。  自分の店を持ちたいなんて、羽琉はやっぱ、凄いや……。  家の近くにある商店街の先頭を飾る、老舗の喫茶店でのバイトが採用になった時、真っ先に真里也へ報告に来てくれた。その時の、羽琉の顔は本当に嬉しそうだった。  高校受験に合格した時より、嬉しいって言うから、どんだけカフェの仕事がしたかったんだよと、一緒になって喜んだ。 「先生、自分でカフェを経営しようと思ったら、何が必要なんですか」 「何だ、いきなり。自分の店を持ちたいのか」 「あ、いえ、違います。俺じゃなくて——」  いくら親友だからと言って、勝手に人の夢を語るなんてダメだ。つい、気になって人生の先輩に聞いてみたけれど、やっぱ、いいですと、真里也は吐き出した質問を取り下げた。 「……まあ、だいたい誰のことかわかるけど。そうだな、自分で店を開くのはまず資金を貯めなくっちゃな。あと、食品衛生責任者や、飲食店営業許可証の取得。あと、開業するって届け出が必要だろうな」  言葉を濁して誰のことかわからない風を装ったけれど、いつも一緒にいる羽琉のことだと簡単にバレてしまっている。  咄嗟に「調理師免許っていらないの」と、質問で誤魔化そうとした。 「いらないよ。あればプラスに働くもので、持っていなくてもカフェは開業できるから」  筆を持つ手を止めて、實川が優しげな眼差しで答えてくれた。  そっかと呟き、真里也は彫刻刀を握りしめた。  先生もちゃんと『先生』をしながら、コンクールに向かって作品に取り組んでいる。  羽琉もいつか自分の店を持つために、資金を貯めながら実践で経営や珈琲作りを学んでいる。  俺は……何がしたい。何ができるのだろうか。  クラスで進学や就職だのと、話題が出ても真里也は彼らの会話をラジオでも聴くみたいに聞いているだけで、将来はどうする? 何て、気軽に話しかけられない。  かと言って、隣の教室にいる羽琉を頼って教室を飛び出しても、自分のためにはならない。過去のトラウマが真里也を殻に閉じ込めてしまう。  羽琉や實川と話すのは平気だった。けれど、教室で同級生たちの中に埋もれると、どうしてもビクビクしてしまう。  特に、目の前で腕を振り上げられる動作が苦手だった。相手からすれば何でもない仕草でも、真里也はそれに恐怖を感じてしまう。  羽琉だけはそれを知っていて、真里也の前で絶対に腕を振り上げない。それが羽琉の気遣いだと知ったときにはこっそり喜んでしまった。  羽琉は子どもの時から何かにつけて真里也を守ってくれた。自分が弱いせいで、幼い時から羽琉は必然的に真里也を庇ってくれた。 なんだか面倒を押し付けてしまったように思えて、それがずっと心苦しい。  治したいって思っているけれど、高二になった今でもままならない。  風で巻き上がったカーテンが頬に触れると、誘われるように窓の外へと視線を移した。  もうすぐ三年生。  進路はどうするのか。  羽琉のいない世界で、自分は生きていけるのだろうか。  花の形に削った線を指でなぞりながら、真里也は實川に言われた言葉を頭の中で反芻していた。
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