16 / 38
無知
二人組の男が来た日以来、羽琉は家に来なくなった。
それでも疲れた羽琉がいつ帰って来てもいいように、真里也は毎日二人分の食事を用意していた。
連絡しても既読すらつかない。それだけでも親友を心配する理由になるだろうと、毎日気が気じゃなかった。
学校の帰り、商店街を歩いていると、ふかまち珈琲からいい匂いが漂っていた。
今日もバイトかな……。
ドア一枚隔てた向こう側に羽琉がいる。でも、ドアを開けて中へ入る勇気がない。
早く気まずさを払拭して、前みたいに博の家で一緒に過ごしたいのに、自分から歩み寄る根性はなかった。
また、拒絶されたらと思うと、幼馴染のポジションさえも危うくなるかもしれない。
重い足取りで店の前を通り過ぎ、家路へ向かっていると、一台の車が横を通り過ぎた。
気にも留めず先を歩くと、ブレーキの音が聞こえ、振り返ってみると車の中からスーツにサングラス姿の見覚えのある男が降りてきた。
頭の中で、ヤバいヤバいと叫んでみても、商店街を離れたら点在する民家しかない。
人通りの少ない道で、真里也は近付いて来る、サングラスの男から目が離せなかった。
本当はすぐにでも踵を返して、走り去りたかったけれど、その選択肢は坊主頭の男に腕を掴まれている玉垣が目に入ってできなかった。
「……おじさん」
「よお、真里也」
呼ばれたくない名前を、絶対に口にして欲しくない相手に言われたものだから、真里也の眉間が勝手にシワを刻んだ。
黙ったまま三人の男達を見ていると、いつになく真剣な顔をする玉垣が目の前まで来て、真里也に深々と頭を下げてきた。
「な、何のつもりですか」
意表をつかれた行動に思わず後退りしたけれど、頭を下げる意味は知りたい。
「この間は悪かったな、この人達がお前の家に行ったんだろ。ビビっただろうと思ってな、ひと言詫びたかったんだ」
詫び? 玉垣の口からそんな言葉を聞くなんてと、自分でも怪訝な顔になったのがわかる。
家のすぐ側で、厳つい男二人と、玉垣に囲まれること数分。ずっと、玉垣は悪かっただの、怖かっただろうと気持ち悪いくらい謝ってきた。
「おい、もういいだろ。車に戻るぞ」
サングラスの男が玉垣の腕を掴むと、真里也には何の言葉も言わず、玉垣を引きずるように車へと戻って行った。
「……何だったんだ。おじさんは、借金を返せたってことなのか?」
取り残された真里也は、呆然としながら坊主頭が運転席へ乗り込むのを見ていた。
サングラスの男が後部座席のドアを開け、玉垣を押し込むように乗せている。すると、もうひとり誰かが後部座席に座っている姿が見えた。
今日は二人じゃないのか……。
怖そうな男がまだもうひとりいたのかと、真里也が恐怖を感じていると、玉垣の髪の毛を掴んでその体を揺さぶっているのが見えた。
やはり彼らは暴力団とか、そう言う類のものなのだ。真里也は慌てて家に入ろうとした時、三人目の男が真里也の視線に気付いたのか、リアウインドウ越しに凝視してきた。
オールバックっぽく前髪を後ろに撫で付けたスタイルに、狐のように吊り上がった目の男は、玉垣や男達よりも少し年上に見えた。
射抜くように見つめられていると背筋が粟立ち、急いで家に入って鍵をかけた。
靴を蹴るように脱ぎ捨てると、居間に飛び込んで雨戸もすべて閉めた。
夕方前でも季節は初夏だとまだ陽射しは色濃く照らしてきたけれど、頑丈な雨戸はそんな光を遮り、真っ暗になった部屋の隅で、真里也は膝を抱えて丸くなっていた。
小さなこどもがかくれんぼでもするように、居間の隅っこで蹲り、後部座席にいた男の顔を、古い記憶と照らし合わせていた。
前髪を上げた吊り目の男を遠い昔、どこかで見たことがある気がしたからだ。
玉垣に頭を下げられた日から十日ほど経っても、あれ以来、如何わしい男達も玉垣も姿を表さない。結局、三人目の男の正体もわからず終いで、今では自分の思い違いだったのかなと思っている。
おじさんは、何とかお金を工面できたから、俺に謝りに来たのかな。
良いように考えてしまうのは、サングラスの男達が羽琉を見つけて、脅したりしないと思いたかったからだ。
以前と同じ安心を感じていると言えないのは、羽琉が射邊家に来ることがなくなったからだ。学校でもクラスが違うせいか、滅多に顔を合わせることもない。
自分から会いに行けば済む話だけれど、最後に交わした言葉が真里也にブレーキをかけている。
一学期も終盤にさしかかり、夏休みを目の前に、進路も本腰で決めなければならない。
真里也は實川の勧めもあって、桐生が務める大学へと受験を決めた。
天涯孤独になったからか、見知った大人が近くにいてくれることはホッとできる。それに家からも通える場所にあること、何より工芸大学なのが一番の理由だった。
羽琉は進路、どうするんだろう……。
今日も二人分の夕食を作っていると、インターホンが鳴った。
人相の悪い男達の訪問以降、真里也は鍵をかけるようになった。
昔の家だし何も取るんもんなんてねーよと、博は眠る前にしか施錠はしなかった。
真里也もそのまま開けっぱなしにしていたけれど、今の世の中、それはとても危険なことだとひとり暮らしになって改めて実感したのだ。
もしかして、羽琉が帰ってきた?
嬉しさと緊張がない混ぜになった心で、廊下をダッシュしたけれど、すりガラスの向こうのシルエットは見慣れない輪郭だった。
「どちら様ですか」
尋ねると、「俺だ、羽琉の親父だ」と、返ってきた。
一瞬、扉を開けることに躊躇したけれど、頭を下げてくれた姿を思い出し、真里也は引き戸をそっと開けた。
「よお、ちょっといいか」
羽琉ではなかった落胆が大きかったせいか、あまり深く考えず、どうぞと三和土に招き入れていた。
上がってもいいかと聞かれ、ダメとも言えず、玉垣を居間に通してお茶を入れた。
「おじさん。あの、羽琉は元気……ですか」
出したお茶をズズっと啜りながら、玉垣が驚いたように双眸を瞠目させている。
「ふーん。あいつ、こっちに来てねーんだ。どうりで最近、ずっと家にいると思ってたんだ。ああ、あれか。俺を見張ってるんだな、きっと」
「見張る? 羽琉がおじさんを?」
何でと理由を聞こうとしたら、玉垣がまた頭を下げてきた。
「お、おじさん。どうしたんですか、頭なんて下げられる理由はもうないはずじゃ──」
「頼むっ! 金を貸してくれっ」
突然の申し出に、真里也は一驚した。
金を貸してくれ? じゃあ、まだ借金の件は片付いてないのか。
「で、でもおじさん、前に俺に謝ってくれたし。あの時にもう、返済とかしたんじゃっ」
「っんな簡単に返済なんてできるかっ、って悪い。つい怒鳴っちまった」
大声に驚きつつ、いえ、とだけ答えると、震えそうな手をそっとこぶしに変えて気を引き締めた。
「実はよ、あの時は期限を伸ばしてもらっただけなんだ。今日まで必死で金の工面をしてたけど、俺には金を貸してくれる親も親戚もいないし、真っ当な仕事もしてこなかったから、金なんて貯まるわけもないしな」
仕事はやはりしてなかったんだ。だったら、どうやって生計を立ててたんだろう。
真里也の顔から察したのか、「羽琉だよ」と、ボソッと玉垣が呟いた。
「羽琉? え、じゃあ羽琉のバイト代で暮らしてたってことですかっ」
まさかここまで玉垣が情けない親だったとは思いもよらなかった。
まあな、と悪びれる様子もなく、さも当たり前のように言ってのける姿に呆れていると、
「いや、俺だって日雇いの仕事とかして、あいつには金を渡してたぞ」と、当たり前のことを胸を張って言われた。
「だからよお、羽琉にしんどい思いをもうさせたくねーから、借金を早くチャラにして働こうって思ってんだ」
これまでの愚行を思えば殊勝な考えかもしれないが、一般的な家庭の親からは、自分がかなりかけ離れているのだと自覚はあるのだろうか。
「でも、何で俺なんかに。俺、まだ高校生ですよ」
真里也の言葉で一瞬、玉垣の瞳孔が開いたように見えた。
表情を汲み取ろうと注視していたら、スッと視線を逸らされてしまった。
「……お前もじいさんが死んで大変なのはわかるけど、ちゃんと貰うもんは手に入ってんだろ。この家だって、もうお前の名義になってるはずだ」
玉垣の言っている意味がわからず、首を傾げていると、
「保険金が手に入ってるだろって話だ。けど、その金を貸してくれなんて、やっぱ俺には言えないな。そこまで非常識じゃねーわ」
保険金を貸して欲しいってことじゃないなら、一体どういうことなのだろう。
玉垣の言葉を待っていると、家の……と、呟いている。
「家の? 家の何ですか」
「……この家の権利書をちょっと貸して欲しい」
「権利書って……」
博からこの家を引き継いだ、つまり名義変更が必要だからと、水鳥と一緒に役所へ行っていろんな書類を用意した。その時に揃えた書類の中に、権利書と言う名前のものはなかった気がする。
「お前、権利書を知らねーのか」
小馬鹿にしたような玉垣の言い方にカチンと来たけれど、知らないのは事実だから仕方ない。不本意だったけれど、真里也は小さく首を縦に振った。
「権利書は家の証明書見てーなもんだ。実はな、俺と羽琉が住んでいる家は借家だ。だから家賃を払わねーと住めない。けど、金を借金に回してっから家賃を滞納して追い出されるんだ」
「追い出される? じゃ、羽琉も──」
「当たり前だろ、親子で一緒に住んでるんだから。でだな、働くにしても住所がねーと雇ってくれねえ。だからお前の家で一緒に住んでるってことにしてーんだ。だから、金は貸さなくていいし、もちろん、羽琉も一緒にだ」
「羽琉と一緒に、ここで……」
羽琉と一緒に暮らせるのは嬉しい。今は気まずくて会えていないから、余計に一緒に住みたい。けれど、玉垣も一緒となると、それはちょっと──。
「心配しなくても俺は住まないぜ。よそで暮らすから、住所だけを貸して欲しいんだ」
なんだ、そう言うことか。
この家に住んでいるって証拠があれば、玉垣は仕事ができる。そう言う意味か。働いて借金を返していくつもりなのだ。そうすれば、羽琉は自分の夢だけを、カフェの店を持つって夢だけを追いかけられる。
こんな自分でも羽琉の力になれるのだ。
「わかりました、そう言うことなら住所を使ってください。あ、でもその権利書、じいちゃんがどこに置いてたか探さないと。少し時間もらえますか」
「ああ。けどなるべく早めに頼む。俺も早く仕事探して、そのうち家も用意して、羽琉を迎えたいからな」
よかった。玉垣は心を入れ替えたのだ。きっと、玉垣も怖かったのだろう、あんな如何わしい男達にしつこくされるのは。
「はい、なるべく早く探します。あの、連絡って──」
言いかけると、玉垣が紙とペンと手を貸せと手を出してきたから、電話の横にあったメモ帳とボールペンを渡した。
殴り書きされた電話番号を差し出されると、じゃ、帰るわと腰を上げた玉垣を玄関まで見送った。
扉を閉め、鍵をかけると、真里也はワクワクしている自分に気付く。
羽琉と一緒に、堂々とこの家で暮らせる。
朝も昼も、夜も。そして次の日もそのまた次の日もずっと一緒だ。
顔を見てご飯を食べれば、気まずさなんてあっという間に消えてくれる。
何より羽琉と一緒だと心強い。
「おじさんも仕事探すって言ってたし。いいこと尽くめだ」
羽琉との暮らしをあれこれ想像しながら、台所へ向かうと、真里也は肉じゃがの鍋に火を付けた。
ロード中
ロード中
ともだちにシェアしよう!