17 / 38
母という女
授業を終えたら、真っ先に廊下へ出てチラッと羽琉の教室を覗く。
ドアの影からクラスメイトと一緒に笑っている羽琉を見ると、相手が自分ではないことに悔しさを味わう。それでも羽琉が笑っているのを見るのは嬉しい。
ずっと見ていたかったけれど、以前、用事か? と見知らぬ生徒から聞かれたから、何でもないです、と慌てて逃げた。
僅かな時間でも見つめ過ぎていると、ストーカー扱いされかねない。だからほんの数秒、羽琉が今日も元気か、また殴られたりしていないかを確認している。ただ、それだけだ。
言い訳がましい自覚はあるけれど、羽琉のことが心配だから続けている。
美術準備室へ行く前のルーティンになっている、羽琉ウオッチングだけれど、今日は人が来るから早く帰らないといけない。
真里也はいつもより短い時間で羽琉の笑顔を確認し、下駄箱へと向かった。
「権利書見つかったから、おじさん喜んでたな」
靴を履き替えながら、ふと、真里也は思った。羽琉は自分の父親が前向きになって、働こうとしていることを聞いているのだろうかと。
羽琉が暴力を振るわれる回数は、高校生になって減ったような気がする。
もしかして、おじさんは驚かそうと内緒にしているのかも……。
心を入れ替え、真面目に働くことを、もし玉垣が話していれば、羽琉は喜んで自分に伝えに来る。それがないことを考えれば、玉垣はサプライズにするのかもしれない。ならば、自分も黙っておくべきだ。
急いで家に帰ると、玄関の前で誰かが立っているのが見えた。
女性だと言うことはわかるけれど、後ろを向けているので顔が見えない。
真里也はゆっくり近付き、「うちに御用でしょうか」と、声をかけた。
声に反応してクルッと振り返った顔を見て、真里也は瞠目した。
「お……母さん」
「まりちゃん、久しぶりね」
まだそんな風に呼ぶのかと、久しぶりでもゾッとした。
自分が息子に何をしたのか、この女は全くわかっていないのだろうか。
母親と言うだけで簡単に尋ねてこられても、幼い頃に植えつけられた心の傷は癒えていない。
「……何しに来たんですか」
彼女と会うのは、小学校の時に誘拐されて以来だった。
もう一生、顔を見ることなどないと思っていたのに、なぜここへ来たのか。
「あなたに会いに来たのよ。それと、おじいちゃんにお線香あげたくて」
母の言葉を聞き、彼女に博の訃報を伝えたのは失敗だったと悔やんだ。まさか、家に来るなんて思いもしなかった。
「……俺は会いたくなかったし、線香もあげなくていい。それだけの用事なら帰ってくれませんか」
門扉の横に立ったままの彼女を追い越し、真里也は玄関の鍵を開けた。
「そんなこと言わないで。あなたに悪いことしたって反省してるの。ね、お願いだから仏壇に手を合わさせて」
扉にかけた腕を掴まれると、一度でいい、もう二度と顔を見せないからと、必死で嘆願された。
人通りは少ないとはいえ、家の前で居座られでもしたら困る。真里也は溜息と共に、少しだけならと言って、彼女を家にあげた。
「まりちゃ──真里也。あなた、随分男の子っぽくなったわね」
彼女を居間に通し、お茶を入れていると、当たり前のことを言われた。けれど、名前を言い直したから、多少でも悪いことをした自覚はあるのか。
女の子のような息子が高校生に成長すればこんなもんだ。現実を思い知ったかと、心の中であっかんべをしてやった。
「俺は、男だからね。生まれた時からずーっと」
嫌味を込めて言ってみたけれど、彼女は視線を家中に張り巡らせ、真里也の話など聞いちゃいない。
お茶を座卓に置き、あからさまな溜息を吐いてみたけれど、仏壇を眺めたり、箪笥の方を見たりと彼女はまだ視線を泳がせている。
相変わらず何を考えているのかわからない人だなと、真里也は思った。
女の赤ちゃんが欲しい。だから他の男の精子をもらいます、なんてふざけた離婚理由を書き置きにするくらいだし。
「お線香あげてそれ飲んだら帰ってください」
仏壇の下から線香とライターを取り出し、彼女に渡すと、着替えるために真里也は居間を出た。
Tシャツとデニムに着替えて戻ってくると、母親は仏壇の前で両手を合わせ、静かに眸を閉じていた。
仏壇には父と博の写真が飾ってある。
彼女は二人の顔を見ながら、一体何を考えているのだろうかと、背中を見つめながら思った。
座卓に頬杖をついて後ろ姿を眺めていると、彼女の躯体が随分と小さくて細く見えた。
小学生の時は言う通りにしないと叩かれ、彼女のことを偉大で脅威に思っていた。
手を振りかぶられると、普段以上に大きく見えた母が恐ろしかった。
なのに、今はそんな恐怖は微塵もなく、逆に自分の方が簡単に彼女を抑え込むことができるんじゃないかと思えた。
ふと、真里也はなぜ、彼女が女の子を欲しがったのか、その理由を知りたくなった。
「あの……聞いてもいいですか」
彼女が振り返ったタイミングで尋ねてみると、瞠目したまま真里也を凝視している。
限界まで見開かれた眸には、長くてフサフサの睫毛が揺れていた。目だけじゃなく、顔の輪郭も小ぶりで丸く、唇もぽってりして化粧をしていない顔だからか、自分に似ているなと思った。
無理やり連れ去られた時は、恐怖でまともに母の顔を見ることなどできなかったからか、今初めてこんな顔をしていたのかと改めて思った。
「なあに、聞きたいことって」
湯呑みを手にし、ひと口お茶を飲んだ彼女は、真里也の顔をジッと見てきた。
「どうして女の子が欲しかったんですか」
真里也から声をかけてくるなど想像していなかったのだろう、一瞬彼女が息を飲んだのがわかった。両手で湯呑みを包むように持ち直すと、大切なものを扱うように、そろりと手を離して正座の膝に両手を乗せた。
「……そっか、そうよね。聞きたいわよね。それに、あなたは聞く権利があるし」
「男の俺が……生まれた時、嫌だった? 産んだことを後悔した?」
イエスと言われたら嫌だなと思う質問を先にしてみた。
「……私の家は男家系でね、母が早くに死んでからは、家に女は私だけだったの。父、祖父、兄に弟。近所に住む従兄弟も男兄弟だった。従兄弟たちは気軽に家に遊びにきていたから、家中男臭かったのよ」
女がひとり……。それはそれで寂しいのかもしれないけれど、たかがそれだけのことで? の言葉が真里也の頭には浮かんでいた。
まだ中学生だった真里也に、父が手紙のことを教えてくれたのは、母が異常だから近付くなという意味があったからだ。
父のことを思い出していたら、彼女は膝に置いていた手を座卓に置き換え、縋るように湯呑みを握り締めていた。
「家の男達は何でも私に言ってきた、メシ、風呂、掃除、洗濯しとけ。コンビニであれ買ってこいだの、メシが不味いだのって、家政婦のように扱われて。私は毎日早起きして、お弁当を人数分作り、学校が終わると夕食の支度と、家事に追われて勉強どころじゃなかったわ」
聞くだけで大変だと思った。母の母——真里也から見れば祖母にあたる人が生きていれば、母の負担も少しはマシだっただろうに。
「学校の友達は、お母さんと休みの日はケーキを作ったり、ショッピングに行ったりっていつも楽しそうだった。なのに私は体の悩みも父には言えず、相談したのは赤の他人の保険医だった。だからずっと夢見ていたの、いつか結婚して子どもができれば、私も友達がしていたように、娘と一緒に買い物したり、お菓子を作ったりしようって。なのに──」
「生まれたのが、男の俺だった……」
母は小さく頷くと、冷めたお茶で唇を湿らせた。
「でもね、生まれたあなたは産院で生まれたどの赤ちゃんより可愛くて、みんな女の子ですかって聞いてくれたわ。だから名前を真里也とつけたの。本当は『まりあ』ってつけたかったけど、ダメだとあの人、あ、真里也のお父さんに止められちゃってね。女の子が欲しいなら二人目頑張ろうって言ってくれたわ。でも、妊娠すらしなくなって、色々効果が得られたものを試したけれど、無理だった。だから……」
「だ、だからって父さんと俺を捨てて、別の男のせ──、別の男の人を選ぶのは間違っている。相手にも失礼だよ」
思わず真里也はこぶしを座卓に叩きつけてしまった。音が大きかったのか、母がビクッとして眉をひそめたから、ごめんと、謝った。今は、真里也の方が力があるのだと彼女もわかっているのだ。
「言い訳だけれど、あの頃の私はおかしかった。結局、別の人とそういう関係になっても、妊娠しなくって病院で確かめたら、もう赤ちゃんができる可能性は低いと言われたわ。その時、真里也、あなたのことを思い出したの。小さなあなたなら、私の言う通り女の子になってくれると思ったから……」
ずっと長い間、疑問だったことに決着がついた。
母の言い分は分からなくもない。きっと、辛い家事を幼い頃からこなす中で、大人になった自分と夢に描いていた娘を想像して、長い間堪えてきたのだろう。
「お母さんの気持ち、少しは理解できる……けど、誘拐はよくないよ。あと、暴力も」
彼女はそうねと呟き、真里也に向かって頭を下げてきた。
「あの時は本当にごめんなさい。異常だと言われても仕方のないことを私は犯した。真里也に許してもらえないとは思ってる、でもおじいちゃんが亡くなった知らせを送ってくれたときは本当に嬉しかったわ。私のことを忘れないでいてくれたって」
優しげに微笑む顔からは、幼い頃に軟禁されていた時に見た歪 さはなく、至って普通の表情をしていた。
「許すかどうかは今は考えられないけれど、もういいよってだけ言っておくよ。じいちゃんに線香あげてくれたしね」
何だか少しスッキリした。だからか、今のセリフは何の迷いもなくスルッと口にすることができた。
「あの、図々しいんだけど、真里也の写真を何枚かくれない? もう、会いにくることはしないから、せめて写真だけでも……。だめかしら」
あまりにも肩を落として恐縮しているから、写真くらいならと、快諾した。
居間に彼女をひとり残し、真里也は自室に行ってアルバムを取り出した。
ページを捲ってどんな写真を選べば彼女が喜ぶかを考え、中学、高校の入学式の写真を選んだ。
アルバムを元に戻しながら、ふとあることを思いつき、真里也は急いで居間へと戻った。
「お待たせっ。これ──って、ちょっと、俺の鞄に何してるの?」
居間の隅っこに置きっぱなしにしていた真里也の鞄を手に、母が振り返った。
「あ、違うのよ。何もしてないわ。ただ、もう高校生なんだなぁって思っちゃって、教科書とか見ていただけよ」
母が笑って言うから、真里也はさほど気にも留めず、ふーんとだけ言って母の横に並んだ。
「な、何? いきなりくっついて来て」
戸惑う母に、「最新の俺も持って帰ってよ」と、スマホをかざしてツーショットを撮影した。
「お母さん、写真送るから連絡先教えて」
真里也が言うと、母が困惑した表情で見てくる。そして、恐る恐るといった口調で、「いいの?」と聞いてきた。
「もちろん。じゃ、もう一枚撮るよ」
顔を横並びで撮影すると、真里也は教えてもらったばかりの連絡先に画像を添付した。
ともだちにシェアしよう!