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第1話

1  んなぁお、と部屋の主に呼びかける。これで、三度目だ。  だんだん声が大きくなってしまうのも仕方ないだろう。ぱたん、ぱたんと尻尾が床を叩く。一定のリズムを刻むそれが示す苛立ちは、鋭くなっていく音がよく表現していた。  ちらと時計を一瞥する。時刻は、朝の七時を過ぎたところ。幸い彼の仕事には間に合うのだが、主に頼まれたのは六時半の起床だ。とっくに半周してしまった時計の針に嘆息し、彼の上へ跳びあがる。  しなやかな動きで枕元へ近づくと、幸せそうな寝顔を拝むことができた。  相変わらず、睡眠欲には弱いことで。ぱたん、とシーツを尻尾が叩く。  嘆息する代わりに黒い毛に包まれた手を伸ばした。  ばり。痛々しそうな音が響く一撃。ふにふにした指先から出た鋭い爪は、主の顔を縦に裂いた。  不細工な悲鳴があがり、掛け布団が跳ねのけられる。もちろん、その被害に遭わないようにベッド脇へ逃走済みだ。 「ってー……今日も手荒だな、トウヤ」  睨みつけてくる主に、動じない表情で小首を傾げてみせる。なにかダメだったの、と言いたげに見えるだろう仕草に、主は簡単に黙った。  さすが俺のトウヤかわいいぜちくしょー、とぶつぶつ呟きながら時計を手に取り、今度は真っ青になる。朝から忙しい主だ。 「七時過ぎてる! なんで起こしてくれなかったんだよ」  トウヤのばかー、と吐き捨てて洗面所へ直行する主。  なにをいうか、俺は何度も呼びかけたぞ。  ばたばた走り回る主を尻目に、優雅な動作で普段の定位置へ足を運ぶ。起きてすぐに用意してくれたらしい食事を堪能した。 「トウヤ」  食欲を満たし終えたタイミングで呼ばれた名前に、わざと億劫そうな声を返す。しかし、それだけで主は嬉しそうに破顔するのだから、猫バカと罵ってやりたい。 「おいで」  猫缶を味わっているうちにすべての準備を終えたらしい。玄関先で、スーツを着た主が両手を広げる。縦にゆっくりと尻尾が上下する。時計の針は、電車の時間が迫ってきていることを示している。仕方ない。  彼の掌に顔を摺り寄せた。スーツに毛がつかないように、できるだけ直接肌に触れられる場所を選んで身体を押しつける。  気持のよい場所を優しく撫でてくれる主に、思わず喉を鳴らした。  これは、毎朝の習慣だ。主は、これをしないと一日元気が出ないらしい。  薄く目を開けて様子を伺えば、相変わらずのだらしない笑顔を浮かべていた。会社の女の子に向けてやればいいのに。  んなッ。もういいだろう、と体内時計に従い、鋭く鳴いた。それとともに猫パンチを食らわす。  スーツを汚さないように掌に当てて、素早く離れる。先ほどまでいた場所に彼の腕が素通りした。 「なんで避けるんだよ、トウヤ」  出勤前にスーツを汚すやつがいるか、馬鹿野郎。あまりにも情けない声に、威嚇用の声で叱咤する。  内容がわかっているのかわかっていないのか、渋々ながら玄関に向かい始めた。 「……やっべ、もうこんな時間?! トウヤ、いってきます」  玄関の激しい開閉音の後、どたばたと足音が遠くなっていく。  その音が聞こえなくなってから、トウヤと呼ばれた黒猫はその場を離れた。  久住透哉。  たまたま同じ名前の猫になって一年。  今日も、元友人である藤堂辰巳を見送って一日を始めた。  元友人今主人の辰巳を見送った彼の次の仕事は、ご近所への挨拶回りだ。もとい、情報集めである。  透哉は、立派にごく普通の人間だった。平凡代表と銘打った看板を掲げても何ら問題がない、普通の高校生。  ただ、あるとき、事故に遭った。そして、気付けば猫の身体。野良猫として暮らしかけたところを元友人に保護され、今に至る。  事故後、透哉の身になにがあったのだろうか。そもそも、なにがあってこうなったのか。事故に遭った。それだけは覚えている。  しかし、具体的にどんな事故に遭ったのかはわからない。それは、最悪の事態に陥っている可能性にもつながる。なんといっても、漫画やライトノベルで使い古された人間から猫への転生に近い状態を体験しているのだから。しかし、実際のところ、そうなった確証はどこにもない。  人間としての記憶がある。ただ、それだけだ。  それでも、その記憶は一人の人間の人生そのものであり、それを否定したくはない。こんなあり得ない事態が起こっている中で、それさえ疑ってしまったら何も残らない。  だから、人間として、こうなってしまった原因を究明したいと考えたのだ。 「あら、トウヤちゃん」  猫用扉をくぐった先で、井戸端会議をしていた主婦たちに声をかけられる。  黒いかぎしっぽを軽く振って返事をすれば、満足げに「いってらっしゃーい」とのんびりした声。主婦によるご近所の噂合戦と情報交換が、再開されるのを後ろに、目指すは友のいる場所だ。  器用に壁に足をかけ、人間の時だったら二、三歩程度で落ちるに違いない細い塀の上を悠々と歩く。道端を歩く子供や若者、高校生の呼びかけを無視して、歩を進める。  なぁお。  一段低くなった塀の上。古風な造りの塀に敷かれた瓦の上に悠々とひなたぼっこをしているぶちの巨漢がいる。  一言声をかければ、彼の金色の目がきょろりとこちらを向いた。 『おう、トウヤじゃねぇか。二日ぶりかい』  魚屋の大将にも負けない濁声が、軽快に答える。髭をそよがせ、顎で隣に座るよう促した。トウヤは彼の傍へ足を投げ出して腰を下ろす。 『そうだね、最近外に出てなかったから』 『おう、あのにーちゃんに閉じ込められでもしたか』  くっくっと喉の奥で笑う猫は、その人相の悪さも相まって、どこかの裏組織を牛耳っていそうだ。 『違うって、ウメ。喧嘩して俺が指切っちゃってさ』  それほど血も出ていなかったというのに病院へ連れ出され、もう治りかけだから気にするなと医者に呆れられたのに、包帯を巻こうとした。  馬鹿らしい騒ぎだ。  そのせいか、病院から帰ったあとしばらく飼い主が常にそばにいて、トウヤが怪我をしないように見張る、という事態になった。  そう考えるとウメの言葉は言い得て妙である。これがその時のやつ、とウメに見せたが、眉間に皺をよせ鼻をひくつかせ、首を傾げた。  彼の反応も当然だ。そんなもの、とっくの昔に消えている。 『お前んとこのにーちゃんは、相変わらずだねェ』  この前も、と話し出したのは、一月前の猫缶騒動だ。  濁声が歌舞伎のような前口上を述べ、彼の行動をなぞる。  恥ずかしさに顔が熱くなったトウヤは、黒い毛皮に覆われていることに感謝した。  遠く飼い主の声が聞こえ始めて、トウヤは耳をぴんと立てた。誰かと話しているらしいが、その声は普段より間延びしている。 『って。噂をすれば影』  けらけらと笑うウメにも、幼い子供の声がかけられる。  ごはんだよ、ウメ、どこにいるの。んなぁお。濁声の返事に、家の奥から赤い服を着た子供が駆けてくる。 「ウメ、またここにいたんだ。あ、お友達のトウヤちゃん!」  こんにちは。勢いよく紅葉のような手を振っている。  にゃおう。黒猫の返事を聞いて満面の笑みを浮かべた子供は、縁側に置かれたサンダルに目もくれず、庭に飛び出した。  そのまま、塀の上にいる猫二匹に話しかけてくる。 「きょうはねぇ、ようちえんで、ウメのおえかきしたんだよ!」 『そうかい。お前さんは、俺の一の子分だからな。凄いものが出来てんだろうなぁ』  ウメが調子よく答えつつ、登ろうとする子供を牽制した。  手を差し出されたとでも思ったのか、子供はウメの手を握りしめ、ぶんぶんと振り回す。 「おかーさんが、とってもかわいいタヌキさんねっていってたの。ウメなのにー」 『母ちゃんには、独創的な絵ってもんがわからないだけさね』  トウヤも「そうだそうだ」と適当な合いの手を入れておく。  子供の高い声と猫二匹の合唱が、日差しが消えようとする夕闇の中に響いた。 「トウヤ」  意思の通じていない会話もどきを楽しんでいたところ、背後から声をかけられる。  普段よりも間延びして浮かれた声色だったが、飼い主のものを聞き違えることはない。 「あっ、トウヤちゃんのおじちゃん。こんばんは」  にゃあ。うなぁん。と、三者三様に挨拶が返される。それを見て、頬を赤く染めたサラリーマンは、上機嫌に笑った。 「こんばんは、さくらちゃん。今日も元気だねぇ」  塀の外と内に分かれているせいで視界は狭いが、お互いの姿がちらりと見えるだろう。  のんびりとした会話が続く。トウヤたち猫からは、どちらもよく見えるので、二人の世間話を聞きつつも猫同士の会話を始めた。 『うぅ、あいつ酒飲んだな』 『違いねェ。酒の匂いがぷんぷんすらぁな』  遠くから聞こえてきた声から、予想がついていたものの、今週も「花の金曜日」と称して酒宴に参加していたようだ。  ほぼ毎週のように酒を飲んでいる統計になる。毎日よりは幾分いいだろうが、あまり飲むと明日が辛い。  こんなに飲むようになるなんて、思わなかったけどな。  トウヤは胸の内で嘆息し、立ち上がる。ぼんやりして陽気な話し方は、まさしく「酔ってます」と顔に書いてあるものと同じだ。  小学生にあがったばかりのあの子には、毒でもある。 「そうか。ウメの寝相は面白いの……ぶっ」  塀の内側にいた子供から心配そうな声が聞こえる。トウヤは、わざと鉤爪を存分に使い、頭の上によじ登った。  猫になったとはいえ、面積の小さく揺れる場所は、なかなか難しい。 「あぁもう、トウヤ。人の頭に乗るときは背中からだって言ってるだろ」  そう言いながらも、飼い主はトウヤが落ちないように体を支える。ついでに撫でるものだから、この猫バカには困ったものだ。 『とりあえず帰るぞ』  ぺしっと緩んだ頬に一発くれてやって、体を伝って地面へ降りる。かなり力を込めたせいか、彼はさすがに呻いて顔を抑えていた。  にゃんっ。数歩歩いてその先で呼ぶ。その意味を正確に捉えた彼は、塀の内側の子供に別れを告げた。 『はっはっは、猫になっても世話好きは変わんねぇかい』  豪快な笑い声をあげるウメの声に、尻尾で挨拶をして歩き出す。トウヤは、黒い毛皮に本日二度目の感謝をした。 「トウヤは、ウメが好きなのか。まぁ、お前を連れて来たのもあいつだしなぁ」  ぼうっとした声で主は呟きながら、黒猫の背中を撫でた。  トウヤと共に無事帰ってきたものの、予想以上に飲んでいた彼は、どうにも立ち上がれないらしい。  水や薬は、トウヤがいつも通りに補助しながらも飲んでいる。風呂は諦めてもらうとして、ベッドまで行く気力がないようだ。心なしか青褪めている顔を見上げ、なぁんと鳴く。  大丈夫か、と聞いたのだが、やはり声は猫のものでしかない。 「ん、寝れば治る、から」  床に転がったままの発言に、慌てて顔を覗き込む。半分以上目を閉じていて、今にも夢の世界に旅立ちそうだ。  周りを見回し、布団の上にあったタオルケットを噛んで引っ張り出す。  猫の体よりもふた回り以上あるそれは、全身を使ってもなかなか落ちてくれない。やけになって助走をつけて布に飛び乗る。  どすん。音を立てて布が落ちた。 「トウヤ……?」  半分寝かけていた主が体を起こしてトウヤの方へ視線を向ける。黒猫はタオルケットを掴んだまま、後ろ向きに歩き始めた。何度かぶつかりかけながら、主のそばへ辿り着く。 「はは、賢いなぁお前」  猫の唾液がついただろうタオルを、トウヤは仕方なく膝へかけた。飼い主が気にしないことは知っているが、やはり濡れたものなど気持ち悪い。特に、体調が悪いときは。  痺れかけた顎を動かしながら、飼い主を見上げる。やはり顔色が悪い。  取って返して枕も同じように引きずって、飼い主の近くへ落とす。膝を抱える彼は、黒猫の用意したそれを一瞥して、また元の体勢に戻った。とりあえず頭がくるだろう場所へ枕を押しやって、彼のお腹に体を擦り付ける。  難なく倒れた主人は、ぼんやりした顔のままだ。掛け布団代わりの布を持ち上げて、どうにか寝る格好がつく程度にまで辿り着く。 「お前は賢いな。本当に透哉みたいだ」  主人は、遠くの誰かを呼ぶように、透哉を引き合いに出した。トウヤは、つい体の動きを止めてしまう。  それを黒猫の名前を呼ばれて止まったものと勘違いしたらしい主人は、肩を震わせて笑って、黒猫を呼んだ。 「あのな、トウヤって名前は、透哉と仲の良かったウメが連れて来てくれたからなんだ」  微妙に変わるトーンが、透哉とトウヤを区別しているようだ。  いや、主としては勘違いした黒猫に彼の友人のことを話しているだけのつもりだろう。  それでも、トウヤの胸の奥、何かが濁ったように思われた。   ◆  横を歩く友人が、唐突に立ち止まった。いつものこと、と無視して歩けばいいと思うものの、透哉の足もやはり止まってしまう。  隣を見れば、友人はすでに屈みこんで足に頭を擦りつける子猫を撫でまわしていた。 「また?」  呆れた声をかけると、彼は上機嫌に子猫を抱えて見せた。どこかから脱走してきたのか、野良なのか、腕の中の小さな毛玉が友人の手に噛みついている。  痛くないのか、だらしなく笑み崩れている。それでも、基本パーツや配置がいいのだろう、その端正な顔は変わらなかった。  ついで、楽しそうに手招きするものだから、透哉の足は自然と彼のそばに行く。 「撫でてみろよ」  そっと子猫を差出される。動物を上手に扱えない透哉は、ただ、首を横に振った。  下手で臆病な自分が触るよりは。そう思っての行動だった。 「はぁ、透哉は相変わらず慣れないなぁ。な、ちびすけ」  崩れた笑みを浮かべて、甘い声で子猫に話しかける。彼が首回りを掻いてやれば、ごろごろと喉を鳴らした。  子猫の小さな変化に、いちいち反応しては締まりのない顔で眺めている。  こちらを見る気配もない。  あまりにも甘い声と視線に思わず、ミケたちが嫉妬するぞと呟いた。彼の飼い猫は、彼が野良猫と戯れたあとに必ず威嚇してくるのだ。ご機嫌取りがすごく大変なのだとそれでも緩んだ顔で話してくれたのは、いつだったろう。 「そうだな。おっきい猫がお怒りだもんなぁ」  一瞬目を瞠って、彼はそう言って透哉へと視線を寄越した。違う。否定したにも関わらず、彼は目元を和ませただけだった。   ◆  ぱちりと音をたてて開いた視界には、黒い毛並が映っていた。懐かしい夢。まだ人間として彼のそばにいたころ。  耳をそよがせ、目の前にいるはずの主を見やる。しかし、その場所はすでに空っぽで、抜け殻のような毛布類が高く積み上がっている。  薄く日の差し込み始めた部屋の中を見回すと、少し離れた位置からかすかな衣擦れが聞こえてきた。慌てて立ち上がり、体を伸ばす。簡単な準備体操をして、身軽にベッドの上へ跳びあがった。  ふんふんと鼻を鳴らして覗きこむと、寝惚け眼の主、辰巳と目があう。  みゃあ。  黒猫の挨拶に、彼は青ざめた顔で力なく笑った。青白いのに、頬が赤い。猫に色が認識できるのかは分からないが、トウヤはそう思って肉球を辰巳の額へ押しつけた。  熱い。風邪だろうか。昨日は、深酒の上、固い床で寝こけてしまっている。  いくら猫のトウヤが頑張って毛布類を持ち込んでも、床の固さは変わらないということだろう。  立ち上がることも難しいようで、ぐったりとしたまま呼吸が浅い。こういったときに獣臭いのはよくないだろう。テレビ台のどこかに薬が放り込んであったことを思いだし、ベッドを飛び降りる。  トウヤと掠れて名残惜しげな声が聞こえたが、ひとまずは彼の体調を優先だ。  猫の身体でなんとか取り出したぼろぼろの箱をベッドの上に運ぶ。箱の説明には、水なしとの文字があったから大丈夫なはずだ。  半分目を閉じかけている彼に、控えめに声をかける。手元に落とされた薬の箱を視界に入れて、彼は少し笑った。 「ありがと……さすが俺の透哉」  そう言ったとき、普段なら黒猫を撫でていた。それなのに、彼は空中を見つめたままだった。微笑んだ先には誰もいない。黒猫の毛が逆立つ。  彼は、今、誰を呼んだのだろう。  此処にいる猫のトウヤだろうか。あんな顔をして呼ぶだろうか、ただの飼い猫を。ただ、なんとなく思ったのは、猫になった透哉を呼んではいないだろうという予測だった。  ふいに合成音のにゃーという鳴き声が聞こえた。何事か、と尻尾がぶわりと太くなる。続いて、またにゃにゃーと鳴き声。そして、ドアベルの設定音がこれだったことを思いだし、トウヤはひとまず玄関へ走った。 「おーい、辰巳さんやー。約束のもの持ってきたんだけど、おでかけしてんのかー」  ごんごん。乱暴なノックまでしている訪問者の声に、聞き覚えがあった。  トウヤはダッシュの勢いを使って、設置してあるインターフォンのスイッチを押した。テレビ独特のノイズを三角の耳が拾う。見事な三回転を決めて、床に着地したトウヤは、カメラとマイクが機能したことを確かめようと大きな声で鳴いた。 「なにしてたんだよ、辰巳……あれ、にゃんこくんか」  早く開けろと言いかけたのだろうか、ぽかんと口を開けている訪問者は、ラフな格好に薄い茶髪を短く刈り上げた男性、透哉と辰巳の同級生、甲斐田浩太だった。  あれ、甲斐田じゃないか。元気してたかー。  つい話しかけたものの相手には声しか届いておらず、悲しいかな、猫と人間は使う言語が違う。 「うーん、猫がインターフォンに出るとは。噂には聞いていたが、久住にゃんこの名前は伊達じゃないってか」  賢いついでに怪しいものじゃないから開けてくれ。と、猫相手に調子のいいことを言う。相変わらず、変わった思考の持ち主だ。 あおん。あうーあ、んみゃあ。 「ううん、さすがに猫が扉の鍵を開けるのは難しいのか…」 んみゃっ。 「しかし、この前見せて貰った動画には、そんなことが出来ちゃう猫が映っていたんだ。普通の猫もできるんだから、久住によく似てしっかり者のお前ならできる!」  お前の中で動物の認識はどうなってるんだ。んみぅ。喉元で呟いた声は上手くマイクが拾わなかったらしい、甲斐田が耳に手を添えて「久住にゃんこ、なんていったんだ」とのたまっている。  振り返って、寝室へ続く扉を見やる。この家は、全ての扉に猫用扉が設置されているため、猫のために少しだけ扉を開けておく必要がない。閉まったままのそれは、向う側の様子を窺い知ることができないでいる。  まだ様子を見に来ないあたり、風邪の症状は思ったより重いようだ。  見下ろすと目に入るのは、黒い尻尾と毛並に覆われた、物を持つには適さない四ツ足。それは、成人した人間を看病するには、随分と頼りなかった。猫用扉を見つめたまま、黒猫の尻尾がゆったり上下した。   ◆  人は、一緒にいることが多い透哉たちを揶揄して「猫バカが、大きな猫を猫かわいがりしている」と表現した。そう言われるたびに、透哉の顔は引き攣っていただろう。  人々は、彼の表情にからかわれることへの嫌悪を読み取ったかもしれない。必ず最後に「透哉は猫からは程遠いけど」と付け足した。それこそが、透哉の胸をえぐることも知らず。 「なぁ、本屋行こうぜ」 「あー……悪い。放課後、呼び出されてるんだ」  すぐに追いつくから。わかったと返す声が少しだけぼやけている。そのことに気付くのは、吐き出した本人だけだ。扉の向こうへ消えていく背中を視線が追っている。  胸の奥、隅に押しやったはずの黒い何かが、ぶつぶつとぼやき始めた。心臓を締め付けるそれをほぐしたくて、胸元で拳を握る。とん、と叩けば、咳が出て苦笑する。 「あほらし」  でも、こうでもしないと誤魔化せない。こんな風に言わないと押し込められない。厄介すぎるこれに名前を付けたくなくて、目を瞑った。  校門近くまで歩いてきたところで、透哉は校舎を見上げた。フェンスが張り巡らされた、漫画やアニメでよく見る屋上。  鍵があるはずなのに、いつのまにか開けてあって、よく告白現場に使われていた。何か特別な方法があるのだと頬を染めた女子たちが騒いでいたことを思いだす。  おそらく彼は、屋上で告白を受けているだろう。異性が騒ぐような端正な顔立ちに、同性も羨む体格で、明るく元気なクラスの人気者。そんな立ち位置にいるのが、透哉の友人だった。当然だろう。  大きなため息が出た。何度目だろう、こうして見送るのは。そのたびに恐怖する。いつか、透哉が今いる位置に誰かが並び立つ。その空想が近づいてくる予感に体が震えそうになって、本当に嫌になる。 「やなやつ」 なぁん。  呟きに被せるように鳴き声が聞こえた。周りを見渡せば、足に暖かくてやわらかい感触。見知ったぶちの大きな猫だった。  声をかけてきたのは、こいつだろう。彼と透哉の顔を見るたびに寄ってくる。最近では、透哉だけのときにもよってくることがある。 大きくて強そうな体格や、渋い親父のような顔。その姿のままに、このあたりの猫のボスをやっているらしい場面を何度か見かけた。  うなぁ。餌をくれとばかりに濁声を張りあげる。仕方なしにポケットから出てきた猫用煮干の袋から、一本だけ彼の口元に持っていった。友人に持っておけと渡されたものだ。透哉自身は、まったく関与していない。  軽く匂いを嗅いで、ぶち猫はかぶりついた。目を細めて、がつがつ頬張っている姿は、今にもおいしいという言葉が聞こえてきそうだ。 「幸せそうだなぁ」  のんびりできて、自由にふるまえて、彼とともにいても全く問題がない。  馬鹿な事を言っている自覚はあったが、それでも溢れてきたそれを止めることができない。  猫になれたら。なんてライトノベルや漫画の読みすぎだ、と空想を否定しながら、続きを考える。  それなら、きっと彼のそばにいても何も問題はない。どれだけ近くにいても猫なのだからと許されるだろう。気付かれたくないものも、猫なら隠す必要すらない。  そして、もし、恋人ができたとしても十分に甘えられる。別枠なのだから。付け足すなら、恋人に対して媚びる必要はないし、考えが読まれることもない。勘の鋭い女子生徒から牽制されることも、ない。 「いいなぁ」  ぶち猫は、首を傾げておかわりの催促をした。   ◆  辰巳の目が開いたとき、トウヤは思わず彼の額に猫パンチを繰り出していた。ぼんやりとしながらもさきほどよりずっと落ち着いた声が、「トウヤどうしたかわいいなぁ」と呟く。その内容に目を眇め、うなんと不服を示してみせる。  そう格好つけたものの、滲み出る安堵のため息は、むしろ際立ってしまったようだ。 「お、辰巳起きたかー」 「かいだ、なんでおまえ」 「いやね、このにゃんこくんが、やたらと入れって怒ってきてね」  鍵を咥えて持ってきた上に開けろと催促してきた、と猫のものと思われる噛み跡を示す。  あまりにも尋常ではない様子に、不可抗力と言い訳しながら鍵を開けて入ってきた。そして、なぜか魘されている友人がいた。 「久住にゃんこのお怒りもわかったから、介抱してやったんだ」  実際、トウヤは彼が入った後は協力的で、薬やタオルの場所などを教えてくれた。おかげで甲斐田は友人宅のものの配置を知ってしまったが、これも不可抗力と諦めている。  甲斐田が軽く状況を話すと、辰巳は飼い猫にキラキラした視線を送る。 「お前、俺のこと心配してくれて……」  手を伸ばすと、黒猫はぽんと前足を乗せる。んなっ。まるで休めと言っているかのようで、甲斐田は苦笑した。  まさしく久住だ、と。  その前足に押されるようにベッドへ戻ろうとして、彼の目がかっと見開かれる。そして、勢いよく起き上った。瞬間、ふらつきそうになる主。トウヤは、支えきれないにも関わらず飛び出して、結局、彼のお腹に顔を埋める形になってしまった。  甲斐田の苦笑が、後ろから聞こえてくる。支えてくれたのだろう、そのまま主の体をベッドへ押し戻した。 「ほらほらー、寝とけ。同じ名前のにゃんこが行くなって言ってんだ。あいつも、一日ぐらいは許してくれるさ」 「でも……会いに行かないと。きっと淋しがってる」 「おいおい、あいつは寝たきりで目を覚ましたことないだろうが」  寝たきりの相手へ会いに行く。どこかで療養している人がいただろうか。思い返すも、猫としての行動範囲で彼を見かけるのは、自宅と近くのウメの家だ。その中で、それらしき話題を聞いた覚えはない。 「ほら、とりあえず、これはここに置いとくぞ。病室に持っていっても腐らせるだけだからな」 「なんで日持ちするやつにしなかったんだ」 「いやさー、どうせなら久住の好きなやつ持っていこうって、この前話しただろ」  思わず立ち上がった。彼らの元へ視線が吸い寄せられる。二人の声が遠くに聞え、一歩足が前に出る。 「ロールケーキが好きって子供みたいだよな」 「それもコンビニ限定。他は食べたくないって」 「そうそう」  楽しそうに笑いあう二人を見て、さらに胸の奥がざわつく。二人が知っていて、コンビニのロールケーキが好物で、今どこかで寝付いている、久住という名前の人物。どこもかしこも聞いたことのある、身に覚えのある特徴ばかりだ。 「お、にゃんこくんどうした」  立ち上ったまま、こちらを凝視する黒猫に気付いたのか。甲斐田は、首を傾げながらも、ちょいちょいと手招きをする。それとは別の方向、黒猫の視線は、彼の荷物が放られた先へ向けられた。  ふらふらと視界が揺れる。海面を下から見ているようだ、と考えていると、脇の下に誰かの温もりが突っ込まれた。  んなう。低いごろごろという音が発せられて、後ろから「怒るな怒るな、俺だよ」と甲斐田の声がする。  すとんと降ろされた先は、さきほどまでいた場所と同じ主のベッドの上だった。ついで、トウヤと反対側にあったサイドテーブルの上、コンビニの袋とスポーツドリンクも置かれる。 「トウヤ、どうしたんだ」  優しく甘い声が降ってくる。いつも、隣で聞いていたあの声だ。猫に向けるときだけの、砂糖をまぶしたような声。優しい手がそっと差し出され、その掌に身体を擦りつけた。  嬉しげな声が漏れ聞こえ、両手が上機嫌に撫でまわし始める。その撫で方は、さすが猫好き歴が長いだけあって、とても心地がよい。無意識に喉がごろごろ鳴って温もりに目を細める。  ちらと一瞥したコンビニの袋の中には、透哉が好きだった商品名がつけられたロールケーキが入っていた。

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