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第2話
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ILLBOX@しゃず
ねことばか/ILLBOX@しゃずの小説
ねことばか
35,818文字1時間11分
事故で黒猫になった透哉は、元親友・辰巳に拾われ飼い猫として過ごすことに。
猫としての距離感にじれつつも、隠しきれない想いが募る。
眠り続ける“もうひとりの自分”の存在に気づいたトウヤは、真実を探し始めて——。
猫だからこそ素直になれない、だけど隠しきれない想いがじわじわと染みる、じれキュン猫BL!
過去の同人誌で発行したものを、こちらで。
幼馴染×猫になっちゃった高校生。
オリジナルBL腐向け創作BL創作猫の日幼馴染
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2025年2月22日 23:29
日本語
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久住透哉が生きている。しかし、それが本当なのかは分からない。彼らの会話では、それ「らしい」程度しか判明していなかった。それでも、調べる価値は十分にあるだろう。
このあたりで一番大きな病院。もし本当に透哉だった場合、寝たきりの状態で一年以上経っているはず。そうなれば、病床が少なく小さな施設では面倒を見きれないだろう。
透哉の両親は共働きで、なんとか家計をやりくりしているため、自宅療養はほとんどありえない。実際、いつぞや見に行ったときは、それらしき人物は影も形もなかった。となれば、大きな病院で入院していると考えるのが妥当だろう。
「っし」
ふいに聞こえた声に、黒猫は跳びあがった。尻尾が二倍ぐらい広がっていることを自覚しつつ、音の原因へ視線を向ける。スーツとは違うラフな格好をした主と目があった。
「はは、驚かせたみたいだな」
ごめんよ、トウヤ。そういって撫でようと手を伸ばすが、黒猫が止める前に引っ込める。滅多にない反応に首を傾げると、変わらず猫バカな彼は「今の顔、写真に撮ればよかった」などと悶えていた。そうしているうちに、電子音が時刻を告げる。
それを聞いて、主は我に返ったようで、慌てて玄関へ向かう。
どこへ行くんだ。妙に慌てた背中に、問いかける。
「今日は、病院。だから、トウヤを撫でられないんだ」
撫でてほしいと言ったわけではないのに、主はトウヤに向けて謝罪を口にして、出て行った。走っていく音が遠ざかっていく。
はて、そこまで彼が患っている箇所はあっただろうか。首を傾げたところで思いだす。先日、甲斐田と共に口にしていた、目を覚まさない彼のことを。
かたん。猫用扉をくぐった先には、すでに主の姿は見えなかった。成猫とはいえ猫と人間の足では、随分と差がある。今からでは見つけることも難しいかもしれない。
それでも。黒猫は駆け出していった。
十数分後。トウヤは迷っていた。彼の匂いを辿ってきたものの、T字路のどちらからも嗅いだことのある匂いが漂ってきて、どう行ったものかわからない。
『参ったな…』
『おう、どうしたよ。トウヤ』
呟いたところで、濁声が響いた。先ほどのように跳びあがるような失態は見せなかったものの、少し毛が逆立ってしまった。それを誤魔化そうと、斜め上の塀で丸まっている大柄な猫に視線を向ける。
『ウメ! さっき辰巳がここを通らなかったか』
『ああ、あの兄ちゃんならさっきあの道を上がっていったさね』
示された先は、T字路の右へ行く急勾配な坂道だ。
『ありがとう。助かった』
『おいおい、待て。にいちゃんはゆっくり歩いていたが、俺たちじゃ追いつけねぇぞ』
走り出そうとしていた身体に急ブレーキをかけ、崩れた体勢をなんとか立て直して振り返る。
『なんでだよ。走ればまだわかるかも』
『残念だが、兄ちゃんは今頃大きな箱の中さ』
そうして示された先には、バス停があった。あまり来ない土地のせいか、何がどこにあるのか把握できていない。自分の生まれ育った場所のくせに、まったく知らない場所があるとは。苦笑するも、猫の顔では分からないだろう。
『そうか…それは悪かった』
『いや、いいってことよ。それよりお前さん、どうして追っかけるんだい』
ウメの問いかけに、トウヤは素直に事情を話した。数日前の出来事、探していた答えが見つかるかもしれないこと。
『ふむ。そこまで見当がついているんだったら、歩いていけばいいじゃねぇか』
時間がないというわけではあるまい。確かに、虱潰しに探すというわけでもなく、目的地がはっきりしている。だったら、バスの行先なんて気にせずに、この町一番の病院に行けばいい。なんでこんな簡単な事を思いつかなかったのか。トウヤは、考えていたよりもずっと焦っていたらしい。
『そっか、そうだね。行けばいいのか……でも、あれ、病院って猫入れるっけ』
『病院っつーでけぇ箱ン中にゃあ、無理だ。けど外から覗く分にゃ問題ねぇ』
秘密の通路があるのさ。と、得意げに笑ったウメの顔は、どこぞの悪人大将のようだった。
白黒のぶち猫が連れて来たのは、町一番の病院の裏だった。総合病院として多くの人間がここを利用している。トウヤも人間のときは、あまりお世話にならなかったものの、緊急時の連絡先としてここの電話番号は控えていた。
『うーん、こんなところに裏口があるとはなぁ』
ぐるりと回った先、駐車場を通り過ぎて目立たないながらも入口が見える。様子を見る限りでは、入院患者に会いに来る風情の人間が多い。何かしらの荷物を抱えた彼らは、自動扉を通って奥へと進んでいく。
遠くてわかりづらいが、近くにナースステーションか受付でもあるのだろう、挨拶を交わす声を拾った。
『こっからよく俺たちを好きな白い服の人間が来るんだ』
『へぇ……どこにでも猫好きはいるんだなぁ』
そういえば、とあたりを見回すと、意外にも敷地のあちらこちらから顔を覗かせる仲間がいる。冬場ともなれば、車の下で暖をとるものもいるだろう。
『で、ウメ。どこの病室か知ってるか』
『お前さんがいるっつー場所かい。この箱の中ンどっかだろィ』
そうだった。こいつは猫だった。親分肌で人間味のある彼と過ごして、つい人間と同じように考えてしまっていた。
猫なら当然のようにこの場所がどういうところか、どんな構造になっているかなど気にするはずもなく、知っているわけもない。うわあ、どうしよう、と両目を覆い唸っていると、後ろから声が聞こえてきた
「うわ、猫なのにすげぇ人間っぽい仕草してるやついるぞ」
三角の耳が声の方向へ向けられる。前足をずらしてちらり覗くと、少し離れた先に甲斐田が立っていた。スマートフォンを掲げて、こちらへ少しずつ近づいてきている。途中、カメラの効果音が聞こえてきて、写真機能を使っていることがわかった。
「……っと。悪い悪い、ちょーっと写真撮ってるだけだから」
その言い訳は、普通の猫には通じないからな。ウメは、飼い主に撮られ慣れているのか、動じないで大あくびをしている。とはいえ、周りにいた猫たちは、胡散臭そうな視線を甲斐田へ向けていた。
「ん、あれ……お前、もしかして久住にゃんこくんか」
なんっ。顔を覆うのをやめ、しっかり猫なりに背筋を伸ばす。きちんと返事をしてやれば、おーやっぱりと彼は間抜けな声をあげた。
「どうした。こんなところで散歩か」
ちっちっち、と舌を鳴らしてしゃがみこみ、猫の方へ手を伸ばす。軽く視線を外しているところを見ると、彼も猫の扱いには慣れたようだ。透哉の記憶では、何度も逃げられていたというのに、ここ一年で辰巳に仕込まれたのだろうか。
その成長を祝してやるか、とトウヤはその手に頭を擦りつける。彼と違ってあまりごつくないが、節くれだった指は、やはり成人男性のものだった。
『なぁ、甲斐田。俺の病室ってどこにあるんだ』
「うんうん。そうか、辰巳が恋しくって追いかけてきたんだな」
『いや、違うけど……あれ、違わないのか? 辰巳が行ってるところに、たぶん俺がいるんだろうし』
「いやー、今な、辰巳は久住のとこでぼーっとしてるから。もう少しだけ待ってやってくれ」
思わず病院の白い壁を見上げる。勢いよく振り返って、甲斐田の手に耳がぴしりと当たった。彼の膝に手をついて、よく覗き込もうと首を伸ばす。
「あそこのな、三角の印ついてるとこあるだろ? あの隣」
背の高い木が植えられたすぐ近くの病室。二階の窓の一部へ、人差し指を向ける。赤い逆三角の模様がつけられた場所から、すっと横へずらす。
カーテンが閉まっていたが、窓は開いているらしく、薄紅色のそれが、ゆらゆら揺れていた。しばらく見つめているうちに、風が強く吹いた。びゅう、と強く吹いて少し肌寒い。カーテンが大きく揺れ始め、ばたばたと窓の外で暴れる。
「お、辰巳だ」
それを追いかけて現れた腕の持ち主は、外で手を振る友人に気付いたようだ。翻る布を、片手でまとめると、顔を覗かせる。目を眇めて手を振る動作は、何かを追い払うように見えた。
「おーい……って、あんにゃろ」
甲斐田の手の中にあったスマートフォンが振動し、何かを操作した。そして、その画面を理解できないはずの猫へ向ける。そこには、辰巳の名前とふきだしでメッセージをやりとりする画面が表示されている。
ちなみに、彼からのメッセージは、「さっさと帰れ。あとトウヤはきちんと保護するんだぞ。ただし、嫌がるなら無理して連れ帰ろうとするな。あの子は賢いから自力で帰ってこられる。とりあえず、怪我してなさそうだけど、トウヤの写真撮れ」云々、とまだ続いていた。
よくあの短時間でメッセージを送信できるものだ。昔から端末の操作はかなり早かったものの、ここまでとは思わなかった。
「というわけだ。久住にゃんこ、お写真の時間だぞ」
そんなことを言いながら、すでにシャッター音が何度も響いている。時々駆動音が続くので、ビデオ機能を使っているかもしれない。後で消してやろう。
からから、と窓を閉める音が上から聞こえてきた。仰ぎ見ると、主の手が窓に手をかけている。このままでは目的が達成できない。
んなっ。変わらずシャッター音を響かせる甲斐田のスマートフォンに猫パンチをくれてやり、彼の頭から近くの植木へ移る。そのまま花壇の中程、病室の窓へ続くひょろ長い木を駆け上る。若木なのか、庭師がきちんと世話をしていないのか、そこは思ったよりも不安定だった。
下からウメの声援が聞こえる。今のお前さんは猫なんだから気張りすぎんなよ、と、まるで土建屋の親方のようだ。
さすがは猫と言えばいいのか。なんとか窓を閉め切る前に辰巳の元へ辿りつく。
みゃあっ。大きな声を出して、彼の気を引いた。
「と、とうや…」
それはどっちの名前なんだか。どこか青褪めた顔で飼い猫を見つめる彼に、首を傾げながら返事をする。視線はまっすぐ彼の後ろ、ベッドに横たわった誰かだ。
頬がこけた、それでも鏡の前で毎日のように見ていた顔がそこにあった。酸素マスクとチューブ、さらには何やら仰々しい機器類が並ぶ中に埋もれるようにして、久住透哉は、そこにいた。
予想通りの光景。それでも、外から見る自身とは初めての対面だからか、違和感ばかりが募る。現実味のない光景として認識される。
『ピアス、やっぱり危ないから取ったんだ』
急激に色あせた世界で、妙に細かいところに気が付いた。ぼうと夢心地は、重症患者のような扱いをうけている透哉の体を、画面の向こう側の出来事のように思わせる。ぐるぐると必要ない情報が渦を巻く。
染めた色を気に入っていたのに、すっかり黒髪に戻っていること。剃刀をあててもらっているのか無精髭も生えていないこと。点滴の為に外へ出された手を、辰巳がしっかり握っていたこと。不思議と遠い出来事に感じられて、ふらつくままに一歩前へ進んだ。
「トウヤッ」
鋭い叫びが、黒猫を呼んだ。瞬間、トウヤの体が傾ぐ。細い枝から足を踏み外しかけて慌てて元の体勢に戻った。猫ならではの反射神経だろう、人間なら確実に落ちていたはずだ。
危なかった。心臓がうるさいほど動いている。荒い呼吸を整えてそっと下を覗き込んだ。
遠い。ここから落ちれば確実に大怪我をする。 もしかするとその程度では済まされないかもしれない。黒猫が乗る枝は、トウヤの体の幅程度で、先端に向かうほど細くなっていく。周囲の枝もまばらで飛び移るのも難しい。
あれ、ピンチじゃないか。
瞬間、皮肉なことに世界が元に戻った。枝の根元がたてるぎしぎしという音が、耳につく。下から甲斐田の間抜けな声とウメのにゃーにゃー喚く声も響いてくる。先ほど足を踏み外したせいか、どこからか木肌がぽろりと剥がれて落ちていった。
「トウヤ、落ち着け。いいか、動くなよ?」
『動けるわけないだろ、こんなとこッ!』
ふぎゃあっと八つ当たりに近い怒りを辰巳にぶつけてしまう。こんなところに登るんじゃなかった。下を見るんじゃなかった。
もごもごした鳴き声が零れる。「後悔先に立たず」を実感していると、主の後ろが慌ただしくなった。
「どうしたんですか?」
ファイルを手にした看護士が、こちらを不審そうに覗いている。主の説明を聞きながら、トウヤに視線を合わせてくる彼女。
ふみぃ。男としてのプライド云々は、この際置いておく。なるべくいじらしく見えるように震えて、同情を誘った。細工が功を奏したのか、猫好きだったのか。すぐにクッションを用意しますね、と彼女は猛烈な勢いで出て行った。
「トウヤ、看護士さんが協力してくれる。だから、大丈夫だ」
大丈夫だから、と何度も繰り返す。ただ、その様子は、どちらかというと自身に聞かせているようだ。
辰巳を見上げる。やはり青褪めている彼は、先ほどから何かを呟いていた。本人も気付いているのかいないのか、ただひたすらにトウヤを見つめている。
にゃあ?
「違う、透哉じゃない。猫だから、大丈夫。猫なんだ、ちゃんと降りられる」
透哉じゃないから。大丈夫。猫だから。辰巳らしくない、震えて掠れた声が紡ぐ言葉は、それらの繰り返し。辰巳、どうしたんだ。
軽くパニックに陥っていたトウヤは、ついそう問いかけていた。人は、えてして目の前の誰かが自分より焦っていると、それまでの混乱が嘘のように落ち着いてしまうものだ。トウヤも不思議と自身の状況が思考から抜け落ち、主への心配が勝っていた。
『辰巳、どうしたんだよ。いきなり』
元から青褪めていたが、今では青を通り越して白くなりつつある。こんな顔をした彼は、見たことがない。そう思って、首を傾げた。
ふいに過った記憶。その中の彼が同じように張りつめた表情でこちらを見ている。
何かを必死に叫んでいる。手を伸ばしている。見開かれた目が、じっと一点を見つめている。こちらに向かって何度も口が動く。ふいに視界が傾いだ。一瞬の浮遊感。風を切る感覚とともに色が濁流となって通り過ぎていく。その中で彼の今にも泣き出しそうな顔がはっきりと映った。
みぎゃっ。誰かの体温に抱きかかえられた気がして、体が跳ねた。当然だが、枝から滑り落ちる。地面へ叩きつけられる覚悟をして身構えたが、予想していたよりも早く衝撃が襲ってきた。しかし、あまり痛くない。
にゃんこ先生のような見事な空中回転を決めたにしては、妙な心地に薄目を開く。
ひし形がいくつも並んでいた。白い糸で作られて歪んだひし形と、その先にある緑の棒。わあっと歓声が上がって、トウヤは周囲を見回した。
看護師の群れの中から一歩前に出た、白衣を纏う中年男性。彼の武骨な手が、棒の先を握りしめている。乱れた頭髪の隙間から覗く鋭い目と、目が合った。
「暴れるんじゃねぇぞ、猫」
猛獣のような視線に、理解できないとは知っていても、「わかりました、絶対しませんっ」と叫んでしまう。体が揺れ、トウヤは白い部屋の中へ連れ込まれた。ついで、よく知る匂いに抱きしめられる。
「トウヤッ、よかった!」
落ちなくてよかった、と耳元で叫ばれ、普段の数倍の早さで頬ずりをされる。周りの看護師たちからも、よかったよかったと頭を撫でられた。もみくちゃにされながら、床を見ると、魚とりで使われるような玉網が落ちている。見覚えのある緑の柄に、救世主はこれかと納得した。
「おい、兄ちゃん」
「あ……えっとすみません、勝手についてきちゃったみたいで」
「猫は自由だからな。それよりも、こっちよこせ」
随分と居丈高な男だ。主は、渋々といった体でトウヤを男に渡す。黒猫は、眼光の鋭さのせいか大人しく彼の腕の中で触られている。
どちらかというと強ばっているのだが、それに気付いたのは主ぐらいだろう。
「うっし、問題なし。まぁ、擦り傷ぐらいだ。一応、動物病院行っとけ」
「ありがとうございます……その助けてもらったことも」
視界が上下して、トウヤは彼が深々とお辞儀をしたことを知る。白衣を羽織った男性は、その様子を見て口を開いた。
「こいつ、お前の猫か?」
辰巳が頷くか頷かないかの瞬間、ごん、と鈍い音が響いた。瞬間、全身の毛が逆立ち、尻尾が二倍に膨れた。
上を見上げると、主が呻きながら頭を抱えており、強烈な一撃を頭部に食らったようだ。それでもトウヤを離さないあたり、猫好きにも程があると言うべきか。
「藤堂さんよ、ここはどこだ?」
「病院です……」
「で、病院は、どういうことする場所だ」
「治療する、ところ」
医者の不機嫌の理由が判明する。猫にとっては当たり前な毛皮、そこについている細菌類。それは、人間にとって危険なものにもなりうる。衛生管理は綿密に行われなければいけない病院に、猫が入り込んでいいわけがなかった。
『ごめんなさい。辰巳が悪いんじゃない。俺が勝手に登っただけで』
みうみう。そう言い募るも、周りに立つ人間にとっては、それは単に猫の鳴き声にしか聞こえない。するりと主の手から擦り抜け、医者の足元に立つ。みゃおう。
ごめんなさい。掃除もできないけれど、すぐに出ていくから。言葉が勝手に零れだす。周りの看護師たちが何事かと注目しているが、黒猫は鳴く事をやめなかった。じーっと見つめると、医者の鋭い目がひとつ瞬きをして天井を仰いで頭を掻く。
「……こりゃ珍しい。飼い主を責めるなってか」
「トウヤ……」
「なんだ、この猫。患者と同じ名前か」
その一言を皮切りに、周囲から「そういえば久住透哉さんよね」「藤堂さんの幼馴染で親友だったとか」などと看護師たちのざわめきが聞こえてくる。
やはり、ここで寝ている人物は久住透哉本人だったのか。床から見上げた先、白いシーツしか見えないベッドを見やる。多くの機械に囲まれた久住透哉は、これだけ騒いでいるにも関わらず、まったく目を覚ます様子がない。
「猫ちゃんって、よく藤堂さんが話してる可愛い飼い猫ちゃんのこと、よね」
一年前ぐらいから飼っていて、とても賢くて素敵な黒猫だと誇らしげに話していたことを覚えている。そう言ったのは、栗毛の背の低い女性だった。
「一年前って……この人が運ばれてきたのも」
事故に遭った親友と入れ違いに彼の元に現れた、同じ名前の黒猫。偶然といえば偶然と片付けられる程度の要素だが、何かの符号を感じ取ったらしい。多くの好奇心の目が、主に集まってくる。
聞こえているのかいないのか、彼はその問いに答えようとせずに、透哉が横たわるベッドを見つめていた。切れ長の目は、何を考えているのかわからないほど黒く塗りつぶされているようだ。
「まぁ、いろいろあるんだろうよ。とにかく、猫用ケース用意しろ。窓から放り出すんじゃ、可哀想だからな」
低い声が周囲を見回して、噂好きな彼女たちに仕事を与えた。
『で、だ。トウヤ。お前さんはどうするよ。きちっと目的達成できたんだろ』
陽だまりの中、大きな体のぶち猫はそう言って面白そうにトウヤを見た。
『うん。やっぱりあそこにいたのは、俺だったよ』
正確には、久住透哉の体だ。眠っているようにしか見えなかったが、あらゆる機械に囲まれてようやく生かされている。死にかけている状態だった。
『そうかい。お前さん、本当にあの栗毛の透哉だったんだなぁ』
『……ウメ、信じてなかったな?』
『さすがの俺も、人間が猫になるなんて話、簡単に信じられねェさ』
道理であっさりすぎる反応だったわけだ。トウヤは、ため息をついて座り込む。
トウヤが辰巳に飼われて無事に今を過ごせているのは、この猫のおかげだ。トウヤは、野良猫生活初心者どころか猫として必要な社会性も、まったくわからないでいた。もちろん、そんな様子では野良生活ができるはずもない。
ぼろぼろになって怯える黒猫を、親分のようなウメが見つけてくれなければ、とっくにどこかで野垂れ死んでいただろう。礼儀知らずの上に挙動不審な、ぼろぼろの黒猫。よくそんなものを保護してくれた、また話を聞いて信じた上で飼い主を探してくれるなんて、器が大きい。そのときは、そう考えていた。
『まぁ、それもそうか。いきなりだったもんなぁ』
『おうとも。ちょいとどこかで頭を打ったやつかと思ったな』
見知らぬ黒猫が、ウメのよく知る人間の名前を騙る。それは、やはりその猫の正気を疑うだろう。
『……じゃあなんであいつのとこに』
『簡単な事さ。あのにーちゃん、随分とやつれてな。その上、やさぐれて危なっかしかったんだ。こりゃなにか仕事を与えてやらなきゃって思ってたところだったんだよ』
できた上司のような台詞に、思わず笑ってしまう。ウメが上司や教師だったら、たくさんの人に慕われていたことだろう。教え子に囲まれて酒を飲み、赤ら顔で笑う中年男性のイメージが明確に見える気がした。
『そっか。でも、助かったよ』
今の辰巳は、ウメが言っていたような危うさは感じ取れないほどに回復している。お気に入りの猫と一緒に暮らせることがストレスを和らげているのだろう。
猫と暮らす。そういえば、辰巳は実家に猫はいても一人暮らしをしている部屋には猫を置いていなかった。ペット禁止のアパートで暮らしていたわけでもない。そもそも、今住んでいる場所こそ、学生のころから借りている部屋だ。
そして、大家や他の住人とトウヤが顔を合わせても問題になったことはない。むしろ、彼らは好意的でトウヤに気付くと、なにかしらおやつを持ち出してきては与えようとするほどだ。
『なんで飼う気になったんだろう……』
思わず漏れた言葉に、ぶち猫が首を傾げる。トウヤは、経緯を話す。猫を飼う理由なんて人それぞれだ。偶然、猫を飼っていなかった。それだけだ、と思うものの、何か違う気がしてならない。
『ほう。まぁ、確かに言われてみれば、あれだけ猫好きのにーちゃんが、他の俺らと一緒に暮らしてなかったってのも不思議なもんだな』
『だろ。理由、聞いた気がするんだけどな……忘れたみたいだ』
思い出す記憶は、人間として彼の傍にいた頃。他愛もない話ばかりをしていた。目の前に座るぶち猫を見て過る影。
そういえば、彼を抱き上げたとき、思ったよりも筋肉質で固いなと思ったのだ。それを話せば、隣の辰巳は、嬉しそうに目を細めて笑いながら「ウメだからな」と言っていた。今思いだしたい記憶ではないが、思わず笑みが零れる。
唐突に笑われたことになる本人は、鋭い目つきがさらに眇められてどこかのヤクザ者のようだ。
『ま、とにかくだ。お前さんが今どうなってるかは分かったんだろ。どうするんだィ』
『どうするって……元に戻って』
はたと気付く。体があっただけで、元に戻る方法なんて知らないではないか。そもそも猫になった原因も、わかっていない。どうやって戻るというのだ。
『ウメ、人間に戻る方法、知ってる?』
ぶち猫の冷たい視線が黒い毛皮に突き刺さる。そいつを俺に聞いてどうするってんだい。予想通りの言葉を返されて、髭がしんなりしてしまう。
先ほども言っていたが、ウメはそもそもトウヤが透哉であることに懐疑的だったのだ。人間が猫になんて話を疑う相手が、知っているはずがない。
『……とはいえ、なにかきっかけがあるって考えてもいいかもしれねェぞ』
『きっかけ?』
『猫になったなんて、変な事でもしない限り考えらんねェだろ?』
そのときに何か特別なことをしたというなら、それをもう一度、逆に行えば希望通りになるかもしれない。確証はない。ただの推論だ。しかし、あてずっぽうで悩むよりは、ずっとマシだ。
頑張ろう、と気合をいれたときだった。トウヤ、と自身の名前を呼ぶ声が聞こえる。
はっとして周囲を見回せば、とっくに日は落ちて家の明かりが灯り始めていた。悩み過ぎたのか、ウメとの話に夢中になってしまったのか、どちらにせよ主が迎えに来る時間帯だ。
『ま、今日のところは帰るこった。なんとなくでも指針が持てたってことで成果だろうよ』
『あはは、そうだね。ありがとう、ほんとに助かるよ』
また明日、と尻尾を小さくふって、巨体のぶち猫と別れる。自宅への帰り道を歩いてくる見知った影を見とめ、彼の元へ走っていった。
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