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第3話
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浮遊感。いわし雲が泳ぐ空が一瞬だけ見えて、茶色い地面にとって変わる。
ぐんぐん迫って来るそれの少し向こう側、見慣れた顔が目を見開いて何か叫んでいた。何をそんなに慌ててるんだ。顔面蒼白。それも脂汗をかいて、普段なら絶対に見せない表情だ。
それでも、彼の端正な顔はちっとも近づいてこない。
あれだけ慌てているのは、なぜだろう。腕の中の温もりは、ちゃんと守っている。この子はきっと無事だ。自分だって多少は怪我をするけど、大丈夫さ。
ああ、でも。猫だったら、もう少し綺麗に着地できたかもな。
みゃあお。温もりが悲痛な声を上げた気がした。
◆
気付いたときには、床に転がっていた。見慣れた天井に、隣から聞こえてくる呼吸音。体を持ち上げると四ツ足の黒い毛皮に覆われた身体が見えた。ついでに床へ落ちかけた掛布団まで。
トウヤは、はたと思い出す。昨日は、辰巳のベッドで添い寝をしていたのだ。この状況を見る限り、寝相が悪くて落ちた、ということなのだろう。こんもりとしたベッドの上を見て、トウヤはそこへ跳びあがった。
半分ずれ落ちた掛布団を肩にひっかけて、主はぐっすり眠りこんでいた。スプリングが軋んでも反応は何もない。仕方ない、昨日は日付も変わる時間に帰宅していたのだ。幸いにも、彼の会社は本日休みである。
無理に起こす必要もないか。
そう考えて、時刻を確認する。十時過ぎ。お腹が空いていてもおかしくない。くるる、と弱々しく鳴いたお腹の虫に促され、トウヤは普段の食事場所を覗いてみた。どたばたしていたせいだろう、空っぽのそれが、空しく鎮座している。キャットフードの場所は、知っているが、猫の手では到底開けられない場所に仕舞ってあった。
『うーん、お腹すいたなァ』
にゃあん。悲壮感漂う声が漏れ出てしまう。こういうとき、猫というのは不便だ。そもそも、猫になりたいだなんて一言も口にしていないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
『そりゃあ、思ったことぐらいはあるけど』
そんな程度のこと、誰にだって経験があるはずだ。社会というのは、面倒な構造をしている。友人関係、家族関係、恋人関係。すべてが、絡まって影響し合って煩わしい。こんなもの、と投げ出してしまいたくなる。猫になれたら。なんて、なれもしないと分かり切っているからこそ、空想するのだ。
透哉も、そうだった。
猫だったなら。きっとあの子たちの秋波も牽制も気にならなくて、自由に彼の傍を行き来することができる。なんてすばらしい生き方だろう。と、隣の芝生は青く見えて猫に羨ましいとこぼした。当然わかっていない猫は、なあんと頭を摺り寄せてくるだけで、ばかげた考えだと自分で自分を嘲笑った。
『まさかな』
少し前に言われたきっかけという言葉を思い出して、首を横に振る。そんなことを考えていたから猫になった。なんて理由なら、世の中人間ではなく別の動物で溢れているのではないだろうか。
ふと、木の葉の擦れる音が聞こえてきた。そちらを見れば、いつのまにか起き上っていた辰巳が、丁度窓を開けたところだった。
「きもちいい風だな。トウヤ、腹減ったろ。何か用意してやるから、少し待っててくれ」
そう言った辰巳は、途中でトウヤを撫でてから、さっさと台所の奥へ行ってしまう。ありがとう。そう言っても、声は届かない。猫と人間は、使う言葉が違うのだ。
もし、そんなきっかけで猫になったというなら、今すぐに戻ってくれないだろうか。こうやって、猫になったことで、できないことが増えた。どうしようもない出来事に直面するたびに、人間の器用さを思い出している。
例えば、辰巳が起き上がれなかったとき。あのときは、甲斐田が偶然にも通りかかってくれたから、無事に過ごせた。人間の手さえあれば、そんな偶然に頼らなくて済むのに。
人間なら。
『女々しいな』
都合の良いことを言っている。こんな気持ちから逃れたい。だから、猫になりたい。猫になったらなったで、これでは何もできない。やっぱり元に戻してくれ、とは。黒猫は、溜息を吐いて、尻尾を左右にぶんぶんと振り回した。
ことん。目の前に、キャットフードが入った皿が置かれる。ちらと見えるパッケージは、猫専用フードのブランド名と新商品という文字が躍っていた。傍らで食事をする辰巳の手元を見る。ひとつ、数百円程度のカップ麺。他になにもないテーブルの上で、ときおりこちらの様子を窺っていた。
相変わらず、猫バカだ。そのときの彼の顔は、随分と緩んで楽しそうだった。
心配性の辰巳に連れてこられた場所にいたのは、雌のサバトラ猫だった。人間で言えば不惑に差し掛かっている頃合いだろうか、妙齢の熟女のような彼女は、子猫を引き連れてやってきた。
『あら、貴方なのね。あの兄さんのところで暮らしてる猫ってのは。何しに来たの?』
『何しにって、わかりませんよ。俺は、辰巳に連れてこられただけですから』
トウヤを知っている風な口ぶりのサバトラ猫は、錆助と呼ばれていた。
飼い主である老女が、さびちゃんと親しみを込めて呼んでいた。雌猫の名前にしては珍しいが、人間がペットにつける名前なんてそんなものだろう。あの巨大なぶち猫がいい例だ。
『ふうん……なんだかストレスがどうこうって聞こえてきたけど』
そう言われて、トウヤは目を背ける。
病院の一件があってから、トウヤは、しばらく外に出してもらえなかった。夜もそばにいないと落ち着かないようで、辰巳は、わざわざトウヤの寝床を自身の布団に引き寄せている。そこまで近くに長時間居座られれば、当然ストレスが溜まる。
気が付けば、辰巳に対してむしゃくしゃとして当たる回数が増えてきていたのだ。もしかしたら、それを和らげるためにこうして連れて来たのかもしれない。一匹だけよりも猫同士で戯れた方がずっとストレスにいいだろう。
『あらあら。それはまあ、確かに仕方ないわねぇ』
簡単な経緯を話すと、彼女は、くすくすと笑った。あたしも、あんまり撫でられるとひっかいちゃうもの。彼女の飼い主は、初老の女性だったと思うが、そのあたりは猫にとってはどうでもいいようだ。
『そうねぇ、そしたら、うちの子と遊んでちょうだいな。きっといい遊び相手になるわ』
『はぁ…』
それは、どちらかというと子猫たちにとってのいい遊び相手ではないだろうか。母親の後ろから覗きこむ、らんらんとした目が、六つ。興味津々に黒猫を観察していた。
子猫、か。それを見て、今朝見た夢が脳裏をよぎる。あの子猫は、随分と不細工だった。ただ、どうにもあの子を辰巳が気に入っていた気がしてならない。夢は、記憶を整理するためのものだ。となると、あれは過去の記憶なのだろうか。
夢に出てきた大きな木の場所を探ろうと思って、記憶の引き出しを開けまくっていると、ふいに激痛が走った。
情けない声をあげて跳びあがり、咄嗟に傍にあったソファへ乗る。そして、そのままの勢いで、箪笥の上にまで跳び乗った。
「なんだ、どうしたんだ。トウヤ?」
襖を隔てた先で話をしていた辰巳が、焦った様子で顔を出す。俺にもわかんねぇよ、と叫びたくなるのを我慢して、下を見れば、子猫たちが、みゃあみゃあとトウヤを呼んでいた。
『うえいっちゃやだよう』
『あそんであそんで』
『つれてってー』
思い思いに要求してくる三つの小さな口には、生え始めたばかりらしい鋭い牙が見えている。おそらく、あれで一発噛まれたのだろう。痛みを訴えてくる尻尾を舐めて誤魔化していると、状況を察したらしい錆助一家の飼い主が声を上げた。
「まあまあ、ちびちゃんたちが、遊びたがっているのね。わざわざうちに来てくださったのに、悪い事したわねぇ」
「いえ、子猫がいるのを知らなかった俺の落ち度ですよ」
なんとか痛みが和らいできて、聞こえてきた会話に耳を傾ける。どうやら、やはりストレス緩和目的でここに連れて来たようだ。そして、子猫が生まれているとは知らなかったらしい。
ふむ、なるほど。予定としては、落ちついたマダムである錆助と遊ばせてすっきりさせようというつもりだったのだろう。本来の猫同士の交友を知らないから、それが正しい飼い猫への対応なのか知らないけど。
「うちのトウヤ、どうも人間臭くて。あんまり他の猫と喧嘩しているところを見たことがなかったから、初対面でも大丈夫だろうと思って気分転換に連れて来たんですが、どうやら子供相手ではダメみたいですね」
「そうねぇ、もともと子猫と成猫の雄は相性悪いみたいだものねぇ」
仲良しもいるんだけども。と、付け加えて初老の女性は、子猫たちを呼び寄せる。おもちゃにつられた彼らは、新しい刺激の元へと旅立っていった。今は飼い主が相手をしているから大丈夫だろう。
そう考えてするすると降りていくと、途中で錆助と目が合った。
『子猫に優しいのね、貴方。名前も似てるし、あの子みたいだわ』
『似てる……って誰に?』
子猫の相手は辰巳も加わってヒートアップしている。そんな家族をよそに、錆助は、香箱座りでトウヤを出迎えた。
『あら、知らないかしら。あの兄さんと暮らしてるって聞いていたから、てっきり知ってるものかと』
『えっと、辰巳と関わりが深い人間って、ことかな……』
心臓が早鐘を打つ。符号が一致している。予感めいたものに後押しされて、トウヤは続きを促した。
『ええ。あの人と一緒によくいた、栗毛の子よ。いつも一緒にいて、うちの子ともたくさん遊んでくれたわ』
同じような恰好をしていたの。あと耳の辺りかしら、きらきらしている赤いものをつけていたのよ。猫には、名前なんて分からないだろうに、それでも錆助は、ある言葉を口にした。
『そうそう、トウヤという言葉を使っていたわね』
きっと、それがあの子の名前なのね。だって、それをあの人が言うたびになんだか嬉しそうに応えるのだもの。錆助の細められた目が、黒猫の向こう側の誰かを見透かしているように思えた。
『そういえば、なんで貴方はトウヤと呼んでいたあの子を知らないのかしら』
『さあ。俺は、会ったことも聞いたこともないですよ』
本人です。とは、口が裂けても言えない。ウメでさえ、頭のおかしい猫だと思って同情したのだ。猫としては初対面である彼女がそう思わないという確信はない。
『そう。それは、やっぱりあのとき怪我をしたからかしら』
怪我。なんのことだろう。錆助の眉を顰めた横顔を見て、トウヤは言葉の次を待った。
『うちの子がね、ああ、前にいた子たちなんだけど……高い木に登っちゃって降りられなくなったの。そのとき、あの兄さんと一緒にいた人間に助けられたのだけど、人間の方が落ちちゃって』
高い木に登って、子猫を助けて、人間が落ちた。今朝見た夢を思い出す。浮遊感。その前にあった出来事を。
◆
目の前の細い枝の上で蹲っているのは、不細工な子猫だった。生えそろった黒い毛並にかぎしっぽが小さな身体に巻きつけられている。
怯えて震える様は、憐れみを誘うもののどこか滑稽にも思えた。それでも、彼は辰巳の大事な子猫だ。
なんといっても、辰巳が一番かわいがっていた子だ。他の猫よりも随分と気に入っていて、誰かに引き取られてしまうのが惜しいとまで言っていた。
ここから落ちてしまえばいくら猫でも骨折、悪くて命をなくしてしまう。それに、先ほどから烏の羽音が聞こえている。子猫を狙っているのかもしれない。
「ほら、おいで。怖くないから」
子猫へゆっくり手を伸ばす。枝の根元からあまり身を乗り出さないように気を配りながら、黒猫の前へ。指先をふんふんと嗅ぐものの、子猫は決して動こうとしない。このままでは、烏の餌食だ。
幹に回していた腕を外して、子猫の脇へ両手を差し込む。甲高い悲鳴のような声。しかし、枝から手を離してくれなくてはどうしようもない。がりがりがり、と木肌が削れていく。持ち上げていけばいくほど子猫の力は強くなる。思わず体に力が入った。
一瞬。世界は反転する。
◆
その一瞬で見えた世界は、止まっていたようだった。そんな光景を、トウヤは夢で見たのかもしれない。まぎれもなく、起こった出来事として。過去の記憶として。
『どうかした? やっぱりあの子のこと知ってるの?』
錆助に声を掛けられてハッと我に返る。
『え、ええと。いや、分からない、です。あの、俺が辰巳のとこに来たのってこの前の夏、ひとつ前の蝉が鳴いてるころだから』
久住透哉が入院をしたのは、その前の春のことだ。季節が巡って夏になってから、猫として辰巳の家に住みつくことになったのだ。そう、と残念そうに錆助は目を伏せた。
『あれだけ毎日一緒にいたのに、今ではひとりぼっちなのね、あの人』
どんな理由かはわからないけど、それはとても寂しいでしょうね。そう言った彼女は、そっと目を伏せた。
夕方になるまで子猫たちの相手をして、にいちゃんと慕われるようになったトウヤは、辰巳に抱えられ帰路についていた。
今はひとりぼっちなのね。錆助が漏らした言葉が耳の奥に甦る。
彼女の言葉につられて浮かんだ、病室の光景。しっかり握りしめられた手と、思いつめた視線。黒猫を運び出すまで、何度も透哉を振り返っていた。そのときの横顔は、ひどく怯えているようだった。
なにがそんなに怖いのだろう。友人が目の前で落ちたから? 大事な幼馴染がそうなってしまったら、確かに不安だけど、あそこまで気に掛けるものだろうか。付き合いは長いものの、友という枠に対しての反応にしては、大袈裟な気がしてならない。
もしかして、という期待が頭をもたげた。ふるふると首を振って、その考えを追い出す。
「どうした、トウヤ」
落ちたのが春、猫として気付いたのが夏。そこからすでに一年が経っている。たった一年。
それにしては随分とやつれたようだ。改めて彼を見直せば、そこかしこに苦労の痕が見えた。これでも、ウメ曰く透哉が落ちた頃よりはマシだというのだから、当時は一体どれほどひどかったのか。
あまり眺めすぎたせいか、甘えられていると勘違いしたらしい辰巳にうりうりと撫でまわされた。視界がくわんくわんと揺れる。揺らされながら、トウヤは考える。
きっかけは、おそらくあの事故だろう。実際、あそこで落ちてから透哉の肉体は一切目覚めずに入院している。
どういう理屈かはさっぱりわからないものの、因果関係はおそらくそうだろう。実際、そのときまでうっすら考えていた願望は、今、全て叶ってしまった。ただ、それは随分歪んだ形で、彼の心を踏みにじった形で叶えられてしまったようだ。
「はい。藤堂辰巳です」
撫でまわしていた手が外されて、上から声が降ってきた。固くなった声は、誰を相手にしているのだろう。
機械の向こう側の言葉は、とぎれとぎれにしか聞こえてこない。それは、随分と焦っているようで、だんだんと語調が強く早くなっていった。合わせて辰巳の顔も強張っていく。
「はい、今すぐ向かいます。あと、網となにか長い棒のようなものか、脚立を用意してください」
電源ボタンを押して、通話を終了させると、トウヤを抱えたまま彼は方向転換する。携帯電話をしまうことすら惜しいらしく、彼は何も言わないまま、先ほどまでいた錆助の家へ向かっていた。
子猫というのは、どうにも好奇心が旺盛らしい。どうやってあそこまで登ったのかわからないが、随分と背の高い古木の天辺近くで心細そうに助けを求めていた。
その下では、母猫が心配そうにぐるぐる回っている。足腰が弱って来た彼女は、登ろうにもあんなところにまで登れないようだ。飼い主である初老の女性はいわずもがな。
物置から脚立を取り出してくることさえ、なかなかうまくいかず、辰巳が到着するときにはまだ物置から数メートルと離れていない場所で四苦八苦していた。
辰巳の邪魔にならない所に、とトウヤは彼の背中を伝って地面に降り立つ。辰巳の大きな声で気付いたのだろう、木の下でうろうろしていた錆助が、トウヤに向かって走ってきた。
『ねえ、あなた、まだ若いでしょ。あそこまで登れないかしら』
高く細い木の上、助けを待つ子猫はぷるぷる震えている。飼い主の助けを待てずに試みたのか、錆助の手足は、埃や土で汚れていた。よく見れば、あちこちに傷がある。四十代の女性といえば、いくら猫でも体力が落ちてくる。途中まで登って断念したのだろう。
『いいよ。錆助は、ちょっと遠いところにいた方がいい。君のところの同居人が何か準備しているから』
そう言えば、彼女は女性をちらと一瞥して少し離れた場所、縁側の近くへ移動した。網戸の向こう側には、子猫たちが二匹興味津々といった様子で張り付いている。慌てた飼い主に奥へ追いやられたのだろう。
改めて細い木を見上げる。上からは、たすけてという声が降ってくる。脚立を取り出した彼が、木肌に据え付ける様子を見て、トウヤは走り出した。
「あっ、おい」
辰巳の脇をすり抜け、伸ばされた脚立を駆け上る。人間用のそれは、猫にとっては随分空間の開いた階段だが、運動能力が落ちるほどではない。脚立の天辺まで登り切ったが、やはり足りない。
上を見れば、子猫がみゃおみゃおと泣いていた。
『うわあん、こわいよう。おかあさーん』
その声に反応して、下から錆助の『大丈夫だから、そこのお兄ちゃんに助けてもらいなさい』という叱咤が聞こえる。
交互に生えた枝の根元めがけて跳ぶ。嫌な音を立てるものの、体重の軽い猫程度なら支えられるだろう。しなりを利用して、更に上へ。子猫の顔の近くまで辿りついたとき、自身を支えるものは、細すぎる一本の枝だった。
不安定な足場だが、猫の俊敏さを恃みに子猫の首筋を捉える。四ツ足を踏ん張り、爪を立てて子猫を持ち上げようとするが、怖がりらしい彼は、ひいんと泣き声を上げて嫌がった。
『大丈夫だから、少し力を抜いて』
『う、うん』
再度、子猫を引っ張る。爪が木肌に引っ掛かったものの、なんとか手元まで引き寄せることができた。人間の時にはできなかった言葉という手段。猫になって感謝することのひとつだ。後は、下に戻るだけ。
猫の足なら、なんとかなる距離だ。さあ行かないと。
じっと下を見ながら慎重に足を運ぶ。四肢から力が抜けそうになるが、口にくわえた子猫を思い出し奮い立たせる。枝の根元、瘤、人間なら引っかけられないような窪み。爪と柔軟な筋肉、猫の体を最大限に有効活用して降りていく。
子猫のせいで視界が狭いが、半分ぐらいまで降りてこられたようだ。さすがに顎が麻痺してきており、トウヤの口から涎が垂れそうになる。このまま行けば疲れから落ちてしまうだろう。最悪、子猫だけを落としかねない。それだけは絶対に避けるべきだ。
トウヤは、左右を見渡して、手ごろな太さの枝を見つける。疲労を訴える体を叱咤し、少し遠いそれへ足を延ばした。
爪が割れたような音がした。予測を誤った。誰かの悲鳴が聞こえる。浮遊感に包まれながら、口にくわえた子猫をしっかり抱え込んだ。猫の手足では難しいが、きちんと着地すれば彼だけでもなんとか無事に帰すことができるだろう。
ばふっ。着地にしては妙な音を耳にして、トウヤは自然と閉じていた目を開けた。周りを取り囲む崩れたダイヤ。いや、紐だ。見たことのある景色に周囲を見回す。ついこの前も見たものだ。あのときは、医師の恐ろしい表情だったが、目の前にあるのは冷や汗をかいた辰巳の姿だった。
「……ッはぁ、ト、トウヤ。怪我は?」
にゃあん。みゃあん。二つの声が、彼の呼びかけに応える。と、同時にがくんっと網が揺れた。しかし、それも一瞬ですぐに元の体勢に戻る。慌てた彼の様子に、一度安堵で力が抜けた事を知る。
唐突だったせいか、ふぎゃあっと子猫が泣き出した。おかあさーん、半泣きの言葉は、猫同士にしか分からないだろう。しかし、辰巳は、子猫の様子に慌てて、しかし慎重に脚立を下りていった。
ようやく地面に四ツ足を着けることができた。子猫は、周囲の網が下におろされると同時に、母猫へ駆け寄る。錆助は、泣きわめく子供の全身を熱心に舐めはじめた。
みゃあみゃあ、と大きく鳴いていた声も、それとともに小さく収まっていく。今ではぐずっているものの、母のお腹の毛に吸収されてあまり聞こえなかった。
「なんてお礼をいえばいいか」
「いえ。お礼なら、トウヤに。あいつが真っ先に登って捕まえて来てくれなきゃ、手が届きませんでした」
うみゃっ。ふいに脇に手を入れられ、持ち上げられる。膨らんだ毛並を宥めるようにして撫でられ、辰巳の腕の中、トウヤは初老の女性と対面した。
「ふふ、驚かせてごめんなさいね。あの子を助けてくれてありがとうって言いたかったの。そういえば貴方、あの学生さんと同じ名前なのね」
同じ名前の子に、二度も助けられるなんてね。感謝の言葉とともに老女の皺だらけの手が、トウヤを優しく撫でた。その撫で方は、とても心地よく、錆助一家が彼女の家で楽しそうに過ごす理由が分かった気がした。
◆
「透哉、ちょっとこっち来いよ」
「わかった、わかった! だから、ちょっと待てって」
お前みたいに長い脚じゃないんだっての。口の中でぼやいて、茂みの奥へ入っていってしまった友人を追いかける。緑の茂る大きな公園。その奥の方に、ちょっとした広場があった。奥まった場所にあるせいか、小道が植物のせいでわかりづらいのか、人は滅多に入ってこない。少し薄暗いそこに、辰巳は座っていた。その背中は、とても楽しそうでこちらを見ようともしない。つい苛立ち、行儀が悪いとわかっていたものの足で背中を蹴る。大した力は入れてないが、体勢を崩すには十分だ。
「って。透哉ァ、乱暴だな」
「しょうがないだろ、もう暑くなってきたってのに。わざわざ公園に連れて来るんだからさ」
空調の効いた図書館やゲームセンターに行きたいものだ。透哉は、溜息をついて「で、何してるんだよ」と尋ねながら辰巳の方へ屈みこんだ。
手の中にいたのは、小さな子猫。真黒の毛並をしているが、随分とへちゃむくれた顔をしている。びろーんと伸びたお腹も真黒だったが、手足の先だけが靴下をはいたように白い。みゃっ。上から下まで不躾なまでに眺めたことに対しての挨拶か牽制か。子猫は短く鳴くと、抱えている辰巳の手に蹴りを入れ始めた。
「なんか不細工だな、そいつ」
無言の主張に、友人の手が離れると同時に、子猫はてててと歩いていった。その先には、茂みの中から顔を出した親猫らしきサバトラがいる。子猫とあまり似ていないが、母親なのだろう。駆け寄ってきた子猫についた嫌な臭いを消したいのか、子猫が揺れる勢いで毛づくろいを始めた。
「かわいいだろ?」
「辰巳、お前、俺の言葉聞いてた?」
「聞いてたって。ああいう感じだから、あんまり貰い手なくってさ」
そこまで聞いて、なるほどと一人納得する。彼は、野良猫を保護する活動に度々参加している。その活動の中には、猫を捕まえて避妊・去勢手術を施したり、生まれてしまった子猫を里子に出したりするといったことも含まれていた。
「俺さ、あんまりアテないんだけど」
「話が早くて助かるよ、さすが透哉」
聞けば、すでに他の子猫や親猫は、それぞれ引き取り手が見つかっているとのこと。あの子猫だけが、取り残されそうになっていたというわけだ。不細工、黒猫、態度も可愛くない子猫。これだけ悪条件がそろい踏みともなると、なかなかいいと言う人は少ないだろう。
「……そういえば、お前ン家、ペットオッケーじゃなかったっけ」
「実家なら、さすがにもう無理って泣かれたぞ」
「いや、だから。今住んでるアパートだよ」
彼の実家では、五匹の成猫が暮らしている。それ以上を望む人間は、よほどの金持ちか一人暮らしの酔狂ぐらいなものだ。透哉からすれば、十分である。しかし、この友人、学生となって引っ越したアパートは、ペットオッケーの物件だった。いつか、絶対に猫を飼うつもりだろうと誰もが噂している。また、本人も借りるときに零していたから、あながち嘘でもない。
「気に入ってるんだったら、引き取ればいいじゃないか。さっきの話だと、近場だろ? 他の兄妹の引き取り手のところって」
「うーん、それがさぁ」
「なんだよ、飼えない理由でもあんの?」
子猫の消えていった先を見ながら、友人は言い淀む。目線が行ったり来たりを繰り返して、頬に赤みが差していく。
こほん、とひとつ咳払いをして、辰巳の視線が透哉に定められた。正面から見える彼は、どこか緊張しているようにも楽しんでいるようにも思われた。
「大きい猫がいるから、……もういいんだ」
その一言ともに気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
猫。それは、辰巳が好きな動物の呼称であり、そして透哉をからかうときの呼び方だった。猫とは程遠い性格をした世話好きで甘え下手の幼馴染。そんな男を捕まえて、彼は大きい猫という。それも、とびきりの笑顔を携えて言うのだ。
「……な」
女を袖にしてまで猫至上主義のような猫バカのくせに。その猫よりも優先されてしまって、透哉は不謹慎にも嬉しくなった。打ち明けたくなってしまった。彼に、親友としてそばにいたはずの藤堂辰巳に。
彼のことが好きだ、と。
◆
ぴく、と黒猫の耳が動いて、金色に輝く瞳が、ゆっくりと開かれた。
左右に動いて、特に異常がないことを確認すると、ぐぐっと伸びをする。窓の方を見て、トウヤは目を丸くした。綺麗な満月。カーテンを閉め忘れて寝入ってしまったらしく、窓の向こう側、夜空にぽっかりとまんまるのお月様が浮んでいた。
うっすらと照らされた室内は、普段と変わらないはずなのにどことなく幻想的だ。おもいがけない肉体労働をしたせいだろう、ぐっすり眠りこけた主の顔がベッドに埋もれている。あの日から、一年と少しが経ってしまった。幾分成長した目元は、毎日の仕事が理由だろうか隈ができている。
『俺さ、あのとき、あんまり吃驚したから茶化しちゃったんだよなぁ』
尻尾がゆうらりゆらり揺れている。
『あの後、ちゃんと考えたんだよ。で、ひとまず、お前の言葉に隠されたところ、教えて貰おうって思ってたのに』
偶然か必然か、何かの行事に追われてなのか、なぜかゆっくりと話す機会が来なかった。何か話そうとしたところで、辰巳は他の誰かに声を掛けられる。そうやってなあなあで過ごしていくうちに、進路表の結果が噂されるようになった。
『俺、吃驚したぞ。辰巳が就職だなんて』
まだ高校生。大学へ行く人間が多い中、彼は割り切って就職の道を選んでいたらしい。それも、就職先までもう目星をつけていて、面接や試験などの準備も始めていた。
『俺、丁度そのとき、子猫の引き取り手見つけて。チャンスだと思って呼び出したんだ』
忙しくても、猫の話題なら断ろうとしない。それが辰巳なのだから。しかし、話そうとしたその日、事故が起きてしまった。木から落ちた。ただ、それだけだったはずが、いつの間にか一年が経ってしまっている。その間、猫になって彼の傍にいただなんて、おかしな話もあったものだ。
『後回しになんてするんじゃなかった。なんて、今更だけど』
あのときにでも、真意を問いただして、真剣に取り合って、返事をしていれば。こんなことにはならなかったかもしれない。
『今度は、絶対に後回しになんてしないからさ。俺の話も聞いてくれよ』
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