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第4話

4  目を開けて、まず先に認識したのは、真っ白な天井だった。辰巳の部屋にしては、やけに明るい気がして、トウヤは立とうと力を入れる。しかし、持ち上がらない。疑問に思って、周囲を見回した。  白いシーツに、鋼色のパイプ、灰色の機械がいくつも並び、何かのコードが伸びていた。そして、透明の袋に書かれた名前を見てようやく理解する。 「――――…」  つい溢れた言葉は、ほとんど肉声にならず零れ落ちた。がたん、と近くで物音がする。あまり動けない体で、透哉が視線を動かすと、スーツに身を包んだ辰巳が立っていた。 「とう、や……お、前……」  大きく見開いた目、短くなった髪、以前よりも伸びた背。猫のときに見慣れたスーツ姿の癖に、なぜか新しく思えた。それが、なんだかおかしくて、透哉は目を細めて喉の奥で笑った。  一年ぶりに腹筋を使ったせいだろう、ほんの少し笑っただけなのに腹部が痛む。しかし、腹の底から溢れてくるそれが止まる気配は、なかった。ふ、と影が落ちる。涙で潤んだ視界いっぱいに、友人の顔が映る。 「透哉、だよな」  言葉で伝えようとして、音が掠れることを思い出す。仕方なく辰巳に向かって頷いてみせた。その瞬間、彼の目から、ぼろぼろと透明の滴が流れ落ちる。それは、次から次へと溢れて次第に大きな嗚咽へと変わっていった。  ごめん、ただいま。声にならない言葉で、幼子のように泣く彼に呼びかける。あまり動かない手に力をいれ、なんとか彼の手に掌を乗せた。潤んだ目が、透哉に向いた。 「よかった……本当によかった」  涙ばかりが溢れて前も見えないだろうに、辰巳は、透哉の目に溢れたものを、そっと拭ってくれた。  肉体が回復するまで一週間がかかった。とはいっても、完全に回復したわけではない。声帯と立つのに問題がない程度。歩こうとすれば、すぐ転んでしまうような状態だ。  それでも、医師は「奇跡だ」と透哉の経過について何度か聞き直していた。本来なら、もっと時間がかかるものであり、そうそう簡単にはいかないからだという。 「お医者さん、驚いてたよ」 「あー、なんか調べたらさ、一か月寝たきりでも90パーセントの筋肉が衰えるとかなんとか」 「ネットだろ、その情報」 「当たり。まあ、信用ならんとはいえ、こんなんかもーって思っとけよ」  甲斐田は、そう言って手にしていた食べ物を口に運んだ。彼の手元には、彼自身が持ってきたコンビニ限定ロールケーキがある。胃が荒れているから、となかなか好きな食べ物を口に出来ないでいる透哉の前で、いい度胸だ。  付属の小さなスプーンでちまちまと掬っては食べてにやにやするのだから、性質が悪い。 「ま、なにはともあれ、治ってよかったな」 「体はとっくに治ってたって」 「あー、でもさ、目覚めなかったんだから、治ってないのと一緒じゃないか」  実は、透哉が一年間目覚めなかった理由は、はっきりしていない。木から落ちたときの傷や怪我は、数か月もたてば跡形もなく消えた。しかし、ただ目が覚めなかったのだという。  どれだけ検査をしても異常は見つからない。いつ目覚めても問題ないというのに、昏々と眠り続けた。  医師に言わせれば、空白の一年だ。ただ、透哉にとっては、ほぼ一瞬の出来事。昏倒したのが、つい最近のように思えて、成長した友人たちに違和感が混じる。しかし、なぜか辰巳のスーツ姿は懐かしいと感じた。初めて見たはずだというのに。 「そういえば、俺さ、なんか変な寝言とか言ってなかった?」 「なんだよ、それ」 「……いや、覚えがないなら、忘れてくれ」  透哉は、点滴につながれた腕を見ながらぼんやり考える。入院している間、長い夢を見ていた気がする。  目覚めた直後には、はっきり覚えていた、幸せでのんびりした夢。もう詳しい事は分からない。  一週間も経てば、全く思い出せなくなっていた。ただ、通りすがりの猫を見て、親近感を覚える程度。 「お祝いしなきゃなァ」  何か通知が来たのか、端末を片手に甲斐田が呟いた。彼の携帯電話も、以前と違う機種になっている。操作が違うのだが、なんとなくSNSを使っているような気がした。 「誰か、誕生日?」  そう言うと、甲斐田は目を見開いて停止する。そして、呆れた笑みを浮かべて、「そうじゃないんだけどなァ」と呟いた。何のことやら。思案するうちに、友人が席を立つ。手には、食べ終わったロールケーキの袋。 「俺、これ捨ててくるから」  いや、ここにゴミ箱あるぞ。透哉の言葉よりも早く、見慣れた背中は、扉の先へ消えてしまった。何を考えているか、相変わらずわかりづらい。猫にまで普段通りに話しかける甲斐田らしい、といえばいいか。  なんとはなしに扉を見ていたところで、入ってきた辰巳と目が合った。壁にかけられた時計を見る。彼の仕事が終わってから三十分と経っていない。いつも通り、彼が見舞いにやってくる時間だった。 「もう、起き上がってもいいのか、透哉」 「うん。問題ないよ、ほら、はっきり発音もできるだろ?」 「前は、もっとひどかったもんなァ。赤ちゃん言葉みたいで」  先日の出来事が脳裏に浮かんで、思わず目を背ける。黒歴史もいいところだ。ベッドの傍にある椅子に座る物音がして、機嫌直せ、と後頭部を軽く叩かれる。 「で、だ。今日は改まって何の話なんだ?」  眉間の皺を伸ばしながら振り向くと、思ったよりも近い場所に顔があった。飛び退りそうになって、体が上手く動かずに体勢を崩しかける。  無言で差し出された辰巳の手を頼りに、どうにか元に戻す。そうして、サイドテーブルに放ってある携帯電話を使って、メールを出していたことを思い出した。  ほう、と一つ大きく深呼吸をする。 「お前さ、一年前、俺にこう言ったよな。大きい猫がいるから、もういいんだって」  言葉を続けるうちに、辰巳の視線が泳ぎだす。頬に赤みが差している。自分が言った台詞は、しっかり覚えていたらしい。 「あのときは、何言ってんだって返したけどさ。あれ、ほんとの意味、聞いてもいいか?」  彷徨っていた視線が、透哉の顔の上で止まる。はあ、と大きな溜息をして、辰巳は、泣きそうに笑い透哉の手を取った。 「ほんとは、俺から言いだしたかったんだけど。まあ、いいや。後回しには、したくないからな」  辰巳の目に映るのは、痩せた透哉の姿。一年も寝たきりの生活を送って、すっかり衰えてしまった。その中には、後悔が渦巻いている。そんな風に感じたのは、きっと透哉も同じ考えを持っているからだろう。 「透哉がいるから。猫がいなくても、透哉がいればそれで十分だから」  猫の相手をするより、猫と一緒に暮らすより、猫を追いかけるより、透哉と一緒にいることを優先したかった。猫と暮らしても、きっと透哉は文句を言わないだろうけれど。少し視線を逸らして、辰巳の言葉は続く。耳まで赤くなった彼は、一度目を瞑り、意を決して透哉と視線を合わせた。 「俺、透哉のことが好きなんだ」  顔が熱い。半ば予想できていたことなのに。辰巳の真剣な表情が、透哉をまっすぐ見つめる目が、この言葉の意味を正しく伝えてくる。 「透哉以外、いなくても構わないぐらい。本当は、重いだろうから、言わないでおこうって思ったけどさ」  後回しにしたらどうなるかわからないから。透哉が考えたことと同じ台詞を言う辰巳。後悔していたのは、きっと二人一緒だった。だから。  むんずと彼のシャツを掴んで、引き寄せた。  うみゃあん。病室の一室を眺めていた白黒のぶち猫は、普段通りの濁声で呼びかけた。  中にいる人間は、一切こちらに気付かない。それでも、ぶち猫は、満足そうに髭を震わせ、目を細めると、巨体に見合わないしなやかな動きで、枝を伝って降りていった。  そして、一切振り返ることなく、去っていった。

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