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第1話

 一七△△年、アルスマン帝国に二十歳の皇帝が誕生した。建国から四百年、東洋と西洋を結び、中東を統治してきた大帝国の新皇帝エフタンは、英明なアルファ性の美男だ。エフタンの父と祖父が二代にわたって大きく領土を失い、弱体化していた帝国にとって、精鋭の性であるアルファの新皇帝は希望の光である。同時に、その若さゆえ信任は厚くなかった。  即位してわずか数か月後、同盟国である隣国オラハドが、弱体化以前帝国の一部だったガラチから侵攻を受けた。オラハドには、エフタンが想いを寄せるオメガの王子がいる。番として結ばれるべき運命のオメガだ。想いびととオラハドを救うため、エフタンはガラチ攻略を決意した。  一度帝国から独立したガラチを再び支配できれば、新皇帝の求心力は一気に高まる。しかし、失敗すれば、退位までの長い年月を批判に晒されて過ごすことになり、帝国はさらに弱体化する。ガラチ攻略は、帝国の威信と、エフタンの名誉と命を懸けた戦いだった。  この必勝の戦で軍師として一躍名を上げたのが、ハイリ・カディルだ。皇帝エフタンの幼なじみの、同じ二十歳の若者だった。ハイリは銃火器が主流になった時代にあえて弓矢を用いる作戦を立て、見事なまでの戦果を上げた。  すべては、親友であり主であるエフタンのため。ハイリの作戦によって敵軍は大損害を受け、必死の抵抗を受けた帝国軍もまた、多くの犠牲を払った。  辛くも勝利を収めたが、戦場には多数の負傷者が倒れ、蹲り、あちこちで火の手が上がっていた。エフタンに忠義を誓い、友情に報いるために考えた作戦が生んだ犠牲は凄まじく、己の非情さに血の気が引いた。  呵責に耐えきれず震えていたハイリは、助けを求めるようにエフタンを視界の中に探し、驚愕した。惨状の中心で、はるか遠いオラハドの王都の方角を迷わず見つめたエフタンは、恍惚とした表情で、結ばれるべきオメガの名を呼んでいた。  アルスマン帝国の都エスタンベルは、西洋と東洋の交易を結ぶ忙しなくも色鮮やかな都市だ。世界中から人と物が集まる都が賑やかでない日はない。三十歳にしてパシャ――皇帝が最も信頼を置く最高位の重臣――の称号を得ているハイリ・カディルは、多様な文化が入り乱れるこの都を視察して回るのが好きだった。 「この十年でオラハドの民が増えましたね」  護衛を兼ねて帯同している部下が言うのに、ハイリは苦笑を浮かべるほかなかった。 「皇后陛下の出身国だからな」  この世には男女に加えて三種の第二の性が存在する。アルファ、ベータ、オメガ。アルファとオメガは稀少で、アルファ性は精鋭の性として知られ、歴史的にも王や宰相として名を残す者に多いとされる。オメガ性は反対に、その特徴ゆえに劣等性と卑しまれることがほとんどだ。残るベータ性は特徴がなく、第二の性について気兼ねせず生活できる。  第二の性の特筆すべき点は、オメガの発情と、男性オメガの妊娠だ。オメガの発情はアルファを挑発し、発情中の性交渉によってアルファとオメガは番と呼ばれる本能的な対になり得る。また、オメガの男性には、番のアルファの子を宿すことができるという驚異的な特徴がある。  アルファ性の現皇帝エフタンは、侍女、女中を含め五百人の女性が集まるハレムを先代から受け継ぎながらも、隣国オラハドのオメガ性の王子を皇后に迎えた。オメガ性の、しかも男性が皇后になることに反発は少なくなかった。波紋を呼んだ婚姻が成立した裏には十年前に起こったガラチ攻略戦争があり、その戦いを勝利に導いたハイリはパシャの称号を得た。  眉目秀麗と評判のハイリに、通りがかった女性たちがちらちらと視線を向ける。香色の髪を覆う毛皮のついた帽子が見るからに高価であるのもその理由だろう。しかしハイリが琥珀色の瞳を彼女らに向けることはない。帽子が高価なのは自分の立場に見合ったものを身に着けているにすぎないし、異性にも関心がない。気づかないふりを貫いて、冬の来訪を前に活気づいた市場を歩いていると、屋台の店番が声を荒らげているのが聞こえた。 「この泥棒め! 盗んだ物を返せ」  見ると、スパイス屋台の店番が旅人らしき男に詰め寄っている。  泥棒の嫌疑をかけられている男は背が高く、随分と鍛えられた体躯をしているのが遠目にもわかった。近づいていくと、高い鼻梁と深い目元が凜々しく、整った顔立ちだったことに驚かされたが、せっかくの資質を小汚い風体が台無しにしていた。無精髭を生やし、肩まで伸びた焦げ茶色の髪をざっくり後ろに流して衣服を少々着崩したその男は、泥棒呼ばわりされているのにびくともしない。 「俺は何も盗んでいない」  弓と矢筒、背嚢を背負った男は、盗んでいないと悠長に受け答えしている。店番が納得するまで対応しようとしている男の態度と、だらしない風体の差に興味が湧いたのと同時に、男の素性に見当がついてしまって放置できなくなった。 「この男は盗人ではない」 「なぜわかる――」  勢いよくこっちを向いた店番の男は、ハイリを見ると押し黙った。毛皮があしらわれた絹のカフタンは明らかに上等な品で、重臣や大商人にしか手が出せないものだからだ。 「そもそも何を盗まれたというのだ」  ハイリの淀みない声に、店番の腰が退ける。  通りがかった者を盗人呼ばわりして、焦った人々からその場で賠償をさせる詐欺はときどき報告されている。このスパイス屋台を見る限り、まっとうな商売をしているようだが、だからといって無関係の旅人に嫌疑をかけていいわけではない。訊けば、店番は「ナツメヤシの実を袋ごと」と答えた。

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