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第1話
一瞬、聴覚器官がおかしくなったのかと思った。
「は…? いま、なんて言った?」
「ええ、だから僕、お見合いするって言ったんです」
「……………」
まるで明日の天気の話でもするかのように、奴は何の不自然さもない笑顔で言い放った。
「スムーズに行くかなぁ。あ、結婚式には来て下さいね、蓮見 先輩」
* * *
俺は昔から何かに執着するということがほとんどなく、子どもの頃には母親に「投資のしがいがない子ねぇ」などとよく呆れられていた。
執着心がない対象は人だったり物事だったりと様々で、来るものは気分次第で拒み、去るものは追わずといったスタイルを、もうかれこれ二十年近くも続けている。
こんな生き方は、当然自分の視野を狭めていく。結局のところ損をしているのは自分なのだということは、頭では分かっている。
でも、俺はそれでいいのだと思っていた。
小学生の頃、歳の離れた兄が自分で命を断ち切ろうとして以来、俺はますますその傾向が強くなったのではないかと思う。
彼は自分の首に縄をかける二日前、恋人を事故で亡くしたのだ。
一命を取り留めた兄は、病院のベッドの上でなおも恋人の名をぶつぶつと呟き、時折狂ったように奇声を上げていた。もしかしたら、あの時もう彼には幻覚しか見えていなかったのかも知れない。
唇の端からよだれが滴り落ちるのもかまわず絶叫し、ただ一人のためだけに狂気の殻に閉じこもってしまった兄は、醜かった。以前の知的で穏やかに微笑む面影はどこにも残っていなかった。
俺は絶対にこうはならない。
この先、人を好きになったりなどするものか。
真っ白な病室の前で恐怖に立ち竦みながら、幼心にそう誓ったものだ。
まぁ、だからといって何もかもを拒絶してきたわけでもなく、どちらかといえば人間関係に深入りすることなく適当に遊びまわっていた人生だった、といったほうが正しいような気もする。
ただ、あえて自分からは何も求めようとしなかっただけで。
大学時代のスノーボードサークルだって、友人に誘われなかったら入らなかっただろうし、一年下の後輩、日野圭吾 と出会うこともなかったはずだ。
今どきのチャラついた若者のように、ボードをやり始めるのも女が目当てなのだろうと最初は思っていた。
今考えたら、男までもが一瞬目をひきつけられるような美貌と、大会社の御曹司という肩書きを持っているのだから、サークルなんぞに入らなくても女が群がる要素は十分に具えていたと思うのだが。
果たして、奴の目的は女ではなく、ましてや純粋にボードでもなく、なんと俺だったのだそうな。
そのころの俺は、自分にしては珍しいことにボードというものに少々興味を持っていたし ――― いや、正直に言おう。ハマっていた。
だから、後輩とのいざこざでサークルを脱退するなんて勿体ないことはしたくなかったし、あんまり奴が情けない顔をして俺のことが好きだと連呼するので、結局いつものごとく「まぁいいか」と適当な気持ちで抱かれてやったのだ。
もともと男同士に対しての偏見はなかったように思う。セックスなんて気持ちよけりゃ男も女も大差ない。
どちらにしろ、俺は誰とも恋愛なんてするつもりはないのだから。
ちなみに兄は俺が大学三年の冬に、十数回の未遂にもめげず、とうとう自らの望みを達成した。
すなわち、恋人のもとへと逝くこと。
棺桶に入った真っ白な顔がやけに満足そうだと感じたのは、俺だけではなかったらしい。心労のせいで二倍も三倍も老けて見える父親なんぞは、ぽつんと呟いていた。
「こいつは、これでやっと幸せになれたのかも知れんな」――― と。
そして、何故かそのとき俺の傍にずっと寄り添っていたのは日野だった。
何を勘違いしていたのか、奴は兄の死によって俺がボロボロの精神状態になっていたと思い込んでいたらしい。
俺より一回りも大きい腕の中で、よく奴が言うところの『慰めのキス』やら、それ以上のことやらをされていた。
俺も振り払うのが面倒くさくて、好きにさせていたのが悪かったのかも知れない。
とにかく、人の周りを始終ついて離れない。何かあれば「蓮見先輩、蓮見先輩」とまとわりついてくるので、さすがに大学を卒業するときはホッとしていた。根は悪い奴ではない分だけ、邪険に扱うのがためらわれるのだ。
しかし、ずるずるとした関係は、何故か学び舎を巣立って四年経過した今でも続いている。
理由は、ひとえに日野の強引さにある………と思う。
この平々凡々とした無気力男のどこが気に入ったのか分からないが、多分それは本気で惚れているわけではなく、いわば反応の薄い珍獣を愛でる感覚なのだろう。
俺は忠告したのだから。どんな人間にでも、あまり深入りすると最後には泣きをみるって。
だが日野はそんな俺を笑い飛ばし、「先輩こそ僕に夢中なくせに」とか言ってくる。
いわゆる自信過剰ってやつだ。もしかしたら本物の阿呆なのかも知れない。
「お仕事お疲れ様でした、蓮見先輩」
でも実際に日野に与えられる快楽を突き飛ばせないのも事実で、結局スキー場まで迎えに来る奴の車に乗り込んでしまう羽目になる。
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