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面影
「科ごとにブロックでわかれてるのはどこの病院も同じだな」
ロビーで案内図を見ながら、二人は院内を彷徨った。
「たくさんの診察室がありますね」
「だね。大学病院に負けてないな」
受診を待つような素振りで一階を隈なく見て回ると、「二階に行ってみよっか」と、那生はエスカレーターを指差した。
四聖病院内は、二階までが外来や検査室が設置されエスカレーターで移動できるシステムになっている。二人は二階に降り立ち、一階より人口密度が減ったフロアを、案内板を確認してから進んだ。
「一階より科が少ないですね。検査室と手術室、ICUがメインって感じですねここは」
壁に表示してあるブロック表示を見ながら周が呟くと、那生はエレベーター横に掲示してある、全館の配置図を確認した。
「三階からは病室と……七階が総務課、図書室と医局か。で、八階に院長室や研修室と。そうだ、病室のフロアにも行ってみようか。階段で一階ずつ見て回ると、あんまり目立たないと思うんだ」
「え、病室にまで行っていいんですか」
声量を抑えた声で周が一驚していると、院内の風景に慣れている那生は、平気だろ、と重量感のある階段扉を開けた。
人気の無い階段を上ると、二人は三階へと到着し、静かに扉を開けた。
廊下や病室には、電子カルテを伴った看護師達が点在し、エレベーターホールを基準に、ぐるっと一周するよう設置された病室がある。
どの部屋も、自然採光が行き渡る明るい病室だった。
「他の階も一緒ですかね」
階段扉を開け、上階へ足を運びながら、
「多分ね。じゃ次は一気に七階まで行こうか」
「え、七階まで階段……ですか」
あからさまにげんなりする周に、「若いんだから平気だろ」と、言うと那生は軽快な足取りで階段を上った。
チラリと振り返ると、周が足枷がついているかのように、大腿部を交互に引き上げている。
「着いた、七階だ」
この先にあるのは、総務課や医局だ。もし見つかっても、患者のフリはできない。
「キツいですね、七階までにもなると」
額に汗を光らせながら、周がTシャツの胸元をパタパタとさせ、空気を入れ込んでいる。
「さすがにこの階と、次のフロアには踏み込めないな」
「総務課と院長室ですもんね、関係者しか用事はないでしょうから」
「MRのフリでもすればすんなり入れたのかな……。いや、だめか。名刺がないもんな」
ぶつぶつ言ってフロアに入るのを躊躇っていると、「ダメですよ」と、周に叱責された。
「那生さん、嘘はダメです。それなら堂々と、宝生大病院の医者ですって言った方がよかったじゃないですか。それに製薬会社の営業なんだから、スーツじゃなきゃおかしいでしょ」
もっともな意見を言われ、さすが薬学部と納得してしまった。
「でも、ちょっとだけ……」
那生は扉をグッと押すと、隙間を作って中を覗き見た。
「ちょ、ちょっと那生さんヤバイですよ、見つかっちゃいます」
パーカーのフードを引っ張られ、那生は観念してそっと扉を閉めた。
「もう、ドキドキさせないで下さいよ」
「ごめん、ごめん。じゃ最後に八階行ってから受付を訪ねてみよっか」
「え、まだ行くんですか! 八階はもっとヤバイですって」
周の言葉が聞こえていないフリするかのよう、那生は軽やかな足取りで八階へ上がって行った。
フロアへの扉に手をかけた那生は、レバーを慎重に下ろしてみる。だが、扉は開かなかった。
「ここ鍵がかかってる」
「ほら、入っちゃダメってことなんですよ。那生さん、行きますよ」
大きな体のわりに小心者の周に背中を押され、那生は階下へと足を向けた。
日頃から病院に滞在する那生にとって、院内の雰囲気にはあまり動じない。医局であろうが事務室であろうが、那生にとって侵入と言うよりは、入室すると言う感覚だった。
無鉄砲な行動を周に咎められ、六階の階段を降り切った時、上の階で扉の開く音が聞こえた。
「那生さん、今、扉が開く音がしませんでしたか」
周の言葉と同時に那生も足を止め、手摺りに身体を預けて上を見上げてみる。
「七階……いや八階からかな、聞こえたの」
周も那生の横に並び、同じ様に上を見上げた。
「な、那生さん! 誰か降りて来ますよ。早く下へ行きましょう」
周がいち早く察知した足音は、どうやら下へ向かっているようだった。迫る靴音に焦る周は那生の腕を掴み、階段を慌てて駆け降りようとした。
「なあ、周君。周君ってば、病院の人なら伊織君のことを聞けるかもだよ」
「いやいや、それ以前に怒られますって」
グイグイと周に腕を引っ張られながら、那生は上階に目を向けた。
自分達と上にいる人間との距離が少しずつ縮まる気配がし、男性らしい体の一部が垣間見えた。
「周君、ちょっと上見てみて」
小声で周に伝えると、怪訝な顔が振り返る。周のその顔は、早くこの場所から脱出したいと叫んでいた。それでも気になったのか、周が手摺りを持って、上半身を外に乗り出す形で上を見上げている。同じように那生も、もう一度身を乗り出そうとした時、周が瞠目しているのが目に入った。
周の凝視する視線の先を辿ると、上から迫る人物の靴先が見え、今度は那生が周の腕を取ると、静かに扉を開けて五階のフロアに身を潜めた。
「那生さん! いきなりどう──むぐぅ」
周の口を慌てて塞ぐと、那生は人差し指を唇に当て「静かに」と囁いた。
周が大人しくしているのを確認すると、那生は五階のフロア側から扉に耳を当て、階段を降りてくる靴音を聞いていた。
暫く待ったあと、ゆっくり扉を押し開けて隙間から階段側を覗いてみた。気になったのか周も、那生の頭に被せるように覗き込んでくる。
僅かに作った視界には、五階の扉を通り過ぎ、階下へ降りる一人の男性の横顔から背中を向ける瞬間が目に入った。
はめ殺しの窓から差し込む午後の日差しが男性の髪を朱色に染め、細い後ろ姿に太陽の欠片が降り注いでいる。
「危なかった、見つかんなくてよかったな周君。さっきの人の顔って見えた? 俺は全く見えな──」
「……えた」
「なんて言った? おい、周君、どうした。ボーッとして」
心ここに在らずな横顔の周が瞬きもせず、床に目を向けたまま一点だけを凝視している。
「周君?」
呆然とする意識を向けようと、那生は周の肩を揺さぶった。
「ほくろ……」
「え? もう一度言ってくれ」
「那生さん。俺、み、見えたんだ! 口元のほくろ!」
那生の両肩を掴み、周は必死な形相で飛びかかった。
「うわ、何、びっくりするだろ。ゆっくり言え、ちゃんと聞くから。ほら、こっち行くぞ」
那生は階段扉の前から離れると、何食わぬ顔でエレベーターを待つフリをしながら続きを催促した。
「あ、はい。いえ。あの、さっきの人……」
動揺している周に落ち着くよう言うと、再び一階へと戻った。
興奮気味の周を正面玄関前の側にあるバス停のベンチに座らせると、落ち着かせようと背中をそっと撫で上げた。
「周君、もう一度落ち着いて話して」
冷静を装って那生は問いただした。
「ほ、ほくろですよ那生さん。さっきの人、口元にほくろがあったんです。伊織にも同じ場所にあるんですよ、ほくろがっ!」
興奮している周を極力刺激しないよう、「ほくろなんてよくあるよ、ほら俺にも」と、那生は自身の左目尻を指差した。
「あ、ほんと。涙ぼくろですね──って那生さん!」
「ごめん、ごめん」
謝りながら那生は、誤魔化すように買ったばかりのペットボトルの水を差し出した。
「でも、あれはきっと伊織です!」
「いや、でも──」
「伊織ですよ! 襟にきちんとアイロンされてたあのシャツ。小さい頃と同じでした」
「シャツ? 何それ」
懐かしさを滲ませる周の口元が綻ぶと、昔、島の養護施設にいたときに伊織が着ていた制服のようなものだと話してくれた。
「で、その伊織君もキレイにアイロンされたシャツをいつも着てたってことか。でもアイロンかけたシャツってだけでは……」
バスの乗客の邪魔になると思い、中庭のベンチに移動すると、昨日のことのように伊織のことを話す周に耳を傾けた。
「違うんです。伊織が着ていた施設の制服……になるのかな。他の子もお揃いの服を着てました。それはパリッとしていて、襟なんかも立ってて。あー、うまく説明できない」
懐かしい光景を探るよう語る周に、那生は溜息を吐いた。
周は階段で見た男性を『伊織』と決めつけている。もし別人なら、きっととてつもなく落胆してしまう。
「でも、本当に彼が伊織君かわからないよ」
「いや、絶対に伊織です。あの襟から伸びる細い首、白い肌に焦げ茶色の髪。あのころと変わってない儚げさ、あれはきっと……伊織です」
不可視な証拠を捲し立てるよう語り、頬を高揚させる周が、病院の外壁を愛おしそうに眺めている。まるで、建物の窓にでも、愛しい人が見えているかのように。
長年思い続けた相手に会えた喜びは分からなくもない。だが、それは本人に間違いないと言う周の一方的な思いで生まれたもの。
もし、別人だったら……。
「ん? どうしました、那生さん」
「いや、本当に会いたいんだなと思ってさ」
那生の視線に気づいた周が、表情筋をぐずぐずにさせ、会いたいです、と青空のように清々しく答えた。
「自分でも驚いてます、こんなに忘れられない存在になるなんて、子どものときには思わなかった……」
「そうだな。小学生の時からだもんな」
「さっきの人にもう一度会いたい。伊織だってちゃんと確かめたいです」
ほっとくと病院に戻りそうな雰囲気の周に「だからって、もう張り込むなよ」と、念を押した。
「は……い。あれ、那生さんのスマホ鳴ってませんか?」
「え、ほんと? 周君耳がいいな」
ベンチに置いてあったトートバッグからスマホを取り出すと、表示されている名前を目にして固まってしまった。
液晶に映し出された名前は、再登録してから初めて見る文字だった。
「も、もしもし」
『あ、那生。お前、今すぐ帰ってこれるか?』
「う、うん。大丈夫だけど。どうかしたのか」
『……奈良崎先生の娘さんが亡くなったんだ。しかも、殺されたらしい』
「……え?」
スマホから聞こえる神宮の声が、水の中で聞くようにくぐもって聞こえる。
今、なんて言った……。
『もしもし、那生。聞いてるのか、もしもし』
頭の中が靄がかる。その中に神宮の声が何度も響き、でもその言葉を理解できない。
返事もできず、スマホを握りしめたままの那生を心配し、周が体を揺さぶってきたが、感覚すらわからなくなっていた。
神宮の声を聞きながら、同窓会で友弥が話していた、あの悍ましい事件が那生の頭に浮かんで消えない。
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