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後悔

「で、周の方はどうなったんだ?」  ようやく喘息の症状が落ち着き、奈良崎の家へ向かうために神宮の車に乗り込んだ。  運転する神宮の横で緊張を味わっていた那生だったが、かけられた問いかけで冷静さが戻ってきた。 「やっぱり会えなかったよ。そんな簡単じゃないってことだな。けど、もしかしたらっていう人は見かけたんだ。確かではないけどね」 「へえ、接触したのか?」  目の前の信号が青に変わると、神宮の視線は真っ直ぐ前を向きながらも、那生の返事を待っている。  車窓から見る景色は次第に緑が増え、街から離れるほど人工物は減り、畑もチラホラ見える。ご近所さんは兼業農家が多いと以前、奈良崎が言っていたのを思い出していた。 「いや……全然。隠れて覗き見しただけ」  ひと言返すと、那生は口を閉ざした。  周のことは気掛かりではあるけれど、今は奈良崎のことで頭がいっぱいだった。神宮も同じなのかなと、ハンドルを持つ横顔を、チラリと横目に見た。  運転に集中しながら、そうかとだけ答えた神宮もそのまま静かになってしまった。  今、奈良崎家には、娘を突然奪われた父親がきっと、ひとり悲しみに暮れている。恩師の悲痛な姿を想像するだけで、那生の胸は締め付けられる思いだった。  いきなり大切な家族を失う気持ちを那生は知っている。ただ、那生の場合は事故死だった。  両親は親戚の結婚式に出席した帰り、高速道路の玉突き事故に巻き込まれてしまったのだ。事故だったとしても、子どもの那生からすれば許されないことだ。けれど、奈良崎の娘は身勝手な犯人によって命を奪われたのだ。しかもお腹の赤ちゃんも一緒に。  それがどれほど悲しくて、悔しいことか。 「中々難しいもんだよな」  ようやく開いた唇が溢した言葉に、ピクリと反応すると、運転席から伸びてきた手は沈んだ心を癒すように頭へと触れてきた。  予告もなくそんなことをされると、どうしていいかわからない。 「そ、それより晃平は誰から聞いたんだ?」  逸る心臓を隠すよう放った言葉は、変な感じに裏返ってしまった。 「友弥からだ。あいつの勤務する学校の校長が話してたらしい」 「そう……か。先生同志のネットワークか何かで耳にしたのかもな。でもさ、でも何で先生の娘さんなんだ……」  言いながら、那生は両手で顔を覆った。  理由もなく命を奪われたら、誰だって何で自分達がこんな思いをするのかと自問自答する。高校生の那生も、いや、今でも思っている。なぜ自分の両親が死ななければならなかったのだと。 「友弥も詳しく聞かされてないらしい。二人とも今日は仕事で俺らとは合流できないからあとで報告してくれと言ってた」 「……そう……か」  時々、道を確認する単語だけを口にし、那生は流れる景色を見送り、神宮はハンドルを握っていた。  しばらく車を走らせていると長閑(のどか)を絵に描いたような風景の中へ車が差し掛かる。 「地図だとこの辺りだなよな」  少し速度を落とし、車はいくつかの趣ある和風住宅が建つ場所を確認するよう走った。  窓越しに家の表札に目を凝らしていると、『奈良崎』の文字を見つけた。 「あ、あった。環、ほらあそこ」  那生の声で神宮が車をゆっくりと一軒の家に近づけた。  奈良崎の家は、庭をぐるっと囲むよう竹垣が組まれており、途切れた所には、表札の付いた門柱が左右に構えている。その幅は車一台が出入りするには充分な広さで神宮が敷地へとゆっくり侵入した。  敷地には既にシルバーの乗用車が停車しており、神宮はその横に駐車すると、二人は車を降りて玄関へと向かった。  那生が緊張する指でインターホンを押すと、少しの間のあと、引き戸のすりガラス越しに人影が見えた。  扉が開いてできた相手に、どんな言葉をかけるのが相応しいのだろうか。  心配した余り、後先考えず来てしまったことに、今さらながら戸惑う。  カラカラと音を立てながら引き戸が開かれると、白髪の混ざった無精髭の顔が現れた。   「せ、先生!」  目の前に現れた奈良崎の顔を見るなり、那生は声をあげた。そしてそれは潤んだ声に取って変わってしまった。 「那生……神宮」  少しやつれた様に見える奈良崎が悲しげに微笑み、三和土まで降りてくると、つっかけを履いて二人を迎え入れてくれた。 「先生、すいません突然来て」  恐縮する神宮が会釈すると、つられて那生も深々と頭を下げた。 「お前たち、聞いたんだね……」  表情に陰りを見せる姿が痛々しく見え、泣きそうになるのを必死で堪えた。  何もお構いできないけどと、家の中へ招き入れてくれた奈良崎の背中は、毛玉のついたカーディガンで、また泣きそうになる。  軋む板張りの廊下の先にある和室に通された那生たちは、人の気配を感じない静かな部屋に漂う厳かな香りに目を向けた。  娑婆(しゃば)とあの世を繋ぐ煙が立ち上るのを見ると、写真の人はもうここにはいないのだと知らしめさせられた。   「今、お茶入れてくるよ」 「そんな、結構ですから!」  那生のかけた言葉も耳に入らなかったのか、奈良崎は黙ったまま廊下へと消えて行った。 「那生、座って待ってよう」 「……ああ」  寂しげな部屋の息遣いに共鳴するよう、二人の呼吸までが緊張し、家中の空気が一層重々しく感じられる。  辺りの様子を伺っていた那生が、「環、あれ」と耳打ちをした。  那生が視線で指したのは、仏壇に置かれたもう一枚の写真だった。 「先生の奥さんか」  飾られた写真たてには、優しげに微笑む女性の顔があった。反対側に置かれた若い女性と顔とよく似ている。 「亡くなってたの、俺知らなかったんだ」 「……確か五年くらい前に病気が原因って聞いてる」 「そうだったんだ……」 「先生が身内だけで見送りたかったから、家族葬で済ませたらしい」 「そう……」  一枚板で作られた(けやき)の座卓に目を落とし、那生は自分の取った行動を反省した。  大学生になってからというもの、忙しいを理由に友人たちと交流するのを避けてきた。その原因が今隣に座る神宮にあるのは、那生の勝手な感情だけで、彼らには知り得ないこと。  晃平も友弥も縁が終わらないよう、こんな自分に何度も声をかけてくれた。 同窓会にしてもそうだ。奈良崎の定年祝いを兼ねてなければ、きっと参加はしてなかっただろう。それなのに、友人たちは笑顔で那生を迎えてくれた。  合わなかった期間を埋めてくれるように。  恩師の奥さんの死も、娘が結婚したことも、友人への連絡を怠っていなければ、情報も入ってきただろう。  自分勝手な自分を諌めても、今さら遅い。 「俺も知らなかったんだ、晃平に聞くまではな」  那生の気持ちが伝わったかのよう、髪をくしゃりと撫でられると、嫋やかなほほ笑みを向けられた。  奈良崎を待つ緊迫した空気の中、ピアノの鍵盤を弾くように那生の胸の中で丸い音が鳴った気がした。

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