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恩返し

「悪いね、待たせて」  声と共に襖が開き、お盆を手にした奈良崎が部屋に戻って来ると、何を話せばいいのか迷っていた。すると横から神宮が「先生、大丈夫ですか」と口火を切ってくれた。  こんな状況でも落ち着きを保てる姿に、憧憬を抱くと同時に、自身の不甲斐なさを突きつけられたように思えた。 「誰に聞いたか想像は出来るな。心配かけたね」  湯呑みを口にし、奈良崎は静かに言った。 「実はさっきまで警察に行ってたんだよ」 「け、警察!」  普通に生活をしていればあまり縁のない場所だ。名称を聞くだけで緊張が生まれ、リアリティさを植え付けてくる。 「……やっぱり晃平が言っていたことは本当だったんですね」  神宮の問いかけに黙ったまま頷く奈良崎が重い息を吐くと、静かに続きを紡いでくれた。 「一昨日の夜、栞里(しおり)──娘の婿から連絡来てね、栞里が帰ってこないと……」  眠れてないのか目の下にはクマができ、奈良崎の疲弊が伺える。悲しくても辛くても、訪ねてきた元教え子に向き合ってくれる姿は、根っからの教職者なんだと思えた。 「いつもの帰宅時間になっても帰らない栞里の事を心配して、婿は警察に連絡したんだ。彼は一晩中探したけど見つからなくて。昨日、警察から連絡があったんだ、栞里が遺体で発見されたとね……」  手で顔を覆い、泣き崩れる奈良崎を前に那生と神宮はかける言葉を失ってしまった。変わり果てた姿で見つかったと知った時、家族はどれだけの衝撃と悲しみを受けたのか。 「いや、すまないね。こんな姿を君達に見せるなんて教師失格だな」 「な、何言ってるんですか先生。当たり前です、む、娘さんがそんな事になったんですから。気が狂ったっておかしくないんです、こんな事……」  訴えながら那生も涙し、喉を詰まらせてしまう。自分の流す涙など、親の奈良崎に比べたら雨水一滴にもならない。 「……栞里は……殺されてたんだ。お腹の子供も一緒に……」  流涙を拭うこともせず、那生は項垂れて苦痛を漏らす奈良崎を見つめていた。口にすることすら悔しいはずの事実を、奈良崎はほぞを噛む思いで那生達に伝えてくれている。 「先生、犯人はまだ見つかってないんですよね」 「ああ……」 「栞里さんは仕事されてましたよね。発見された場所って帰り道だったんですか」  泰然自若(たいぜんじじゃく)な態度で話す神宮に、那生は唖然とした。  冷静に奈良崎の話しに耳を傾ける姿勢に比べ、ただ泣くだけしかできない那生は、濡れる頬を服の袖でぐいっと拭うと、奈良崎を真っ直ぐ見た。 「……仕事はしているが、そうだな、帰り道になるのかな。見つかった場所は、病院の近くにある公園って刑事は言ってたか……」 「病院? どこの病院ですか」  擦り過ぎて赤くなった目の那生は、病院と言う単語に反応した。 「四聖総合病院だよ、栞里はそこの産科に通院してた。一昨日も検診日だったんだ」 「四聖……病院」  那生は横にいる神宮と顔を見合わせた。  周の事で意識することになったその名前を、こんな形でまた聞くことになるとは。  たまたま同じ病院の近くが殺害現場だった。たまたま同じ病院がかかりつけ医だった。ただ、それだけの偶然とは言え、那生は靴の中に小石が入ったような違和感を感じていた。 「病院からの帰りだったのかもしれないな。あの公園は薄暗いから通るなと以前から言ってたのに、こんなことに……くそっ」  堪えていたであろう怒りをこぶしに込め、座卓に叩きつける奈良崎の気持ちが、振動で揺れる湯呑みからも感じられる。  悲しみと怒りをずっと我慢していたのが、ひしひしと伝わってきた。 「先生、娘さんって妊婦だったんでしょう? 友弥が言ってましたけど、以前にも娘さんと同じような妊娠中の女性が殺害されていたそうです。被害者が他にもいるかもしれないって、そんな話し警察は何も言ってませんでしたか?」 「た、環! それは──」  那生の制止を顧みず、神宮が言い難い言葉を放った。友弥が調べていたことが本当なら、ネットに書かれていたらことが事実なら、奈良崎の娘も連続して被害に遭ったと言うことだ。そんな悍ましい現実、あって欲しくない。けれど、そう思いながらも、那生の頭の中でも友弥のセリフがずっと離れない。 「栞里さんが病院の帰り道に被害に遭ったと言うことは、警察から聞いたんじゃなく先生の推測なんですか」 「……そうだね。警察はこれから捜査すると言って濁していたから。病院の帰り道って思ったのは私の憶測だよ」  悔しそうに話す奈良崎を前に、顎に手を当て懊悩する神宮が気になり、どうしたんだと、那生は声をかけた。 「いや、警察って家族にも詳しくは話してくれないんだと思ってね」 「……捜査は始まったばかりだからかもしれないね」    捜査にマニュアルがあるのか知らないけれど、警察の動きはいちいちまどろっこしい。家族を失った人間にもっと寄り添うべきだと思う。  もちろん、憶測の段階で話せる内容は知れている。けれど、奈良崎に限らず、歯痒い思いをした被害者家族は大勢いるはずだ。  思惑有り気な神宮の顔を横目に、この家に来て遺影を見てからずっと考えていたことを口にした。 「先生。俺、四聖病院の産科で話を聞いてみます」 「那生。お前、何言って──」 「た、大したことはできないよ。俺は警察でも探偵でもないんだ。けど、医者なんだ、患者でもない立場で堂々と病院に接触できる。だから理由を作って四聖病院を訪ねることぐらいはやってみたいんだ」  自分でも無茶苦茶な事を言ってるのはわかっている。素人が捜査の真似事なんて出来っこないのも。けれど、目の前で打ち拉がれている恩師の姿を目にした以上、無謀でも何でも力になりたいと、熱いものが込み上がってくる。 「那生、いくらお前が医者だからって、そんな事に首を突っ込まなくていい。警察に任せるんだ」  奈良崎に一蹴された那生は、その声に反論するように決意を改めなかった。 「俺は先生に救われたんですよ。この間も話しましたよね? だから今度は俺が先生の力になりたいんです。お願いします、栞里さんが受診した時の様子を聞くだけですから」  「那生……」  教子の何とかしたいと言う気持ちが、奈良崎の目を潤ませる。その目を隠すよう背を向けると、奈良崎が仏壇の前に移動して線香に火を点けた。  寂しさを含んだ香りが鼻腔をくすぐり、沈黙が部屋の中を支配していた。 「せんせい、俺──」 「奈良崎先生、俺らに出来る範囲でしか動きません。少しだけ二人で調べてもいいですか。ってか警察の方がもう何か掴んでるかもしれませんけどね」 「た、環! いいのか?」  煙る香りと静寂を断ち切る神宮の声に、自分一人では心細いと感じていた那生は、あからさまに喜んでしまった。 「ああ。止めても聞かないだろ? お前は」 「環……」 「正直、俺も気にはなるしな」  昔からそうだった。  神宮と言う人間は先陣を切るタイプではない。だが、誰かが躓いた時、気付くと側にいて手を差し伸べてくれる。その行為に那生は何度も救われ、そしてその度に惹かれた。ただその甘さが那生を切なく追い詰め、神宮に申し訳ないと思いながらも、距離をとることを選んでしまったのだ。  那生と神宮の会話を背中で聞いていたであろう奈良崎が不意に振り返り、那生と神宮をジッと見つめたあと、ゆっくりと頭を下げた。 「那生、神宮、ありがとう。でも気持ちだけ受け取っておくよ。この事件がもし君らの言う連続殺人だとしたら、二人にも危険が及ぶかもしれない。だから警察にお任せしよう」 「大丈夫です、先生。危ない事はしません、病院に行ってみるだけですから。それに俺らもうガキじゃないんですよ。引き際は心得てます」  平然と言う神宮の力強い言葉が那生に安堵を与えてくれる。  自然とその言葉に倣うよう頷けるのは、高校から構築された阿吽の呼吸のようなものだと思え、その懐かしさが切ない。 「それに先生。俺、今度四聖病院に行く用があるんですよ。その時に栞里さんのことを産科に聞いてみます。知り合いの娘さんで、とか言えば当日の様子だけでもわかるかもしれないし。それくらいのことです、いいですよね」  勿論それだけでは終わらせるつもりのない那生は、何とか奈良崎の首が縦に振るよう話を運ぼうとした。 「そう……か。でも無茶だけはやめてくれよ。私はもう誰も失いたくないんだ」  ほんの少し、奈良崎の顔は高校時代の穏やかな表情に戻ったように見えた。だが、一人娘を失った憂いは簡単には消えない。彼にはもう以前の微笑みが戻らないかもしれないのだ。 「分かってます。じゃ俺達そろそろ帰りますよ。先生はちゃんと休んでくださいね」  退席を促す神宮の声に那生も従い、席を立った。  軋む床板を噛みしめるように玄関へ向かう僅かな時間、子ども染みたことを宣言してしまったと、自分の浅はかさを反省した。けれど悲しげな顔を見てしまうと、何かせずにはいられなかった。  新米医師が事件解明に役立てるわけはない。世話になった恩師に報いたいと言う、自分のエゴだ。それでも恩師の助けになりたかった。  環まで巻き込んでしまったな……。  高校の頃から進歩のない無鉄砲な性格を嘆きながらも、どうか安らかな日々が奈良崎に訪れるようにと、那生は願わずにはいられなかった。

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