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わかってない
洗い物くらいすると言った神宮をキッチンから追いやり、那生は袖をたくし上げながら、大人しくリビングへ戻る神宮を肩越しに見ていた。すると、座りかけた腰を持ち上げたかと思うと、珈琲くらい煎れさせてくれと言いながら戻って来た。
「ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ」
素直に礼を言うと、珈琲だけは上手く煎れる自信がある、と表情筋を緩ませている。
破壊力が半端ないその顔はずるい、と那生は思った。
きっと大学でも、誰かれ構わずその笑顔を振りまいているのだろう。そう思うと、悔しくてスポンジを思いっきり握り締めて八つ当たりするように皿に擦り付けた。泡が手の中で溢れると、出口を求めるよう隙間から飛び出して顔にかかった。手の甲で拭こうとしたら視線を感じて、横を見ると神宮がこちらをジッと見つめていた。
熱を孕んだような瞳が那生を捉えてくる。その眼差しの理由がかわからず、視線を泳がせていると、スッと神宮の体が近づいてきた。
自分より背の高い体が目の前で影を作り、こちらを見下ろしている。
「な、何だよ神宮──」
「湯、沸かさないと」
「あ、ああ、お湯、お湯ね。そ、そうだな」
那生の背中側に置いてある、ヤカンまで手が伸びると、神宮が湯を沸かし始めた。
──なんだ、ヤカンを取りたかったのか。
ドリッパーや珈琲の粉を用意する姿を見ながら、自分はなんて愚かで滑稽な人間なんだと思った。神宮が何かしてくるとでも、思って──
「那生……」
不意に呼ばれた名前で思考を遮られると、神宮が見ている気配に気付き、引力に導かれるように顔を上げていた。
「じ……んぐ──」
「今日──」
呼びかけた名前を、独り言が始まるように蓋をされた。表情はいつもの取り澄ました顔ではなく、どこか真剣な色をしている。何か重要なことでも話すような顔つきで、唇を薄く開こうとしていた。
「今日……迎えに行った時、お前の体から女性物の香水の香りがした。お前、付き合ってる人がいるのか」
モノローグは思いがけない尋問に変わり、那生は面食らった。
神宮は一体何を言ってるんだ。
香水の香りから、どうして付き合ってる話に飛ぶんだ。誰も香水なんて付けてな──と、頭の中で否定しかけて、医局で触れそうな距離に藤輪マリがいたことを思い出した。
これは全くの濡れ衣だ。
「そんな人はいない。それに、何でそんなこと聞くんだ」
つい、キツい口調になってしまった。それなのに、神宮の瞳は那生を捉えて離さない。
「お前の体から、女物の香水の匂いがしたから、てっきり相手がいるのかと──」
「相手がいようがいまいが、神宮には関係ないだろ。俺は……今、それどころじゃないんだ。医者として、先のことを色々、考えてるんだ。女の人と付き合う時間なんてこれっぽっちもない。時間があるくらいなら、晃平の店に行ってるよっ」
憤慨した気持ちをぶつけると、神宮の顔色が微妙に変わった。
「──やっぱりお前は晃平が好きなんだな」
「はあ? どうしてそうなるんだ。晃平や友弥といる方が楽しいって意味だっ。俺もあいつも男……なんだし。それに、やっぱりってどう言う意味だよ」
「だってお前──」
「そ、それに俺が誰と付き合おうと、お前には関係ないだろ。お前が高校の時、告ってきた女の子と付き合ってたとき、俺はお前に何か言ったか?」
怒りに任せて、これまで耐えてきた鬱憤をぶちまけてしまった。
付き合ってる人がいるか聞かれただけなのに、腹が立って仕方ない。
本来、香水の匂いは苦手なのに、好きなのはお前の香りだけなのに。
でも、そんなこと神宮は知らない。
一番聞かれたくない相手にされた質問に、勝手にひとりで悲しんで怒っているだけだ。
「お前が晃平のことを言うなら、そっちこそあいつの店に頻繁に行ってるじゃないか。男同士が有りって思ってるなら、お前こそ、お前の方こそ──」
言いかけて言葉を止めた。
眉根を寄せ、口を左右に引き結んで那生を凝視してくる瞳があまりにも切なげで、悲しそうな色をしていたからだ。
「悪い……。言い過ぎた。俺、もう帰るよ」
いたたまれなくなり、那生は濡れた手のままトートバックを持つと玄関に向かった。
──人の気持ちも知らないで、何が付き合ってる人がいるのか、だ。挙句に晃平が好きだなんて、何を考えて──
「い、痛い。な、何するんだっ」
廊下を突き進んでいると手首をとられ、那生の体は勢いよく後ろに引き戻されてしまった。
「何でって? 甘くて鼻につく匂いをぷんぷんさせて俺の車に乗って来たかと思えば、晃平の所へ行くだって? そう言えば、同窓会の日、晃平が好きだと言ってたよな」
物静かで落ち着いた神宮しか知らない那生は、自分の手首を千切れるほど強く握ってくる男の顔に瞠目した。
「そ、その匂いは移り香だ。同期の女医が好んでつけてて、いつも頭から一瓶分浴びてるんじゃないかってくらい、匂いがキツいんだ。隣にいるだけで移るんだから仕方ないだろ──って言うか、手を離せよ」
無表情に近い神宮の目が怖い。
自分の反論する声も上擦っている。
「女と付き合ってないなら男か? 晃平じゃないなら、他にだれがいる? 病院の同僚かっ」
今まで見たことのない神宮が、掴んだままの手首へと、更に力を加えてくる。
那生はそれをどうにか振り払おうとしたが、反対の手首まで取られると、背中を壁に押し付けられた。
トートバックが床にトサッと落ちる。
「い、痛いって、じんぐぅ──」
那生の訴えは最後まで聞いてもらえず、神宮の唇で塞がれてしまった。
「……っ、んあ、んぐぅ」
突然の行為に、何が起こったのか混乱していると、重ねられていた唇が角度を変えて深く押し当てられてきた。
「……っんぐ……ぅ、やめ──」
唇が離れた僅かな隙間に抵抗の声を発したけれど、両手首を壁に貼り付けるように押さえられ、反対の手で顎を固定されると、那生の体は身動きが取れなくなる。
拘束されている間も口淫は終わることなく、卑猥な水音をさせながら那生の唇も舌も激しく奪われ続けた。
神宮の熱い舌が那生の唇をこじ開けてくると、口腔内を支配しようと執拗に蠢いている。神宮のそれを追い出そうと口を閉じようとしたが、全く敵わず、舌で舌を絡めとられると、呼吸ごと貪られて息ができない。
それなのに……体は正直で、那生の下半身が熱を持って疼き出している。意思に反した反応に気付かれたのか、口付けは終わるどころか、那生の官能を引き出そうと、吸い付き、甘噛みし、口の端から溢れる唾液を舌で舐め取ることまでされた。
「じ……んぐ、やめ……」
解放された唇で訴えたけれど、無駄な抵抗だった。那生がふっと力を緩めたのに気付いたのか、顎にあった手で肩を押さえつけられてしまう。そのまま壁と神宮の体で閉じ込められた那生は、熱い胸板から伝わる鼓動が心臓に流れ込んでくるのを自らの胸で知った。
唇は塞がれたままで全てが捉えられ、されるがままになっていると、神宮の膝が那生の太腿に割って入ってきた。
閉じられていた下肢に空間が生まれると、神宮の手が那生の膨らんだ股間ををゆるりと撫であげてくる。
敏感な場所は直ぐに反応してしまい、ピクンと腰を逸らしてしまった。それに気付いた神宮が、さらに那生のモノを手のひらで包んでくる。デニムの布越しでも、好きな人にそこを触れられて平気なやつなんていない。
何度も刺激を与えられると、体は理性を裏切って本能のまま快楽を受け入れている。
硬くなってもたげた那生のモノは扱かれ、その間も唇は塞がれたまま、舌で上顎をなぞられ、歯の裏を舐められていた。いつしか那生の舌も持ち主に抗い、神宮の舌を自ら求めていた。
長い指が器用にデニムのファスナーを下ろすと、ボクサーパンツごと唆り経った雄を掴まれた。固く、熱くなった陰茎へと強弱をつけてこするように動かしてくる。
「はぁ、やめ……じん……っふぅ。っんん、ああ。あっ、だ……めだ……こんな……の」
「那生……なお……」
興奮した声で名前を呼ばれながら、甘い行為を受け続けていると勘違いしそうになる。頭では、こんなのダメだと言い聞かせても、焦がれた相手から与えられる愛撫に体は受け入れたがってますます疼く。
神宮の雄が那生と同じよう昂っていることがわかり、もしかしたら神宮も同じ気持ちなんじゃ──と、考えてしまった。
だか、それは叶わない物語で、次に神宮が発した言葉で、那生は我に返った。
「本当は、晃平にされたかったんだろ……。けどあいつはやめとけ……」
──晃平? なんでまた晃平が出てくるんだ。それにやめとけって、どう言う──
頭の中で神宮の言葉を繰り返していると、下着の中に神宮の指が侵入してくる。
「ちょ、ちょっと待っ──、あ、ああっ。そこ……触る……な」
下着の中では既に亀頭が濡れそぼっていた。はしたなく蜜を垂らす先端を、指の腹でくるくると滑らせられると、それがまた快感を生み、那生の意識がトリップしそうになる。
「じ……んっふうぅ、あぁ……んっ。だめ……こんなこと……」
細切れの言葉で訴えかけても、何も答えてくれない。ただ、ただ神宮の手だけが忙しなく動いている。
神宮が拘束の手を緩め、自身のベルトを外そうとした瞬間、那生はその体を思いっきり後ろへと突き飛ばした。
床に尻もちを付いた状態の神宮に一瞬、後ろ髪を引かれたが、無視して服を元通りにすると、早足に靴を履いて玄関を飛び出した。
勢いよく開けた反動で跳ね返ってくるドアを、再び開け開く音がした。振り返って見ると神宮が後ろから追いかけている。
「なお、那生! 待てよ、行くなっ」
エレベーターのボタンを押したが、箱は一階まで降りていて、七階までくるのが待てない。
那生は非常階段を見つけると、階下を目指してジャンプするように駆け降りた。
下りとはいえ、七階からダッシュで降りるのはさすがにバテる。
一階に着いた時には、急激に使った筋肉が耐えられないと震えていた。
「……何を考えてるんだ、神宮の……やつ」
まだ熱を孕む体を自身の腕で抱き締めると、涙が溢れそうになった。
嫌がらせをされたのだろうか。いや、神宮はそんなことはしない。だったら、さっきの口付けや愛撫はどう言う意味がある。
——あいつも男が好きで、晃平のことを……。だから俺に釘を刺した?
混乱してまともな考えに至らない。
マンションを出て、靴底を擦り付けるように歩道を歩いていると、トートバッグを忘れてきたことに気付く。
尻ポケットを触ると、財布はそこにあり、パーカーのポケットにはスマホが入っていた。那生はトートバックを諦めて、駅へと向かい歩き始める。
十メートルほど進み、後ろを振り返ってみる。
やっぱり追いかけてこない……。
来た道を落ち込んだ眼差しで見つめていると、走ってこちらにむかって来る神宮が目に入った。
慌てて踵を返して逃げたが間に合わず、すぐ神宮に追いつかれると、また手首を掴まれてしまった。
「那生、逃げるな……」
「は、離せよっ!」
「那生、なお。俺の話を聞いてくれ、俺がお前に手を出したのは──」
言いかけた言葉を神宮が言い淀ませ、那生の後ろをジッと見ている。
那生もほぼ同時に振り返り、同時に二人が目で追っていたのは、けたたましくサイレンを鳴らすパトカーだった。
しかも一台だけではなく、三台が連なって那生と神宮の真横をあっという間に走り去って行った。
真夜中になろうかと言う時間に響かせていたパトカーは、神宮のマンションから百メートルほど離れたすぐ近くの場所で停止した。後ろから大学生らしき三人組が、まるでパトカーを追いかけるようにこちらへと走ってくる。近くで見た彼らはの顔は、なぜか嬉々としていた。
「パトカー来ちゃったじゃん! 早く行こーぜ。殺されてんだろ? まだ死体あるかもしんねーぞ。殺人事件の写真なんて、撮れたら絶対バズるぜ」
「被害者って女か? どっちでもいいけどな。俺は写真さえ撮れれば」
「まさか第一発見者がお前の彼女の、ツレだったなんてな。絶対に動画も撮っとけよ」
真横を通り過ぎながら聞こえた三人の言葉に、那生と神宮は顔を見合わせた。
数メートル先で、さっきの三台のパトカーから制服警官がわらわらと降りて来ては、薄暗い雑居ビルの隙間に吸い込まれていく。
さっきまで言い合っていたことを一旦、脇へ置き、二人は無言でパトカーの周りに次々と増えて出来る人山を眺めていた。
「何があったんだろ……」
「さあな。事件か?」
「なあ、さっきの三人組の話、聞こえたか? 死体とか言ってたな」
手首を拘束されたままで、ポツリと呟く。その声に被せるよう、今度は救急車がやって来ると、ドップラー効果を撒き散らせながら、パトカーと同じ場所に停止した。
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