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初めての訪問
助手席の窓ガラスは暮夜に近付くよう、薄紫色と藍色のグラデーションに染まっていた。そこへ映り込む顔を睨みながら、那生は唇を噛んでいた。
偉そうなことを言って、何もできない自分が悔しい。
栞里の職場を出てからずっと、『前途多難』と言う言葉だけが頭の中で渦巻いていた。
何の進展も収穫もなく、焦る気持ちばかりが募る。大口を叩いたくせに、欠片ほどの情報も得られていないのだ。
那生の中に焦りが芽生えているのは、家族を全て失った奈良崎のことだけだった。妻に先立たれ、今度は大切な一人娘まで亡くしてしまったのだ。万が一、残された人間が思い余って……何て悪い考えまでが浮かんでくる。
「那生、このあと俺の家で飲まないか」
「え?」
運転席の神宮から唐突に言われると、目と口を最大限に開いたまま、神宮の横顔を凝視していた。答えることができないでいると、沈黙を肯定とみなされたのか、「決まりだな」の声が聞こえると、車が少しだけ速度を増した。
「ま、待って。俺返事してないけど」
「嫌なのか?」
嫌? まさか、嫌なわけない。嫌なわけないけど……困る。
神宮の家に行く、これだけでも心臓がひっくり返るほど緊張する。
車の中で二人でいることにも、平常心を保つことでギリギリだった。これ以上一緒にいれば耐えきれず、口にしてしまうかもしれない。
──ずっと、好きだった……と。
「い、嫌じゃない。ただ急だから……」
「じゃ、コンビニに寄るぞ。酒買うから」
勝手に話を進めらると、さっきまで凹んでいた自分が隅っこに追いやられ、神宮の家に行くことを喜んでいる新たな『那生』が現れた。こんなことを考える自分が不謹慎だとわかっているのに、鼓動は逸っていくばかりだった。
けれど……と、那生の頭にすぐ冷静さが浮上する。
家飲みの誘いは、神宮の気遣いだとわかった。ずっと無言であからさまに落ち込んでいる自分を、神宮は慰めてくれようとしているのだ。
わかってしまったからこそ、胸の奥の熱が再燃しようとするのを抑え込まなければならない。
神宮のマンションは、宝生大学の最寄駅から三駅分ほど離れた場所にあった。レンガ仕様の壁タイルで、十階まである比較的新しい建物を見上げて那生は尻込みしていた。
初めて神宮の──好きな人の家に行くのだから、震えても仕方ない。
エレベーターに乗り込むと、神宮の指が七階を押した。
密封された空間が長く感じて息苦しい。
神宮は何も話さないし、那生にもそんな技量はない。
お前が招待したんだから、何か話せよ──と、言いたくなる。
頭の中であれこれ考えてると、重力のせいか、悪酔いしそうになる。
七階に到着して部屋までの距離を歩くだけでも足が震えた。
それなのに、ドアを開けると、しれっとした顔で、どうぞと言われた。
どこまでも余裕な親友がムカつく。
躊躇いながら部屋へ入ると、廊下や壁はグレーと白で基調されたシックな雰囲気で、神宮らしさが滲み出ている。
リビングの隅に置いてある観葉植物を見つけると、いつもの澄まし顔で水やりしているのかと思ったら微笑ましくなってちょっと気が楽になった。
「適当に座ってろ。グラス用意するから」
そう言って神宮がキッチンへ行ってしまうと、那生は落ち着かないままリビングのソファに腰掛けた。
手持ち無沙汰になり、部屋をぐるっと見渡して意識を逸らしてみる。
部屋の隅にはスタンド型の間接照明が灯り、暖色の灯りがリラックスを与えてくれた。自然と深く座り直すと、丁度キッチンにいる神宮の背中が見える。
美しい骨格を眺めていたら、冷蔵庫を開けては閉めてを繰り返し、何やら考え込んでいる様子だった。
那生は迷ったがキッチンへ足を運び、神宮の横に並んで「さっきから何してるんだ」と、手元を覗き込んでみる。
目が合うと、眉根を寄せた顔で、「つまみを……」と、手にチーズだけを持って固まっていた。
「もしかして、酒のつまみを用意しようとしてたのか?」
那生が聞くと、神宮が無言で首を縦に振った。その仕草が何だか可愛く見えて、笑いそうになる。
「俺が作るよ。何でもいいだろ?」
神宮の手からチーズを引き取ると、冷蔵庫開けていいかと、聞いてみた。
「あ、ああ。けど、ろくなもん入ってない。酒買った時に何か買えばよかったよ」
背中越しに神宮のセリフを聞きながら、卵と隅っこで転がっていた二本の茄子を取り出した。
「卵と茄子使うぞ。あと、ゴマかカツオ節でもあったらいいんだけど」
尋ねるように呟くと、神宮が冷蔵庫に腕を突っ込み、奥から一旦封を開けたあと、輪ゴムで留めてあるカツオ節の袋を引っ張り出してくる。
「これしかないな。賞味期限は大丈夫だけど」
「全然足りる。さんきゅ」
那生は材料を並べると手を洗って調理を始めた。
反対に今度は神宮が時間を持て余したのか、肩越しに見るとソファに座ったまま、何をするでもなくジッと後ろからこちらを見ている。
神宮の視線を感じながら、少し緊張した手つきで、那生は黙々と料理を始めた。
三十分ほどで三品のつまみを作り終えると、リビングのセンターテーブルに並べ終えて満足げに両手を腰に当てて眺めた。
緊張は料理を作ったおかげで、知らない間にどこかへ消えていた。
「那生、お前凄いな。あんな短時間でこんなに作れるなんて」
感嘆混じりに言われると、「口に合えばいいけどな」と、恥ずかしさを押し殺して言ってみる。
「卵とチーズのオムレツ、焼き茄子のポン酢和え、それとトマトと紅茶のサラダ──」
「紅茶っ?」
言下に叫ばれ、那生の方が驚いた。
「あ、ダージリンの茶葉があったから使ってしまった。ごめん、勝手に──」
「いや、全然構わない! 紅茶にトマトって珍しかったから驚いただけだ」
言いながら、神宮は箸を手にしながら、いただきますと言って、真っ先にトマトへと箸をつけている。
「うまっ。こんなの初めて食った。那生はやっぱり料理が上手いな」
ストレートに褒められて耳が熱くなる。恥ずかしさを隠すように、那生はグラスに注がれたビールを一気に飲んだ。
「家飲みだからいいけど、それでも飲み過ぎるなよ。アルコール弱いんだろ?」
知ってたなら、何で誘ったんだよ……。
文句を言いたかったけれど、口にする代わりに茄子を頬張った。
くだらないことで言い争いになったら、せっかく神宮の部屋にいるのに台無しになる。
ここへ来るまで味わっていた緊張もとけたんだし、せっかくだから高校のときのような会話を楽しんでやる。
そうやって意気込んでみたものの、頬や首筋まで熱くさせ、緊張とは違う鼓動が盛んに脈打っていた。
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