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どう言えば……
「神宮、ごめん遅れた」
病院内の駐車場に見慣れた車を見つけると、那生は慌てて側へ駆け寄った。
「そんな待ってない。それより走るな、また喘息が出るぞ」
「これくらい平気だ。待たせてるんだし……」
まだ緊張が拭えない助手席に腰を下ろしながら、那生は逸る鼓動を悟られないように振る舞った。
「これ飲んどけ」
ペットボトルを差し出されると、那生は自然と運転席へ顔を向けてみた。
束ねていない髪を無造作にかき上げ、窓を少しだけ開けて煙草を吸う。
何でもない仕草なのに目が離せない。おまけに催淫剤のような香りを放つから、理性が保てなくなる。女性が発する人工的な匂いは受け付けないのに、神宮の匂いは那生の心を狂わせてくる。お陰で、お水の礼を言えなくなってしまった。
「栞里さんの勤め先って、四聖病院の二駅先にある雑貨屋だろ? 近いし先に飯でも食わないか。実は朝飯食ってないんだ」
視線を前に伸びる道路に向けながら神宮が言うと、「俺も」と、つい賛同してしまった。
高校の帰り道で経験した買い食いでも緊張していたのに、二人っきりで平然と食事などできるのだろうか。
「何が食いたい?」
聞かれて、神宮と食事をすることにますます緊張してきた。
数年ぶりに再会した同窓会から今日に至るまで、何かと神宮に会う機会が増えている。周の件や奈良崎のことがきっかけでも、こんなことをしていたら、一大決心して避けていた恋心がまた顔を出してくる。
いつまで経っても忘れられず、うじうじと想い続けてしまう。
それなのに、何が食べたい? なんて聞かれて浮かれている自分が情けない。
「那生?」
「ああ、えっと、そうだな。パエリア……とか?」
咄嗟に出た料理名は、中々いい選択をしたと思う。顔も才能も高校の時より成長し、より俊傑になった男に、ラーメンや牛丼は似合わない。
「パエリアか、いいな。どこか店を知ってるのか?」
「実は前から行ってみたかった店が近くにあるんだ。そこでよければ……」
言いかけて、ふと運転席の方を見た。
信号が赤になり、車が停まった。
神宮が風で乱れていた髪を、後頭部へと撫で付けて整えている。
華麗な所作に見惚れていると視線が絡まり、那生の手の中にあるスマホを覗き込もうと神宮が顔を近づけてくる。
些細な一連の流れに心臓は、破裂しそうだった。
どうしても諦められない。
神宮が好きなんだと、改めてそう思ってしまい、どうやったら諦められるのかも同時に考えていた。
店の近くに車を駐車し、那生と神宮はスペイン料理の店『メ・グスタ・ハモン』の扉を開けた。
店内は土曜日ということもあってか、昼前だというのにテーブル席は埋め尽くされていた。
「テラス席でもいいか」
神宮の言葉に同意した那生は、返って外の方が好都合だと思った。
店内はランチにセットされているデザートバイキングが目当ての女性客で賑わい、外の方が香水の圧力に気圧されないで済むからだ。
「こちらメニューでございます。ご注文お決まりになりましたらお声かけください」
ウェイトレスの決め台詞を聞き終えると、二人はメニューをめくった。
「魚介のパエリアでいいか?」
「うん、あ、俺アヒージョ食べたい。この温野菜の、いいかな」
「いいに決まってる。他にはないのか」
「いや、これで十分……」
言葉の一つひとつが甘い。そう思ってしまうのは願望からなのだろうか。
神宮が注文をしている間、数年ぶりに再会した今と、気まずく過ごすはめになった高三の二人の関係をよぎらせた。
自分の愚行を知られてしまったあのとき以来、感じていた違和感。
那生の方が先に避けてしまったとはいえ、神宮の態度もおかしかったと思う。けれど、今、目の前にいる神宮は、出会った時の、正真正銘の親友の顔をしている──と思う。
不意に目が合い、向けられた視線が熱を帯びているように感じると、誤魔化すように流れる車に目を向けた。
──俺は何を考えてるんだ。
本来の目的を一瞬忘れ、頭の中の引き出しから奈良崎の顔を引っ張り出した。
こうして呑気に食事をしている間も、彼は悲しみに打ちひしがれていると言うのに。
「お待たせいたしましたー」
はつらつとした声とともにウェイトレスが皿をテーブルに並べていく。
「うわっ、旨そう!」
胃袋を刺激される匂いと音にやられ、取り皿を手にして神宮の分を装った。
手から手へ渡そうと思ったけれど、それを避けて神宮の前に皿を置いてしまった。
ぎこちない自分の行動に、いちいち腹が立つ。もっと自然に振る舞えないのかと猛省した。
那生の苦悩に気付かず、パエリアを頬張る神宮をチラ見し、那生も料理を口に運んだ。そらからは、料理を胃に収める傍ら、たわいもない話で隙間を埋めていった。
事件のことは話せるほど何もわからないし、昔話に花を咲かせる余裕もない。取り敢えず高校時代の晃平ネタを話題に、おざなりな会話をしていた。なぜか、神宮の顔は不機嫌そうだったけれど、そこを気遣う余裕はない。
「神宮、グラス空だよ。新しいシードル貰う?」
「いや、いい。ノンアルのシードルは味気ないからな」
「車だから仕方ないか。俺が運転できればよかったんだけど」
グラスの縁を指でなぞりながら呟くと、神宮の唇が弛み、「次は飲むよ」と、笑顔を向けられた。
次──があるのか。
淡い期待で心がじわりと温かくなる。
ふと、そうだったなと、高校の神宮を思い出した。
親友のポジションに収まっていれば、神宮の側はとても居心地がいいのだ。
けれど、そこにいつまでも居座っていたら、離れた六年間が無駄になってしまう。
那生はゴホン、と咳払いをすると、奈良崎の一人娘のことを口にした。
「栞里さんって大学出てからずっと、同じ店で働いてたんだよな」
グラスをテーブルに置きながら、思いついたことを口にしてみる。
「そうらしいな」
「だったら同僚の人とも付き合いが長い──」
言いかけて那生は言葉を止めると、神宮の背中越しから店内を食い入るように見たていた。
「どうした、知り合いでもいるのか」
那生の視線が店内に注がれていることに気付いた神宮が、スプーンを口の手前で止めて聞いてきた。
目を見開いたままの那生が、「あの人……」と、声で指し示すように呟いた。
さりげなく後ろを振り返り、那生の見つめる先を確認した神宮が、誰がいるって言うんだと、首をすくめている。
「……周君が『伊織』と言っていた男の人が今、店内にいるんだ。女の人と……」
那生の言葉で神宮がもう一度店内を振り返り、中の様子を伺っている。
女性客で埋め尽くされている中に、それらしい男性客を見つけたのか、神宮が「あのネイビーのジャケットの男か」と、耳打ちしてきた。那生は返事の代わりに、首を縦に振った。
ジャケットの下から白いシャツの襟が覗き、そこから見える首筋は、遠目でもわかるほど白く細っそりとしていた。
茶色みがかった髪に背筋を伸ばした姿勢で、同伴の女性を優しくエスコートしている。
「彼が『伊織』なのか。一緒にいるのはもしかして彼女か」
「もし、彼女だったら、周君になんて言えばいいか……」
楽しげに食事をする二人の様子に、周が嬉しそうに彼のことを話していた顔が重なる。
幼い恋を忘れられず、何年も思い続けてきた相手を探すために故郷を離れ、東京までやって来た。そしてあらゆる病院を探しまわり、ようやく想い人にたどり着いたのに、再会をする前に、周を落ち込ませてしまうかも知れない。
女性と微笑み合う『伊織』は、紳士的な振る舞いで、ワンピースと同じ赤い指先に優しく触れている。好きな相手がそんな風に自分以外に触れていれば、周の気持ちを知るだけに、見ていてたまらなくなる。
二人の雰囲気を見れば、ただの友達や仕事関係の相手ではないと思えた。
「あの二人が恋人同士だったら、周君……がっかりするだろうな」
「そうだな。けど、あいつもこれで諦めがつくだろ、あの男が伊織本人ならな」
「そうだよな。まだ伊織って人かは分からないし」
「周には俺から話しておく。那生が話すと、泣いてしまうだろ」
「そ、そんなことない。泣かないし!」
優しげな声で言われるの、今、泣きそうになった。
「どっちにしても確かめるには、彼に接触してみないとだな」
「……だな」
赤いワンピースの女性を見つめる伊織らしき男性を一瞥しながら、那生は周の言った言葉を思い出していた。
涙ながらに彼が伊織だと強く訴えていたのは、周からすれば勘違いでも人違いでもないのだろう。けれど、彼が別人なのか、ただ周のことを忘れてしまっただけなのか、本人は周のことを全く知らない他人を見るような目をしていたことは間違いない。
「那生、そろそろ行くか」
伝票を掴み、神宮が先に席を立った。
「あ、ああ……」
会計をする神宮の横から、楽しそうに女生と会話する『伊織』を盗み見る。
遠目で見ていたときより、『伊織』の様子はどこかぎこちなく、恋人──と言うより、取引き先の人間に振る舞うように見えた。
「那生、行くぞ」
神宮の声でハッと顔を上げたとき、同じように顔を上げた『伊織』と目が合う。慌てて視線を逸らした那生は、神宮の後を追って逃げるように店の外へと飛び出した。
扉がゆっくり閉まっていく隙間から店内を垣間見ると、焼き付けるように『伊織』を見た。
「あの二人、恋人同士とはちょっと違う気がするな」
「神宮もそう思うか?」
「ああ。温度差が男女のソレとちょっと違う。女の方はともかく、男の目が冷めて見えるな」
「俺もそう思った。一瞬しか間近で見えなかったけど、彼の目からは何の『情』も感じられなかったな。周君のためには恋人じゃない方がいいと願ってしまうよ」
駐車場へ向かう足を止めると、那生は店の方を振り返りながら呟いた。
「……他人のことには敏感なんだな」
「え、なに? 今、なんて言った?」
車の走行音でかき消された神宮の言葉が聞き取れず、横を歩く顔を見上げたけれど、言い直す気がないのか、神宮はタバコを咥えたあと、紫煙を空に吐き出していた。
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