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一番怖いこと
医局の自席でカルテ入力をしていた那生は、スマホの時計で時間を確認した。予定より早く終わったことに安堵し、白衣のボタンを外して大きく伸びをする。
「神宮が来るまで、まだ時間あるな」
周の事や、奈良崎のこと。それらを考えながら寝床に付く日が増え、加えて忙殺する勤務に那生の体を悲鳴をあげていても、眠れない夜を過ごしていた。
机に突っ伏して軽く目を閉じると、一瞬で睡魔に襲われそうになる。ただそれは見せかけで、眠れないのはもう日常になりつつあった。
冴えた脳を刺激する最大のネックは、親友である神宮の存在だった。否応なくとは言え、連むのは高校を卒業して以来で、那生は一緒にいることに異様な緊張感を消せずにいた。
白衣の腕を枕にすると、潜るように那生は顔を埋めた。
熱を帯びる瞼の裏にリバイバルされるのは、高三の時に犯した後ろめたい罪。
高校を入学してクラスが一緒になり、出席番号の席順がきっかけで神宮とは仲良くなった。
一年生の間は自分の中に芽吹く感情の正体に気付けず、時は過ぎてそれは二年生でクラスが離れた後に蕾は綻んだ。クラスが離れても親友でいてくれる神宮に対し、邪な感情を自覚して苦悩する日々が続いた。自分の心なのに、それを持て余しているところへ、とどめをさす両親の死。
祖父母も鬼籍に入っていたし、兄弟もいない。保護者になってくれた名前だけの親戚だけを頼りに、住居も進学も何とかなり、担任や友人にも恵まれた。
けれど、那生の心はずっと孤独だった。
拠り所が欲しくて、誰かに必要とされたくて、神宮に想いを告げようかと、何度も逡巡した。でも、口にすれば『親友』を失ってしまう。それが一番怖い。神宮まで失ってしまうと、自分と言う人間が壊れそうに思えた。
だからこの想いは封印した。
そのまま卒業して、親友との縁を細い紐で繋ぎ止めたことに満足して、でも、その紐が切れることを恐れて自ら離れた。
「恥ずいな、俺は。思い出しただけで自己嫌悪だ……」
脳裏に蘇ったあの出来事を思い出し、那生は勢いよく顔をあげた。
あの日を堺に、神宮の態度をよそよそしく感じた。気のせいかも知れない。けれど、そうじゃないかも知れない。そんな僅かな変化ではあったけれど、そのことも諸々含め、距離を置いた理由でもあった。
受験を控えていたのが、よかったのか悪かったのか……。
「何が恥ずかしいんです? 才原先生」
あれこれと過去を振り返って、ひとり反省会をしている姿を、同僚に見られていた。
これはかなり恥ずかしい。
「藤輪 先生。お疲れ様です。先生も休日出勤ですか」
パソコンの前で打ち拉がれている那生に声をかけて来たのは、消化器外科医の藤輪マリだった。
細身の体に白衣を纏い、艶のあるショートカットの隙間から覗く、ダイヤのピアスがよく似合うハンサムな女医は、那生に煎れたての珈琲を差し出してきた。
「いえ、私は当直で。それより才原先生夢でも見てたんですか?」
涼しげに微笑む相手から珈琲を受け取る瞬間、那生の尾行を香水の香りがくすぐる。さすが医局一の美女で才女。仕事中でも抜かりない。そんな彼女と医局で那生は二人きりだった。
「いや、そ、そうです、夢。悪夢を見てしまって」
軽く会釈して珈琲の礼を言い、那生はへばり付いた喉を潤すよう口に含んだ。
「お疲れなんですね。大丈夫ですか?」
「まあ。でもこの紹介状が仕上がったら帰って寝ますよ」
「そっか、残念。お昼一緒にどうかなって思ったのに」
那生と反対側の椅子に座り、キャスターを転がしながらマリがさり気なく肩を並べてくる。
「す、すいません……」
上目遣いで見つめる猫のような眸は、健全な男子なら腹の底が疼き、興奮が湧き上がるのを押さえるところだろう。でも女性に興味のない那生に、その魅力は何の効力もなかった。
「あ、よかったー。才原先生ここにいた! 山下さんの手紙できました?」
病棟看護師が那生の姿を見つけ、安堵した表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「大丈夫、紹介状出来たから。封筒に入れて山下さんに渡しといて」
コピー機から出て来た、完成したばかりの用紙を那生は看護師に渡した。
「先生は忘れないとは思ったんですけど、ピッチ繋がらなかったし、山下さんも急かすから板挟みだったんですよ」
若さを武器にする看護師が頬を膨らせると、怒ったフリを那生に見せてくる。
「ああ、ごめん。電源入れてなかった」
可愛らしく拗ねる仕草をすると、看護師は「もう」と言いながら手紙を受け取り、足早に医局を出て行った。
「フフ、先生はモテモテね」
上品な微笑みでマリが意味深に見つめてくると、「じゃ、また誘います」と肩を叩き、自席へと戻って行った。
香水の匂いが苦手な那生は、マリから解放されると、こっそり深呼吸した。すると、机の上に置いてあったスマホがアラームで振動して、待ち合わせの時間を告げてくる。
「やば! 時間だ」
慌ててスマホを掴むと、医局の奥にある更衣室で白衣を脱ぐと、ロッカーに押し込んでパーカーに首を突っ込んだ。
甘くて苦い想い出に気を取られていたせいか、神宮に会うのが急に気恥ずかしくなる。
ざわざわした気持ちを払拭するようロッカーの扉を閉めると、足早で医局を後にした。
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