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消したい過去

 将来の目標とは違うと言っても、手術中での周の不甲斐なさは見られたもんじゃなかった。心ここにあらずと言う言葉は今日の周にあるように思い、那生は郷司にそれを気付かれないよう振る舞うので必死だった。 「すいません。那生さんの顔に泥を塗った感じになってしまいました……」  四聖病院からの帰り道、真剣に凹む周を不憫に感じ、そんな表情をさせてしまったのは自分にも責任があると、那生は今日軽はずみに病院へ同行させた事を反省していた。 「周君が悪いわけじゃないよ。俺が誘ったんだし、何かあったらそれは俺の責任だ」 「いえ! 那生さんは悪くないです。俺が伊織の事ばかり考えていたから」  スッキリしない気持ちで落ち込む二人は神宮と待ち合わせている、みつが池公園に到着すると、現場へと侵入できないよう規制線が張られた物々しい景色に目を奪われた。  本当に事件が起こったんだと、黄色のテープが禍々しく揺れているの見ると、那生は無意識に唇を噛み締めていた。 「那生さん、どうかしましたか」  周に指摘された時、ちょうど車のクラクションが聞こえ、待ち人が来た方へ視線を向けた。 「あ、神宮が来た。周君、行こうか」  見慣れた車が路肩に止まり、窓を開けた神宮が乗車するよう合図を送ってくれた。 「どうだった? 四聖の手術は」  神宮が車を走らせながら、助手席に座った那生に聞いてくる。 「やっぱり病院が変わると微妙に施行方法も違うね。指導者が違うからかな」 「そっか──って後ろの奴は、何凹んでんだ?」  バックミラーで沈む周が気になったのか、神宮が視線を前に置いたまま、耳打ちしてきた。 「あ……あの、実はさ──」 「先生! 伊織がいたんです。俺声かけたんですよ。でも何も言ってくれなくて……」  突然運転席の背もたれにかぶり付き、周が訴えている。 「急にデカイ声出すな、危ない」 「す、すいません」  伸びきったシートベルトと共に座席に戻り、叱られた子供のように周が大人しくシートに沈んだ。 「『伊織』って奴に会えたのか。前に言ってた人物がそうだったのか?」 「うん、周君はそう言ってる。でも向こうは表情も変えず黙ってたから本当かどうかは……」  ひそめた声で問われ、那生も同じトーンで、返事をした。落ち込んでいる周に、二人の声が届かないように。 「そうか」  神宮のひと言を最後に、エンジン音だけが主張している中、車は周のアパートに到着した。 「送っていただいてありがとうございます、先生」 「ああ。また学校でな」 「周君、あまり落ち込まないで。俺でよかったらいつでも話聞くからさ」 「はい……ありがとうございます」  窓越しに励ます那生と神宮に頭を下げると、足取り重くさせながら周が部屋へと帰って行った。不安を与える後ろ姿に、これからどうすれば周の願いは成就されるのだろうと、那生は大きな背中を見届けながら考えていた。 「重症だなあいつ。けど、小学生の記憶なんて忘れてる方が普通だろうけど」 「そう……だけど。違ってても、もう少しリアクションあってもいいのに」 「人違いって事なんだろ、その『伊織』は」 「……だな」  忘れてる方が普通……か。  あのことを神宮が忘れていてほしい、そう何度願ったかわからない。  状況は違うと言っても周の姿と自分を重ねてしまい、窓ガラスに映る、勇気も出せずにいる情けない顔を見つめていた。 「那生が凹んでどーする。それよりあっちの方は何かわかったか?」  周がいては出来なかった話を振られて、那生は我に返った。 「やっぱり深く話を聞き出すのは難しかったよ。郷司先生に婦人科の先生を紹介してもらったんだ、産科にも転科するか迷っているって理由で。けど、患者を特定して聞き出すのは無理だった。安易に考えてたよ……」 「じゃあ、栞里さんの勤め先に明日一緒に行ってみるか。土曜だしお前も休みだろ」 「え!」  呆然とした表情で神宮の横顔を凝視し、すぐに返事ができなかった。『一緒に』と言う言葉にあからさまに動揺してしまった。 「……何か予定でも?」  運転する神宮が涼しい声で問いかけてくる、大したことないだろと言うように。 「い、いや平気。ただ朝一に様子みたい患者がいるからそれからだったら……」 「分かった。病院に迎えに行くよ」 「迎えに?」  ずっと耐えていた鼓動鋭く跳ねた。 『迎えに行く』と言ってくれたことに、食い気味で喜ぶ浅ましい自分がいる。それを恥じた那生は、アクセルを踏んだままの神宮から目を逸らした。  きっと今、顔中に嬉しさが炙り出されているはずだから。 「十一時くらいで平気か?」 「へ、平気! ありがと……」  隠しても見えてなくても、身体から発酵する熱がきっと神宮に伝わっている。高揚する頬が横目で悟られてしまう。こんなリアクション、好きだと告白しているようなもんだ。 「お前のマンション確かこの辺りだったよな。前は夜だったからあんまり覚えてなかったな」 「そ、そうだよ。あ、そこの角のコンビニでいいよ、そっからすぐだから」 「……そうか」  ひと言だけ口にした言葉を最後に、神宮がコンビニに駐車をした。車窓の景色が静止すると、サイドブレーキを踏む音が那生の心を冷静にさせた。 「ありがとう、神宮。わざわざ悪かったな」  シートベルトを外し、那生はドアを開けた。 「話聞きたかったし、大学に行くついでだったからな。じゃ、また明日」 「ああ、また明日」  シンプルな挨拶を交わした後、去って行く神宮を見送りながら、ささくれに触れた時のような痛みが那生の胸に走った。  四聖での話が早く聞きたかっただとか、大学に行く用事があってそのついでだとか、そんな優しい理由でわざわざ自分達を迎えに来てくれたことが腑に落ちなかった。ただ、都合のいいようにだけ考えまいと、自分に強く言い聞かせるのを念押しした。  きっと、生徒である周が心配だったんだと……。  ハザードランプが数回点滅する灯を見送りながら、いつまでもその場を動けずにいる那生の体を、冷たい風が懲らしめるように駆け抜けて行った。

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