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根源

 群青の空気に溶け込むように、唇から放たれた紫煙を溜息と一緒に吐き出した。  牽制して怯える伊織の心を自然に解した那生に、相変わらず相手の心へと寄り添うことに長けていると、神宮は感心していた。  高校の時から那生の、人懐っこくて無邪気で、優しくて。でもどこか繊細で、時々わがままなところは、神宮の好きなレシピがちょうどいい具合にミックスされた性格で、今でも変わっていないことを嬉しく思った。  スモッグで星など一つもない空を見上げ、神宮は懐かしい思い出を群青の空に描いた。  高校に入学したとき、神宮は初めて『奇跡』というものを味わった。  この高校に進学して本当によかったと、普段なら祈らない神を崇め奉った。  高校の三年間は本当に幸せだった。  好きなやつの側にいられることが、こんなにも嬉しいこととは思わなかった。  那生と離れたくなくて、一緒の大学を選んだまではよかったが、考えが甘かった。  目指す目標が違うと、こうも会えないのかと何度も後悔していた。 「いっそのこと。俺も医者を目指せばよかったな」  夜空にもう一度溜息を託し、那生への気持ちが玉砕したの出来事を思い返していた。  あの日、教室で見た那生の高揚した顔が神宮にはたまらなく可愛く見え、それと同時に友人にも嫉妬した。  自分の思いを伝える前に壊れ、遅かったと後悔した最悪の日……。  燻る煙が夜空にたなびくのを見届けるよう眺めた視線の先に、見たことのあるが神宮の目に入った。  ──あんな車、ここへ来た時にはなかったよな……。  玄関を出て外の廊下にいた神宮は、三階にある周の角部屋の位置から少し移動し、死角になる場所に身を潜めた。  隙間から見下ろした先の道路にエンジンのかかったまま停車している車が気になり、もう少し近くで見ようとした時、玄関のドアが開く音がした。 「神宮、そろそろ入れば? 風邪ひくよ」 「那生、今──」 「ん? 何」 「いや、何でもない。あいつら寝ちゃった?」 「ああ、うん。今ね」  廊下から見下ろした車が気になりながらも、周達を起こさないよう、神宮は部屋に入ると静かにドアを閉めた。 「もうすぐ夜明けか……」  周の横で寝息をたてる伊織の髪を撫でながら、那生が溜息を吐いている。 「ね、神宮。伊織君の左の手のひらに傷があるんだ。多分、自傷行為だと思う」  眠る伊織の手をそっと開け広げ、無数にある創傷の痕を見せてきた。 「自分で? 間違いないのか」 「多分……。彼、右利きだから左にしか付けれないし、それに一番深い傷は最近のものかも」 「……こいつは一体何に苦しんでるんだろうな」  父親に対しての怯え、自傷行為の痕。クーラーボックスに入った胎盤。それから事件のことも。  伊織が話してくれない以上、彼が何を恐れているのかこちらにはわからない。 「自傷行為の背景には、周りに悩みを打ち明けられなくて、一人でその悩みを抱え込んでしまうってのが根っこなんだ。自己評価も低くて、親の期待に対して追いつかなかったりでさ」 「こいつにもそれが当てはまってんのか?」 「不確かだけどね。自分が傷つくのは当たり前だとか思ってるのかも。それとも、自分が愛されているかどうか確かめたい方法かも。けど、それを確認することも出来ないってまた傷付けるんだ」 「こいつの闇は深いって事か……」 「それに、神宮ここ見て」  眠る伊織の首元を指差し、那生が神妙な面持ちをした。 「何だこれは」  伊織の白いうなじに、何か文字の様なものが薄っすらと青く見えた。 「何だろう、これ。アザでもないし」 「……刻印みたいだな」 「刻印! やめろよ、そんなこと言うの。まるで──」  続く言葉を飲み込み、那生が口を真一文字に結んで下を向いてしまった。 「……にしてもやっぱ那生は詳しいな。研修とかで心理学も習うのか?」 「あ、いや。それは──」  言い淀む那生が、上げかけた顔をまた伏せてしまった。 「それは、なんだ?」  那生の顔を見て、那生の言葉で聞きたいと願いながら神宮が尋ねた。 「……それは俺が、精神科の先生に誘われたからだよ。そん時は本当に精神科医を目指そうかとも思ったけど。やっぱり手に技術を付けたいと思ってね」  少しの間が生まれた後に答えたことが気になったが、今、那生に自分の中で燻る色々な思いをぶつけるのはやめた方がいい。そう自分に言い聞かせ、神宮は話をクーラーボックスの中身へ戻した。 「な、それよりアレどうする」  翳をさした那生の顔を気にしつつも、神宮はクーラーボックスを指さした。 「伊織君は異常者じゃない。それだけはわかってるんだ。でも周君の話だと返り血? みたいなのが顔に付いていたって言うし」 「直接手を下してはないかもしれない。けど何らかの形で犯罪に関わっていることは間違いないだろうな」  神宮が考えあぐねいていると、真顔で一点を見つめる那生が目に入った。 「那生、お前また首を突っ込もうと考えてんだろ。やめとけよ、周がなんと言おうが、伊織君のことはやっぱり警察に任せた方がいい」 「でも……」 「でもも、へったくれもない。彼は殺人に加担してるかもしれないんだ。こっから先は警察に任せるんだ。あの南條ってちょっと頼りないけど、あの刑事ならきちんと話を聞いてくれるだろう。だから──」 「あ、あの……」  眠っていたはずの伊織がいつの間にかベッドから起き上がり、二人をジッと見つめている。 「ごめん、起こしたな」  返事をする代わりに、伊織が首を横に数回振っている。 「何か話があるんだろう」  神宮の言葉に、今度は迷いながら伊織が首を縦に振った。 「ここに座りな」  那生がソファの上からクッションを下ろすと、その上に座るように示した。 「……僕、あの」 「君の話せる言葉で、本当のことを話しくれればいい」 「そうだよ、ゆっくりでいい。ちゃんと聞くから」  もしかしたら、伊織は起きて二人の話しを聞いていたのかもしれない。  そんなことを考えながら、神宮は膝を抱えたまま言葉を選んでいるような伊織を眺めていた。 「あのクーラーボックスの中身……、あれは僕が女の人の体から取り出したものです」   推測していたとは言え、はっきり本人から聞くとかなり耐え難い事実だった。 「君が殺害して、胎盤を取り出したのか?」  神宮の言葉を受け止めたものの、次の言葉を紡ぐことに躊躇してるのが見て取れる。 「ぼ、僕は、こ、殺してませ……ん」 「じゃ、誰がやったんだ?」  唇を真一文字に結んでしまった伊織の背中に、那生が手を添えている。すると、闇に覆われていた眸に光が差したかのように伊織が瞬きひとつしたあと、神宮と那生を見据えてきた。 「あ、兄……です」 「兄? 君の兄って瑞季か?」 「知ってるんですか……あ、モデルやってるからか」 「モデル? そう言えば、周君と一緒に君を探してた時に聞いたような……」 「そう、だったんですね」 「で、その瑞季が異常犯罪者ってことなのか? それとも女性に特別な恨みでもあるのか?」 「異常、ある意味そうなのかも知れません」 「どう言うこと?」 「……兄は人を殺す事に何の抵抗もないんです。ある日を境に兄は変わってしまいました」 「ある日? もう少し詳しく話してくれないか」  腕を組みながら神宮が聞くと、迷いの消えた顔つきで伊織が伏せていた睫毛を持ち上げた。 「兄は高校一年の時、スカウトされてモデルの仕事を始めました。その年の夏休みに泊まりの仕事だと言って家を開けるまでは、明るくて優しい兄でした。二週間経ったら戻ってくると笑顔で言って……」  心なしか涙声のように声が聞こえる。そんな伊織に反応した那生が、傷だらけの手を握り締めている。あの手に握り締めてもらうと、不思議と心が豊かになったのを神宮はふと思い出していた。 「二週間後に帰って来た兄は別人になっていました。傲慢で乱暴で、数秒毎に性格が変貌してしまう、出かける前とはあまりにもかけ離れた粗野な性格になってました。優しくて、賢くて、モデルになってお金を稼いで、い、医者になるんだって言った、そんな兄は消えてしまったんです」  きれいな茶色の瞳から大粒の涙が目の端から溢れ、抱えていた膝に模様をつけていく。  嘘をついているようにも思えないし、ましてや作り話しにも聞こえない。  これまで細い体で、不可視な荷物を必死で背負ってきたのだ。そう思うと周じゃなくても何とかしてあげたくなる。 「性格が豹変した原因って何か知ってるのか? 伊織君は」  無言で首を左右に振り、雫がキラリと飛び散った。 「でも父が秘書と話していたのを聞いて、よくわからない事を言ってました」 「お父さん? 四聖病院の院長だね」 「はい。父は『瑞季は成功したけど、伊織は麻酔薬でアナフィラキシーが出たからダメだった』と言ってました」 「アナフィラキシー? アレルギー反応でショック死したりする、あれのことか?」  声を張って答えた神宮は、那生にシーっと人差し指で唇を押さえられた。 「神宮、周君が起きるだろ」 「あ、ああ悪い。で、君にアレルギーがあったってこと? でもそれで何が違うんだ」 「多分だけど、伊織君に何かがあって、麻酔を使う治療をしないといけなかったんだ。でも投与した途端、ショック状態になった。違うかな……」 「多分、合ってます。僕が高一の時、交通事故に遭って病院に運ばれたことがありましたから」 「そのとき麻酔を使ったのか……」  那生の問いに伊織は小さく頷いた。 「頭を打って何針か縫ったんです。その時ショック症状が出たとあとで聞きました」 「投与されて過敏反応が出たんだな」 「でもその事故の後から、精神科の先生にカウンセラーを受けるよう父から指示があって。ずっと定期的に受診してたんです。受診後の記憶はいつも曖昧で、よく覚えてないんですけど……」  今まで誰にも話せずに抱えてきたのか、助けを乞うように伝えてくる伊織の表情は、今にも泣きそうに見える。神宮は乱暴な言い方をしてしまった自分を反省した。  過去の事故後に始まった精神科医からのカウンセラー。そして記憶障害とアナフィラキシーに兄の変貌……バラバラのパズルを前に、神宮も那生も考えられることを頭の中で張り巡らせていた。 「伊織君、君にこんなことをさせているのはお兄さんか?」  神宮がクーラーボックスに目を向けたまま、伊織に聞いてみた。 「い……いえ。兄じゃ──」 「じゃ、父親か」  神宮のひと言で、伊織の身体はわかりやす過ぎるぎるほどに硬直した。 「父親なんだな、君にあんな事させてるのは」  繰り返し尋ねると、伊織の体が震え出し、でもグッと奥歯を噛み締めたような顔を見せると、大きくハッキリと頷いていた。 「どんな理由でも、人が人にさせていいことじゃない。ましてや親が我が子の手を犯罪に染めさせるなんて……」  怒りを露わにする神宮の手の中で、テーブルに置いてあった煙草の箱が握り潰されていく。無惨に潰された箱に気付き、神宮は感情的になってしまったのを反省するかのよう、バツの悪そうな顔で箱の歪みを直した。 「僕の知ってることはこれで全部です。朝になったら警察に行きます。行ってこの話をします。だから、その……」 「大丈夫。一緒に行くから。な、神宮」 「気が変わったら困るしな」  ワザと憎まれ口のように言いながらも、潰れた箱を手から落とすと、そのままの流れで伊織の頭を撫でた。 「あ……ありが……」  本来の年相応な顔をようやく見せてくれた伊織は、小さな子供のように泣きじゃくっていた。

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