「郷司先生、もうそれやめて下さい。その香りを嗅ぐと僕、せっかく思い出したことを忘れそうになる……」 　カーテンが引かれた薄暗い部屋の中には、郷司お手製のイランイランとラベンダーを配合した香りが漂い、壁際に置かれた水槽の中ではクラゲの陰影が伊織を眠りに誘おうとしてくる。 　いつもと同じ香り、同じ光景。けれど今日は違っていた。体がベッドに縛り付けられていたのだ。 「伊織、もう治療はこれで最後になる。だから言うことを聞くんだ」 　振り返った男──郷司が注射器を手に、伊織のそばで微笑んでいる。 「い、嫌だ。もう忘れたくない。やっと少しずつ思い出したのにっ」 　瞳を潤ませながら、必死で郷司に懇願した。 「へえ、昔のこと思い出したの？　それは院長も困るよね。だから僕は捨てられるんだ」 「ご、郷司先生、お父さんや兄さんがやっていることを知ってるの？　ぼ、僕のしてることも……」 「ああ、もちろん知ってるさ。本当は伊織も瑞季と同じように変えたかったんだけどね。まさか麻酔薬でアナフィラキシーになるとは予想外だったよ」 　郷司が注射器の中に液体を仕込んでいる様子を見ながら、伊織は必死で体を動かした。 　手は動きを封じられていたが、足は縛られていない。 　これからされる行為をなんとか防ぐよう足を動かし、迫ってくる郷司を跳ね除けようとした。だが、体格差とアロマのせいで拘束から抜け出せない。 「せ、先生。に、兄さんに何をしたの、ねえ先生！」 「静かにしろ、伊織。もう最後だって言ったろ？　大人しく治療されてよ。俺はこれから最後の手術が待ってるんだからさ。ここで挽回しないとマジで院長に見限られるんだ」 「い、嫌だっ。やめろよ！」 　残った力で抵抗を試みるも、力で覆い被さる郷司には何の効果も発揮しない。何もできないまま袖をたくし上げられ、注射針が伊織の腕に差し込まれようとした。 　伊織は足を使って渾身の力を込め、縛られている上半身を持ち上げると、目の前にあった郷司の手におもいっきり噛みついた。 「痛ってっ！　何しやがる、大人しくしてろ、伊織っ！」 　痛みで手から注射器を落とすと、郷司が慌てて転がってしまった注射器を探している。 　その隙に伊織は身を捩らせると、体の一番細い腰の辺りまでズリ上がり、僅かにできた拘束帯の隙間から腕を出すと、拘束帯を引きちぎってベッドから飛び降りた。ドアノブに手をかけた瞬間、郷司に飛びかかられそうになり、伊織は体当たりするように、郷司を突き飛ばして部屋を飛び出した。 「くっそ、あのガキ！　待てよ、伊織。まだ治療の途中だろーが」 　注射器をポケットに入れながら、郷司が追いかけてくるのを肩越しに見ながら、おぼつかない足取りで走った。 「ど、どこなんだ、ここは。那生さん……那生さんを助けないと」 　今、自分が何階にいるのかさえ不明瞭なまま、息絶え絶えに鍵の開いている扉を見つけると伊織はそこに入って身を潜めた。 「いーおーりー。いーおーりーちゃーん、どこだー」 　緊張と恐怖で思わず声をあげそうになるのを必死で堪え、伊織は両手で口を覆うと息を止めて目を固く閉じた。早く、早くどこかへ行けと願いながら。 　だが、その祈りは虚しく砕け、絶望を味わすように、鈍い音をさせながら扉が開かれてしまった。 「いたー。いおり君、みーっけ」 　不気味に笑うと口の隙間から八重歯が光り、郷司の顔が間近に迫ってくる。 　窮地に立たされた伊織は恐怖で両眼を閉じると、頭を抱えて心の中で何度も那生に懺悔した。 「うわっ！　だ、誰だお前──」 　体に触れていたはずの郷司の感触が消え、不気味な気配が遠ざかると、争う荒々しい音と声が聞こえて伊織はそっと目を開けてみた。 「あ、なたは……」 　伊織の視界に郷司の上に馬乗りした神宮が飛び込んできた。 「伊織君、無事か」 「じ、神宮先生！　どうして」 「後でゆっくり話すから。それよりこいつ誰？」 　神宮の下で口を塞がれ、踠(もが)いている郷司の手から、神宮は注射器を取り上げた。 「お、お前、それをどうするんだ！」 　目の前にチラつく注射針に怯える郷司が慌てふためいて叫んだ。 「神宮先生、その人は父の仲間で医者です！　兄もきっとこの人に何かされたんだと思います」 「ふーん。あんた、この中身何？」 　注射器を郷司の腕に近づけると、神宮が今にも針を突き刺そうとしている。 「や、やめろ！　う、打つな！」 「その反応からすると中身はヤバそうだな。伊織、そこのカーテン引きちぎって持って来い。それを細く裂くんだ」 　言われるがまま伊織は思いっきり力を込めてカーテンを引っ張り、神宮の指示通り指でビリビリに裂いていった。 「よし、これくらいで平気か」 　神宮が郷司の体をカーテンでぐるぐるに巻き付けると、身動きの取れない状態でその場に捨て置いた。 「先生、那生さんが、那生さんがっ」 　伊織は泣きじゃくりながら、那生の名前を繰り返し呟いた。 「泣くな伊織。那生を探すぞ」 　小さな子供のようにしゃくり上げる伊織の頭を、神宮が慰めるようにそっと撫でた。 「き、きっと那生さんに手術か何かするんだと思います。さっき父がオペ室へ運ぶよう話してました」 「手術？　何だそれ！　オペ室ってのはどこだ」 　伊織の両肩を掴み、血相を変えて神宮が怒鳴った。 「ご、ごめんなさい。僕もここに来たの初めてで場所が分からないんです」 「くそっ！　とにかく下に降りるぞ！　伊織、急げ」