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狡猾

「郷司の奴おせーな」  オペ室で待機していた瑞季は退屈そうにあくびをしながら、眠る那生の頬をメスでピタピタと叩いた。 「瑞季さん、本当に傷が付いたら困りますからやめて下さい」  部下の一人に言い含められ、瑞季はつまらなそうにメスを投げ戻し、椅子を思いっきり蹴飛ばした。荒々しい音に混ざって、携帯電話の音が鳴る。 「はい、こちらの準備は出来て——あ、はい。承知致しました。直ちに向かいます」  部下が相手に何やから指示をだされたのか、何度も頷いている。電話をしていた男が、話しを進めながらもう一人の男を手招きしていた。 「父さんだろ? 何て言ってた?」 「侵入者です。ちょっと見て参りますので」  男はもう一人の部下を残して、早足でオペ室を出て行った。 「侵入者って、何でこの場所がバレてるんだ。お前らテキトーな仕事やってるんじゃないのか! 郷司も郷司だ。伊織ごときに何を手を間取ってんだ」  苛つく感情が体に充満し、八つ当たりされた部下は瑞季の凶暴性に警戒して、思わず後退りしていた。 「何、お前ビクついてんの」 「い、いえ私は何も……」  壁際に追いやられ、部下が逃げ場を失っていた。 「あー、イライラする。最近人殺してねーからな!」  座っていた椅子を足蹴にし、感情をぶつける瑞季の目は、常軌を逸していた。 「瑞季さん、落ち着いて下さい。こいつが起きてしまいます」  那生が眠っているのもお構いなしに、部下の静止を振り払い、瑞季は目に入ったもの全てに怒りを当たり散らして暴れていた。  殺伐とした音と人の声がオペ室から漏れてくる。  自動扉に大きな文字で『1』と書かれた手術室で何が起こっているのか、部屋の向かいにある物品倉庫から僅かな隙間から息を潜め、神宮は中の様子を伺っていた。  この中に那生がいるのか……。  さっきから騒がしい扉の中に誰がいるのかわからない。  時折何かに反応して、開閉を繰り返す自動扉から中を覗くと、二、三人の人影が垣間見えた。  もっと近くで確認したかったけれど、神宮一人だと分が悪いのははっきりしている。中に那生がいるかだけでも確かめられればと、チャンスを伺っていた。 虚しく刻々と時間が経ち、苦慮していたそのとき、自動扉が反応して中から男の声と、激しい音と共に椅子が転がっているのが見えた。  神宮は薄氷を踏む思いで倉庫の隙間の幅を広げると、体勢を変えながらオペ室を食い入るように見た。  男の怒号が聞こえると、程なくして中からスーツの男が電話をしながら部屋を飛び出してどこかへ行ってしまった。  人数が一人減ったことにと、都合よく転がって来た椅子がセンサーに反応して、扉に接触する度に閉じることができず、開閉を繰り返している。  神宮はこの偶然を、天が味方してくれたように思えた。  椅子が挟まったおかげで、手術室の中を見ることができると、食い入るように中を注視した。  手術室の中の明かりは十分あって、部屋の中央に設置された手術台に横たわる人を確認することが出来た。  神宮は体半分を倉庫のドアから出すと、ベッド上の人間を確かめようとした。  自動扉のセンサーが再び反応して、扉が最大に開いた瞬間、倉庫を出て手術出を見ると、やはりベッドに横たわっていたのは那生だった。    那生だ。眠っているのか。頼む、無事でいてくれ……。  薬か何かで眠らされているのか、那生が目を覚ます気配はない。  それとも、もう……。いや、そんなことは絶対にない。大丈夫、那生は生きている……。  気弱になる心を奮い立たせ、神宮は廊下の先で待機している伊織に合図を送った。視線に応えるよう、無言で頷いた伊織がそっとスマホを操作し、神宮に親指を立てて見せる。  神宮はゆっくりドアを全開にして外に出ると、目を付けていた点滴用のスタンドをそっと持ち上げ、閉まりきれずに半開きになったドアの隙間に投げ込んだと同時に手術室へと躍り出ていった。 「だれだ! お前!」  突如現れた神宮を前に、瑞季が咄嗟にメスを手にして身構えている。 「名前を尋ねるときは自分からって習わなかったか」  わざと飄々と振る舞う神宮は、獲物を狙い舌舐めずりをする瑞季を嘲笑して見せた。 「誰だか知らないけど運が悪かったなぁ。俺は今、無性に人を切り刻みたかったんだ」  メスを愛おしそうに指で撫でる瑞季の狂気に満ちた顔を見ながら、神宮はこぶしを固く握り直し、横目でベッドに横たわる那生の姿を確認した。 「こっちは素手なんだ凶器はズルいだろ。それともそれが無かったら戦えないのか?」  わざと瑞季の闘争心に火を付けるよう煽り、じわじわと間を詰めて行く。 「こいつは私が始末します。瑞季さんはこの場を離れてください」  部下らしき男が瑞季を制止し、神宮の前に立ちはだかろうとした。 「へえー、庇ってくれる人がいてよかったな、瑞季君とやら。それじゃお子様は隅っこで震えてろよ」 「っんだと、おっさん!」  神宮の挑発に触発されたのか瑞季が再び激昂して、周りの物に当たり散らしている。 「瑞季さん、こいつの言うことなんて真に受けないでください!」 「うるせー! お前は黙ってろ。コレは俺の獲物だ邪魔すんじゃねえ!」  既に忘我を生じている瑞季に男の声は届かず、抑制が効かない状態で本能のままメスを振りかざし、飛びかかって来た瑞季の腕を神宮は防御した。 「お前、細っこいのに……結構力あるん……だな」 「喋んな。その顔にぶっ刺してその血を早く啜らせろよ」  油断すると持ってかれそうになるのを必死で押えながら、神宮は横目で部下の動きを見た。 「瑞季さん、今『犬』をこっちに向かわせてます」  さっきからどこかに電話していた男に余裕の顔を向けられ、神宮は思わず舌打ちをした。 「は! あんな出来損ない。いても何の役にも立たねーよ。余計な事すんなつったろ!」  神宮をやり込んで切り刻もうとしてくる瑞季の一瞬の隙を狙い、神宮は油断した腹部へと思いっきり蹴り付けると、瑞季の体を吹き飛ばした。 「瑞季さん!」  慌てた男に背後から掴みかかられそうになるのをスルリと(かわ)し、神宮は再び襲いかかってくる男の鳩尾(みぞおち)に回し蹴りを浴びせた。  手加減などない重い蹴りを浴びた男が、鈍い呻き声をあげると、昏倒した先にある手術台の角に頭をぶつけると気を失ってしまった。 「中坊んときに喧嘩ばっかしてたのが役に立つとはな」  肩で息を吐き、ホッとしたのも束の間、今度は瑞季が目の前でメスを振りかざしていた。 「甘いんだよ! おっさん」  上空に見下ろす刃先が眉間目掛けて振り下ろされようとした瞬間、瑞季の体は吹き飛ばされて、壁にぶつかったのか鈍い音と共に倒れ込んでしまった。 「た……まき、だい……じょう、ぶ」  頭を抱えながら呻き声を上げて蹲る瑞季のそばに、那生が息を切らして立っていた。 「那生! お前──」 「くそ! お前、いつの間に目ー覚ましやがったんだ」  頭部にダメージを受けたのか瑞季が、頭を振りながら手探りでメスを探している。 「い……から、環……今のうち……に」  フラつく体でバランスを崩した那生の体を、神宮は咄嗟に受け止めた。 「なお! お前大丈夫なのか? 何をされた──」 「今は……それどころじゃないだ……ろ。それ……より伊織君はどこ?」  血の気のない唇を震わせながら、伊織の安否を気にする那生に複雑な思いをよぎらせながら、「あ、ああ。伊織は──」と、廊下の先に視線を送った。 「先生! 那生さん! こっちです」  廊下の影に身を隠していた伊織が、二人の姿を見つけると泣きそうな顔をしながら叫んでいる。 「伊織君、よかった無事だったんだ……」 「那生さんこそ、僕……何も出来なくて」 「いいから。とにかくここを離れるぞ」  神宮は那生の体を抱えるように走り出すと、来た道を急いで戻るために階段へ通じる扉を開けた。 「おい! お前ら、逃げられると思ってるのか!」  背後から掴みかかるような瑞季の叫ぶ声が聞こえると、三人は心拍数を跳ね上げながら必死で走った。 「早く! 早く、一階まで行こう」  追ってくる声に囚われないよう、無我夢中で階段を駆け下りた。  脅すように伊織を呼ぶ瑞季の悍しい声に恐怖を感じ、それぞれの足を急かして転がるように三人は一階へと雪崩込んだ。 「た、環、出口どこだ?」 「確かこっちだったと」  記憶を手繰り寄せながら神宮の誘導で進んでいくと、目の前にガラス張りの正面玄関が見えた。 「あ、あった。先生、出口が──」 「いーおーりー。どこ行くんだぁ?」  正面玄関へと続く廊下までたどりついたところで、背中に降りかかる声に三人の足は止まった。  振り返ると、厭らしく微笑んで八重歯を見せる郷司が立っていた。 「郷司、先生」  白衣姿の郷司を前に伊織はガタガタと震えている。那生が伊織の肩を引き寄せると、震える体を自身の背中へと匿った。 「さっきはよくもやってくれたよね、そこのアンタ」 「誰かと思ったらさっきの先生か。せっかく見逃してやったのに、そんなに注射して欲しかったのか」  郷司をわざと怒らせるように言うと、神宮は那生達を隠すように前に立ちはだかった。 「ふん、偉そうな口を叩いていられるのも今のうちだ。今言ったことを後悔するとも知らずに」 「それはこっちのセリフだ、先生」  郷司と対峙する神宮の横に並んだ那生が、もう二度と伊織を奪われないように、その手を硬く握り締めていた。 「せっかく記憶を封じ込める治療をしてたのに、あんた達が伊織を煽動するからこんな反抗的になってしまって。どうしてくれるんだよ」 「やっぱり、さっきの注射で伊織をコントロールしてたんだな」  神宮は叫びながら自身の尻のポケットを意識する。 「ど、どういう事、それ! 今までのはカウンセリングじゃなかったの?」 「やっぱりお前は無能だな」  郷司に気を取られていると、背後から酷薄な言葉が聞こえた。  視線を向けると、部下を引き連れた久禮がいつの間にか三人の背後を取り囲んでいた。 「お、お義父さん!」 「お前の暗示療法の効果はこんなものだったのか、郷司」 「も、申し訳ございません。このところ日常意識の思考に、刺激を与えてる存在が邪魔していたのが原因のようで……」 「言い訳か」 「いえ、申し訳……ございません」  深々と頭を下げ、郷司が君主に平伏している。だが、その俯いた表情は敬意も尊敬も持ってない、情味(じょうみ)のない顔つきをしていた。 「あ、あなたは伊織君に何をさせてたんだ! まだ子どもの彼を犯罪の手先にするなんて、親のすることですか!」  伊織の手を握り締めたまま、那生が久禮を怒鳴りつけた。 「君も目覚めてしまったのか。全くお前の処方はどうなってるんだ、郷司」  小馬鹿にして言う久禮に面と向うことも出来ず、郷司は頭を下げたままだ。 「あんた自分の子供を、好き勝手できるおもちゃのようにでも思ってるんじゃないのか」  那生の気持ちを代弁するかのように、神宮が久禮に突っかかった。 「君が不法侵入者だったのか。飽きもせず気持ち悪いぐらい那生にベッタリだね、神宮は。そろそろ那生を私に譲ってくれてもいいんじゃないか」  声の主が郷司の体を押し退けて現れると、口角を歪めた微笑みで奈良崎が立っていた。横には瑞季の姿もあり、苦虫を噛み潰したような顔を那生たちに向けている。 「奈良崎先生っ!」 「奈良崎……。やっぱりお前もグルだったんだな」 「おいおい、恩師に向かって『お前』は酷いな、神宮。それにやっぱりということは、お前は気付いていたのか。ほんと、抜け目の無いやつだよ」  皮肉めいた口調で、奈良崎が感情を硬化させた笑顔を向けて来る。 「高校の時からお前は那生を気にかけているフリして、何かを企んでるのは想像してた。純粋にお前を慕ってる那生を見る目が卑猥だったんだよっ」 「た、環。どう言う事……だ」  神宮が困惑している那生の表情を一瞥し、次に奈良崎を凝視した。 「正直あんたは、教師として那生を見守っているってこれっぽっちも思ってなかったんだろ? 自分の言いなりになる人間を手に入れようとしてたんだ」 「やはり神宮は鋭いな。お前を先に洗脳しておけばよかったよ」 「大金積まれてもあんたにはなびかないし、寄り付きもしない。悪いけどな」  神宮は奈良崎を鋭い眼光で睨み、那生と伊織を守るように両手を広げた。 「だろうね。やはり僕は那生のような素直でかわいい子がいいね。さ、那生こっちに来なさい。ご両親が亡くなったときに助けてあげたのを忘れたのか」  ユルユルと怪しげに手を動かし、奈良崎が那生を手招きしている。 「那生は渡さないっ。伊織もだっ!」 「高校だけじゃ物足りなくて、大人になってもそうやって那生の護衛してるとは嘆かわしいね。君のその、報われない気持ちを思うと同情するよ」  奈良崎の言葉に怯むことなく、神宮は背中の二人を隠しながら、ジリジリと奈良崎と対峙していた。  膝から崩れ落ちて嗚咽する那生を背中で気にしながら。

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