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刻印
「兄さん、これ見てよっ」
瑞季に馬乗りにされていた伊織が下から兄の顔を見上げて首を捻ると、自分のうなじが見えるようにシャツの襟を引っ張った。
「何だよ、命乞いするならもっとマシな──」
「いいから見てっ!」
震える声で叫ぶと、伊織がうなじに青く記されている刻印のようなものを指差した。
「そ、それがどうしたんだよ」
「僕……思い出したんだ。これを付けられた日のことを」
押さえつけられたまま、伊織が辿々しく言葉を綴った。
「僕には『肆 』って書いてる。兄さんには『參 』だよね」
「……何が言いたい」
瞼を一瞬ひくつかせる瑞季に首を締め上げられる伊織は、圧力を感じながらも諭すように話を続けた。
「こ、これ、兄さんの次が僕って番号でしょ。先に施設を出た人はバラバラだったのに、僕達だけ続き番号なんだよ。それで一緒に久禮の家に来たんだ」
無意識にうなじに触れる瑞季が、自身に刻まれた『刻印 』を確かめるように撫でながら顔を歪めている。
「これを付けられたとき、火で焼かれたみたいに痛くて、熱くて……」
必死に喘ぎながら話す伊織が、肌に喰い込んでいく瑞季の手に自分の手を重ねた。
「ぼ、僕が……痛くてずっと泣いて……たら兄さん、自分も痛いのに僕の首を冷やしてくれて。に、兄さんもな、泣きたかったはずな……のに」
「それがどうした。そんな思い出話今さら聞いたところで──」
「僕たちが! 僕たちの方が『羊』なんだよ、兄さん! こんな刻印されて、まるで施設から出荷された家畜のように……」
心からの叫びに瑞季の手が緩み、両手で刻印を隠すよう首を覆っている。
気道が解放され咳き込みながらも、伊織は殺気が燻りかけた瑞季の手を握り締めた。
「ハ……ハハ。何を言い出すかと思ったら。俺が『羊』だって? お前ならまだしも、この俺が家畜なわけないだろーが。いい加減にしろ! ねえ父さ──」
父親を乞うように久禮を見たが、瑞季の視線の先にいたのは情のかけらもない、他人の顔をした男がほくそ笑んでいるだけだった。
「と、父さん。俺はいつか父さんのあとを継いで、病院で一緒に仕事するんだよな。今こんな事やってるのも病院の……俺達の未来のためだよな」
返ってくる言葉を期待するように久禮の元へ歩み寄り、瑞季がその膝にすがっている。
「俺は『羊』なんかじゃないよな、父さ──」
上質なスーツに手をかけると、瑞季の手は無情にも冷たく払い除けられた。
「触るな、汚らわしい! 得体の知れない孤児のくせに」
「あ、あんた何言ってんだ!」
あまりにも無慈悲な久禮の態度に腹が立ち、神宮が叫んだ。だが、非道な男の態度と言葉は、既に瑞季の心のバランスを奪おうとしている。
「……兄さん」
打ち拉がれる瑞季の肩に、伊織がそっと触れた。
「……めろ」
「兄さん……?」
「やめろ! お前ごときに同情なんてされたくない。虫唾が走る」
「ぼ、僕はそれでも……兄さんが大好きだよ。僕を疎ましく思ってても、優しかった兄さんが本当の兄さんだってわかってるから!」
「うるさい、うるさい、うるさい! 父さん、ねえ父さん、俺殺したよ。言われたとおりにいっぱい。俺はあなたの立派な息子だろ? なあ、いつものように褒めてくれよ! 瑞季は自慢の息子だって!」
久禮に縋っても、瑞季の体は埃でも払うように振り払われていた。
「自慢の息子? そんな言葉は反吐が出るな。それに最近のお前は好き勝手にやり過ぎた。確かにお前は他の犬よりマシだが、暴走してヘマでもされたら、私の計画は台無しだ。そんなお前より、伊織の方が従順で使い勝手がいい。お前はもう何の価値もない廃棄物だ。どこへでも行ってのたれ死ぬがいい」
「お、お義父さん! そんなのあんまりです!」
「俺……より、伊織の……方が……」
打ち拉がれる瑞季を見て、伊織の体が怒りで震えている。
人道を外れたことでも父親が喜ぶならと罪を犯し、成功すればよくやったと頭を撫でてくれる。瑞季も伊織もそれが嬉しくて、何度も何度も血で手を汚してきた。
時折頭をよぎる、人間らしく笑っていた過去を、夢の中の出来事のように闇に捨てて。
犬扱いされて正気を失っても、涙を流していた青年と同じように、瑞季の心の底にも無邪気に笑っていた幼い記憶はまだ心にあるはず。それが今の成長した瑞季の胸を締め付けているのを、側で見ていた伊織にはわかっていた。
伊織には出来ない悪行を変わりにやってくれていたとさえ思え、兄からのどんな仕打ちにも耐えられた。
同じ刻印を刻まれ、大人の勝手な欲望で性格も運命も作り変えられてしまった子どもたち。
傲慢で暴力的に仕立て上げられた瑞季は、まるで呪縛から解放されたように項垂れ、膝から崩れ落ちてしまった。
「那生。こっちへおいで。私の言う通りにすれば神宮を助けてやろう」
目の前で繰り広げられる非現実的な光景に打ちのめされていた那生の耳に、優しい声で奈良崎が囁く。
高校のころ、自分を救ってくれた時と同じ声で。
力の入れ方を忘れた体は神宮の名前に反応し、動けずにいると奈良崎に腕を取られて、那生の体はそのまま郷司の手に託されてしまった。
「郷司先生! やめてください。もうこれ以上失望させないで!」
「ははっ! 笑わせるな。操り人形のくせに偉そうに言うなっ!」
伊織が叫んでも歯牙にもかけず、郷司が那生の体を動かないように羽交締めしている。
「那生っ! しっかりしろっ! 俺を見ろっ!」
愛しい人を守ろうと、奈良崎に身を委ねようとしたとき、神宮に名前を呼ばれた。
奈良崎の本性や、医者の風上にもおけない久禮と郷司。彼らの手によって、人格を、命を奪われた子どもたちを前に心が壊れそうになっていた那生は、大好きな声で我に返ると、奈良崎の手から逃れようとがむしゃらにもがいた。
この手から逃れて、神宮のもとに駆け寄りたい一心で。けれど、奈良崎と郷司の拘束は強まるばかりだ。
「奈良崎! やめろ! 那生を離せっ」
神宮の声も虚しく、郷司に体を背後から捉えられた那生は、腕を奈良崎に引き寄せられると袖をたくし上げられ、注射器をあてがわれた。
かつては尊敬と憧憬で見ていた恩師を、那生は唇を噛み締めて睨みつけた。だが、厭らしく微笑む男は、那生の静脈を弄ぶように撫でてくる。
滴る液体が肌に触れ、戦慄が全身を駆け巡ったと同時に涙が溢れた。
優しかった先生はもういない……。
絶望感に打ちひしがれていると、那生の横から勢いよく飛び込んできた伊織の姿があった。
「うぅっ! な、何をするんだ、こいつっ!」
ぶつかった衝撃で奈良崎の手から注射器が離れ、神宮の足元へと転がっていく。慌てて郷司が注射器を拾おうとしたが、神宮がすかさずその手を蹴り上げて、注射器を思いっきり踏み付けた。
「貴様、余計なことを!」
目尻を険しく吊り上げる奈良崎の手が、伊織の首を締め上げる。
「うぅ……」
「出来損ないの分際で舐めたマネをしないで下さいよ、伊織さん」
頚椎を再び圧迫され、痛みと痺れを感じる中、伊織が奈良崎の指を爪で引っ掻くと、その腕から逃れた。
「僕はどうなっても……いい。でもこの人たちは関係ないんです。どうか助けて下さい」
細くて頼りなげな手でこぶしを作り、それでも必死で奈良崎に訴える伊織を目にし、那生は周の顔をよぎらせた。
周と約束した、伊織を守ることを……。
郷司に捉えられた状態で、那生は今の状況をどう回避するかを考えた。
このままだと伊織はまた手駒として、使い捨ての道具のように扱われてしまう。生き地獄のような場所に、もう二度と戻したくはない。ちゃんと周のもとへ返してやらなければ。
「痴言 を。そこをどきなさい。伊織さんがとやかく言ったところで那生は私の手足になる人間だ。郷司先生、那生を早く連れて行ってくれ」
奈良崎の声に従うよう、郷司が那生の体を引き摺り、奥へ連れて行こうとする。それを伊織が必死で引き止めようとした。
「那生さんを離せ、離せ!」
持てる力の限りで那生を奪い返そうしても、伊織の体は簡単に郷司に突き飛ばされた。それでも諦めず、伊織が体の底から振り絞るような声で叫んだ。
「僕の命なんてどうでもいいんです。だから──」
「では瑞季の変わりにお前が仕事をしなさい。そうすれば希望は叶えてやろう」
ゆっくりと伊織に近付き久禮が髪を掴み上げると、視線を強制的に合わせようとしている。
「瑞季がやっていた事をこれからはお前がやるんだ。こいつはもう用済みだ」
酷薄 な目で伊織を見る久禮が、足元で精気をなくしている瑞季を一蹴している。
「兄さんがやっていた事……」
久禮の言葉が伊織の涙を生み、潤んだ目で父親を凝視している。
その姿に那生は昨夜見た、子どもらしく穏やかな伊織をよぎらせた。
彼を非情な大人の手に渡してはいけない、絶対に。
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