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息子
茫然自失になっている伊織に、久禮が命令を下す。
「では伊織、手始めにその男を排除してみろ」
久禮の指差す先を見た那生は息を呑んだ。
「だ、ダメだ! 伊織君。そんなやつの言う事を聞いちゃダメだ!」
「何を言っている、那生。名案じゃないか。邪魔な神宮がいなくなれば、嬉しくて踊りたくなるねえ」
醜悪が滲みでる微笑みで、奈良崎は那生に頬ずりをしてくる。まるで愛玩具のように。
「や、やめろ。こんなこともう嫌だ! 離せ! やめてくれ、先生」
腕が抜けるほど振り回しても、二人から受ける締め付けは緩まず、那生は自分の体が磔刑 にかけられている感覚に陥る。
「くそっ、奈良崎! 那生を離せ」
暴れる神宮に堅山が力をこめると、呼応するようにもう一人の部下が神宮の動きを止めるよう強固になって襲ってくる。
「ほら、伊織さん。それを使いなさい」
奈良崎の視線が、へたり込んでいる瑞季の側にあるナイフを見ている。それを手に取ることが出来ずにいる伊織に、久禮が追い討ちをかける言葉を放った。
「その男を殺せば、お前を私の息子だと認めよう」
久禮の言葉に反応したのは瑞季だった。
伊織の足元で抜け殻のように萎れていても、心はまだ父親を求めているのか、ナイフを拾い上げた瑞季が刃先を伊織に突きつけている。
「よかったな伊織。瑞季がお前を認めてるんだよ。兄の影でしか生きられなかったお前が、ようやく日の目を見ることができるんだ。早く瑞季からナイフを奪い取って、さっきから偉そうなことばかり言っている男を殺せ。院長の気が変わらないうちにヤる方が身のためだぞ」
郷司が愉快そうに煽っている。
「伊織君、しっかりしろ! こんな男の言うことに惑わされんな!」
喉が張り裂けるほど那生が叫んだ。けれど、伊織は瑞季から強引にナイフを抜き取り、うわごとのように、「お義父さんの息子……」と、おぼつかない足取りで、神宮へと近づいている。
「そうだ、伊織。お前は私のかわいい息子だ。その男を殺せば、これまで通り瑞季と共に私のそばにいればいい。息子として」
久禮の言葉が伊織の足を更に進める。
ナイフを握る手を前に差し出し、震える刃先を神宮に向けた。
「やめろ、伊織君!」
那生が叫んでも伊織の足は止まらず、吸い寄せられるように神宮の前まで行くと、そこで立ち止まった。
「僕……僕の存在価値はこうするしか……じゃないと、また……」
「やりなさい、伊織。私に捨てられたくなかったらな」
久禮の言葉で、伊織がナイフを強く握り直し、腕を上げて振りかざそうとした。
「伊織君っ! やめろっ!」
那生は何度も叫び続けた。
伊織を止めなければ、神宮を傷つけたことでさらに伊織は苦しむことになる。
伊織の持ち上げている腕が震えだし、瞳からはしとどに涙が溢れている。
ナイフは伊織の頭上で止まったまま動かない。
「どうした伊織。私の息子なら私が望んでいることがわかるだろ」
ジレンマに陥る伊織に久禮の声は、深潭へ突き落とすよう悪意に満ちている。傍若無人な言葉で伊織を追い込んでいる。
那生は何度も伊織の名前を叫んだ。
喉から血が出るほど叫び続けた。すると、虚な瞳の伊織と那生の視線がようやく絡まる。次に伊織は、涙を流しながら神宮を見た。
「な、おさ……ん、せんせ、ぼく、僕はどうすれば……」
「院長! あなたは伊織君の手を見た事がありますか! 自傷行為でボロボロになった手を」
苦しみと悲しみがないまぜになって、胸の奥から迫り上がってくる感情を泣き叫びながら久禮に訴えかけた。
那生が見据えた久禮の顔は眉ひとつ動かず、「手がどうした」と、冷笑するだけだった。
「伊織君の手のひらの傷は懺悔の証だ。彼が被害者に謝りながら自分で付けた傷なんだよ! それと……」
ナイフを持ったまま、心神喪失な伊織を見守るように見つめながは、那生は言葉を続けた。
「それと、院長。父親のあなたに認めて欲しくて、愛して欲しくて自分で自分を罰してた傷なんだよ!」
那生の必死の訴えも響かず、久禮の表情は初めて見た時と何も変わらない。冷静で、人に対して何かしらの思いなど何ひとつ抱いていない冷たい目をしている。
一連の流れを眺めている奈良崎も同じ、淀んだ目をしている。そんな二人を目にし、那生は初めて、心底から人を憎む感情を知った。
「うっうう……うっく……」
忘我した伊織の目から留めどなく涙が溢れ、手にしたナイフを再び振りかざした。だがその刃先は伊織自身に向きを変え、腹部を貫こうとしている。
「伊織君! ダメだ! 自分を傷付けるのはもうよせっ!」
「こんな父親 でも、僕は愛されたいって思ってる……だけど、僕はこの人たちを助けたい。だからお義父さん、僕が消えるから。僕が全部の罪を持って行くから、那生さん達を見逃して。どうか、お願い……です」
「やめるんだっ! 伊織君っ! ナイフを離せっ!」
那生や神宮の声を聞きながら、伊織が握り締めたナイフを持ち上げ、固く目を閉じた。そのままの勢いで振り下ろそうとした──その時、伊織の名前を呼ぶ声が聞こえ、刃先が腹部に掠れる位置で止まった。
「いおり! いおりっ!」
何重にも包まれた悲しみの膜を打ち破るような声が、伊織や那生達の耳にはっきりと聞こえた。
診察室が並ぶ薄暗い廊下の奥から、大勢の足音を引き連れて駆け寄る人物は、伊織の憂いた心を解放する懐かしく優しい顔だった。
「あ……まね……」
「周くん!」
全力疾走で駆け込んできた周が肩で息をし、その勢いのまま伊織の持つナイフを振り払った。
「い、いおり。そんなもん、お前には似合わ……ないぞ」
「き……み、どうして」
「たったひとつしかない、お前の命を……あんな奴らのために盾になんかするな!」
渾身の力を込め、喉が張り裂けそうなくらいに周が叫ぶ。陰湿なロビーに曇天を裂くような、眩しい太陽の日差しを思わせる声で。
「……こんな命もう要らない。死ねば寂しさや苦しみから解放される。僕はもう誰かに従うのは嫌だ。消えてなくなりたい」
「ダメだ!」
周が思いっきり泣き崩れる体を抱き締めた。
「あ……まね」
「もっと生きることに執着してくれ。俺がずっと支えるからっ」
さっきまでこびりついていた禍々しい空気が、周の真っ直ぐな言葉で剥がれ落ち、浄化していくのを感じた。
二人の姿を冷めた目つきで眺めている久禮の背後から、周に遅れてやって来た顔に那生は心底から安堵を感じた。
「あ、周く……ん、勝手に行かないで下さいよ、も、おじさんにはキツ……イ」
周の後を追って駆けつけたのは、息絶え絶えになった南條だった。
「誰だお前たちはっ! くそっ! 貴様、離せっ!」
南條と一緒に大勢の刑事が雪崩れ込むと、神宮を抑えていた樫山達をあっという間にねじ伏せた。予測もしてなかったであろう、警察の乱入に奈良崎が取り乱すと、手中にあった那生も南條の手で無事救出された。
逃げるチャンスを失くした奈良崎の悪あがきも虚しく、
「私は久禮に騙されてやっただけの事だ。私は騙されたんだ。私は何も知らない」と、さも濡れ衣だと言わんばかりに、久禮へ責任転嫁している。
罪から逃れようと無様に言い訳を叫ぶ奈良崎は、両脇から刑事に取り押さえられていると、久禮が堪え切れないとばかりに高笑いしている。
「奈良崎さん。あなたにはほんと楽しませてもらいましたよ」
まるで自分は無関係な口ぶりで奈良崎を見下げ、久禮が驕慢 な態度で不可解な言葉を吐き捨てている。
「何を言っている! 全てあんたの指示じゃないか!」
なりふり構わず奈良崎が愚行を擦りつけるよう叫ぶと、久禮が肩を揺らして嘲笑っている。
「あなたは本当に、呆れるくらい単純で無能でしたね」
「なっ、貴様!」
馬鹿にされた奈良崎が久禮に掴みかかろうとしたが、その体は取り押さえられていて身動きができない。
「実の娘をよくもまあ殺させたなと思いましてね。関心しましたよ」
「な、何を訳のわからないことを、栞里は俺の娘なんかじゃ──」
「人ってのは甘い恩恵をチラつかせると、それが方便であっても気づかないものなんですね」
「ど、どういう事だ」
南條達が目を光らせているそばで、久禮が言葉をツラツラと吐き続けた。
「私の妻と君の奥さんが生まれた子は、浮気してできた子だと話していたのを君は盗み聞きしてしまった──確かそんな話でしたよね」
「そ、そうだ。あの女は清楚なふりをして私をずっと騙していたんだ」
「自分は男、しかも教え子に手を出そうとしていたことを棚に上げて勝手だね。私は君の奥さんに同情すら覚えるよ」
久禮の吐き出す言葉には節々に含み笑いが込められ、喜劇でも見ているかのように笑いが止まらないといった姿は、その場にいる人間、誰しもが異常を感じていた。
「な、何がおかしいんだ!」
「その浮気の話しは私の妻のことだったんですよ。どこでどう聞いたら自分の妻が浮気したと思うのかね。君にも後ろめたさがあったからじゃないのか」
「な、何を言ってるんだあんた。そんな根も歯もない話し──」
「私の妻は浮気をして他の男の子どもを孕んだ。それを親友のお前の奥さんに相談していたんだよ」
久禮の言葉で奈良崎の顔はみるみる歪んでいく。肌からは血の気が失せていた。
「う、嘘だ。栞里はあいつが浮気し──」
「許されないですよね、浮気だけではなく子どもまで孕んだと聞けば。死んで償ったとしても、私を裏切ったことへの贖罪にはなり得ないのに」
他人事のように話す久禮とは相反し、奈良崎の表情は精気を失っていた。
久禮の話が真実なら、奈良崎が手にかけて命を消したのは、血の繋がった実の娘とまだ見ぬ孫なのだ。
「っそんな話はでたらめだっ!」
「あなたは自分の血を受け継いだ実の娘を手にかけたんだ。見てておかしくて笑いを堪えるのが大変だったよ」
形相が変わって行く奈良崎が、叫びながら久禮に掴みかかろうとした。
「お、お前は悪魔だ! 分かっていたなら何故、なぜ、なぜ教えないっ!」
衝撃のあまり奈良崎がその場に四つん這いになり、体の中のものを全て吐き出すように嘔吐した。
「黙っているのは当たり前でしょう。その方が私にとって都合がいいからですよ」
蛇蝎のように冷たい目をし、久禮が奈良崎を愉快げに見下ろしている。
「久禮院長、あなたは人間じゃない。人間ならこんな冷酷無残なこと出来るわけがない」
久禮の作る凄惨 な世界が、計り知れない抉れた闇を作り出したのだと、那生は悲しげに罪人を見つめた。
「言いたい事はそれだけか。人の命なんてものは儚くてそれ以上に心は脆く移ろいやすい。それを愛などで救えるとでも思うのは無能な人間の考える事だ。私の妻が貞操を守れなかったのがいい証拠だ」
「久禮院長、あなたはもしかして奥さんを……」
「私の言うとおりに出来ないものは排除する他ない。妻の醜い言い訳を聞いた時、気がつけば私の足元には腹の子と一緒にあの女が朽ち果てていたよ」
「く、狂ってる……あなたは畜生以下だ!」
言葉にして虚しくなった。精神が異常を来している久禮には、何を言っても無駄だ。那生は泥濘に沈むような感覚に陥った。
「大丈夫か、那生」
倒れそうになる体を神宮がそっと支えてくれる。
人が与えられる思いやりや温もりは、久禮や奈良崎の中からはとっくに消えていたのだ。
「お、おとう……さん」
伊織が伝う雫を拭おうとせず、久禮を見つめている。
義理とはいえ親子関係を築いてきたのに、久禮の目は息子に向き合おうとはしない。
「妻が死んだおかげで商品を生み出すきっかけになった。こればかりはあいつに感謝しないとな。死んでから私の役に立ったのも皮肉だがね」
「商品? それは何だ」
南條が問いただすと、久禮から返ってきた言葉に耳を疑った。
南條や他の刑事たちの怒りが周りの空気を熱していく。
「ええ、商品ですよ希少価値のある。だから世の分限者達の目に留まった」
「く、久禮さん、あなた一体──」
「粗野で、下品で貧しい人間を利用価値のあるものに変えてやったんだよ『羊』にね」
「あんたさっきから何を言ってんだ!」
人道に外れた物言いの久禮に、神宮が突っかかった。
「吠えるだけで何も生み出さない。これだから低俗な人間は困る。あの羊たちから獲れる胎盤には希少価値がある。新鮮なものを手に入れ、それを乾燥させ、サプリメントに加工する。それを摂取すると、美と長命の恩恵にあやかれる。そう信じている人間は、アレを手に入れる為ならみんな惜しみなく金を積んできたよ」
「……胎盤、サプリメント?」
「もう……この人は人間じゃない」
その場にいた那生や神宮、警察陣もみんな言葉を失った。
「順調だったんですがね。子供たちも羊の入手に慣れてきたところだったのに」
「久禮さん。あなたの罪は重い。四聖病院に問い合わせして分かった事もあります。署でゆっくりと聞かせてもらいますよ、奈良崎さんあなたにも」
信じ難い言葉に身震いしながらも、南條が久禮の手首に鉄の枷を付けた。
「久禮雄三、監禁、及び殺人未遂の容疑で逮捕する」
真正面から久禮を見据え、南條が手首を拘束した。
久禮を確保した南條がギョッとした表情になるのを見て、那生も彼が見ている方へ視線を向けると、那生は思わず両手で口を覆った。勝手に涙があふれてくる。
そこには、支えられなければ歩けない奈良崎が口からヨダレを垂らしていた。目の焦点は合わず、口の中でぶつぶつと何かを呟いている。
かつては信頼を抱いていた恩師の変貌に、那生は涙せずにはいられなかった。
奈良崎のあとに続く久禮にも異常を感じる。
飄々とした態度で刑事達に連行されて行く久禮に、なぜか哀れさを見た。
久禮も奈良崎と同じように、悪に手を染めたきっかけが愛する人の裏切りからだった。
深い愛と憎悪は表裏一体、紙一重の違いなのだ。
けれど、彼らが注いだ愛は屈折し、大勢の被害者を生み出した。
そんなものは、もはや愛でも何でもない。ただのエゴだ。
刑事達に連れて行かれる姿が消えるまで、那生は彼らを見つめ続けていた。
「神宮さん、那生さん。助けに来るのが遅くなって本当にすいませんでした」
大勢の警官が慌ただしく現場を駆け巡る中、南條が那生と神宮に歩み寄り頭を深々と下げた。
「いえ、助けに来てくれたんです、礼を言うのはこっちの方ですよ。本当にありがとうございました」
那生はホッとした気持ちで、満面の笑顔を向けた。
「でも、何でこの場所がわかったんです? 神宮も南條さんも」
考えても何の手掛かりもないこの場所に、どうやって辿り着いたのか、ずっと気になっていた。その質問を待ってましたと言わんばかりに、南條が興奮気味で食いついてくる。
「那生さん、凄いんですよ神宮さんは。奈良崎が怪しいから見張ってくれって、昨晩僕に連絡してくれたんですよ」
「本当? 環、何で先生が怪しいって思ったんだ?」
驚いた那生は自分も同じように行動していたにもかかわらず、神宮の着眼点に瞠目した。
「昨夜、周のアパートの外で煙草吸ってたろ? あの時あいつの車を見かけたんだよ。まるで俺達を監視するみたいに止まってた」
「そう……だったんだ。でもよく覚えてたな、先生の車なんて。さすが神宮だな」
「だろ?」
圧倒的なドヤ顔を向けられ、調子に乗るなと、秀麗な顔に釘を刺した。
常に冷静で視野が広い。高校の時からずっとそんな神宮をそばで見てきた。
そんなところも、どうしようもなく焦がれてしまう理由だった。
「刑事の面目丸潰れです。だから余計に心苦しいんです、もっと早くあなた達を救出したかった」
「本当ですよ、南條さんもっと早く来てくれないと。もう少しで伊織にやられちゃうとこでってあれ、伊織は?」
伊織と周の姿が見えず、閑散としたロビーを那生と神宮が見渡した。
「あ、あそこ……」
那生の指差す方向に、手当てを受ける伊織に寄り添う周の姿が目に入った。
「南條さん。伊織も罪に問われるんですか」
那生も気がかりであったその言葉を、神宮が先に尋ねてくれた。
「……どうでしょうか。彼は今、十九歳ですから特定少年に当てはまります。家庭裁判所がどう判断するかわかりませんが、もし逆送されて起訴されると、成人と等しい罪状が課せられます。死体損壊罪や殺人幇助 でおそらく……」
「そう……ですか」
寄り添う二人の姿を見つめながら、那生はポツリと呟き、神宮も黙ったまま彼らを見つめていた。
「神宮さん。上司を説得するのに時間かかって突入が遅くなってしまい本当に申し訳ありませんでした。お二人が無事で心底ホッとしてます。ちゃんと手当てして下さいね」
大きな体をコンパクトに折り曲げると、南條が改めて謝罪し、伊織の方へと去って行った。
「っとに、俺の計画は無茶苦茶だ……」
「今何て言った? 聞こえなかった」
いつの間にかほどけていた髪をクシャクシャと乱しながら、神宮が脱力したようにその場に蹲ってボヤいている。呟く声は小さく、那生の耳には届かなかった。
「いや、心臓縮んだなって話だ」
膝を抱えた状態で呟くと、神宮が溜息を原動力に立ち上がった。
「環、ありがと、助けに来てくれて。環が来なかったら今ごろ俺は瑞季君と同じ目に合ってたかも知れない……」
真正面から神宮の瞳を捉え、那生は感謝を口にした。
「那生……」
「でも、本当にショックだった。奈良崎先生のこと、まだ信じられないよ」
信頼し、慕っていた奈良崎の本性を目の当たりにし、那生のショックは計りしれないものだった。まだ那生の中には優しい恩師がいて、自分に笑いかけている気がする。その姿が浄化しきれず、思い出の中や心にもまだ張り付いていた。
「人ってのはわからないもんだな……」
神宮がポツリと溢したけれど、那生は何も言葉が返せなかった。
まだ心のどこかで、奈良崎を信じている自分がいる。そしてそんな自分を、甘い人間だと、叱責するもう一人の自分もいる。
奈良崎を説得出来たのではと、後悔する自分もいる。
もし、神宮のように強ければ、瑞季君も心が壊れなかったかもしれない。
何にも動じない強靭 な心が欲しい。自省が尽きないでいると、頬に視線を感じ、横を向いた瞬間、神宮と目が合った。
「何?」と、問いかけると、初めて見る表情を向けられた。
目が泳ぎ、どこか落ち着かない様子だ。焦っているようにも見える。
「どうかしたのか」
もう一度聞くと、「今日……」と、会話の始まりを想像させる言葉が紡がれた。
「この後、お前の家に行っていいか。那生のメシ食いたいし、話も……ある」
予期せぬセリフに那生が瞠目していると、さっきまで揺れていた瞳が那生を真っ直ぐ捉えていた。
返事がすぐに出来ず、馬鹿みたいに口を半開きにしていると、「沈黙は肯定だな」と言われた。
瞬時に理解できなかった言葉が、砂に水が染み込むようにジワッと那生の中に浸透してくる。
惨劇が繰り広げられた建物の静謐を背中に感じながら、那生は錘 を付けて沈めていた気持ちにケリをつけようと決意した。
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