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第一話「夕闇の再会」
夕暮れが、世界を濁していた。
橙と群青が溶け合い、時間の輪郭がぼやける。
立食パーティの会場は、香水とアルコールの匂いにまみれている。
グラスが触れ合う音、作り笑いと退屈な会話が行き交う。
安心院ますみは壁際で紫煙をくゆらせ、群れる人々を冷めた目で眺めた
視線の先に、飾り物のように微笑む女たちの群れがあった。
虚ろな張り付いた表情。「昔はモテた」「若返りたい」、そんな言葉がグラスの中に揺れていた。
――ああ、くだらない。
「可愛いね」「綺麗だね」そんな言葉に何の意味がある?
同窓会など、ただの社交辞令の延長だ。
誰が話しかけてきても、適当にあしらえばすぐに去っていく。
やがて誰も近寄らなくなり、かわりにひそひそとこちらを窺うようになる。
無遠慮な視線が肌にまとわりつく。周りの声を追い払うように、タバコの煙がゆらゆらと立ち上がる。
今すぐにでも帰りたい。なぜこんな気まぐれを起こしたのか。こんな無駄なことに、自分の時間を割くつもりなどなかった。
――そう思った、その瞬間だった。
この世で最も鬱陶しい声が、安心院の耳を叩いた。
「やあ、ますみ先生」
煙が揺れる。赤い火が白い肌を照らす。タバコの苦いにおいに、ツンとするアルコールと甘い香水の香りが混じる。
目線だけで男を一瞥する。派手な髪色、ピアス、サングラス。ルーズに崩したスーツの隙間から、薄い胸元が覗く。
赤い目が、スモークの奥から獲物を絡め取るように見据えていた。まるで蛇の目だ。熱も体温も感じない視線が、無遠慮に皮膚の下を這いまわる。
男はこちらの許可も取らずに慣れた様子で隣に立ち、薄っぺらい笑顔をサングラス越しに向けてくる。それに目も合わせず安心院は問う。
「誰だ貴様は」
「覚えてないかな? 高校のクラスメイトだった黛祥吾くんだよ、忘れちゃった?」
……黛祥吾。
記憶の底に沈んでいた名を引き上げる。
女生徒に限らず、他校の生徒、果ては教師にまで手を出していたと噂された、軽薄で狡猾な男。
だが、こいつの異質さはそこではなかった。
ただのステータスとして自分を求めた連中とは明らかに違った。
黛の目は異常だった。こちらを値踏みしているような、蛇が獲物を狙うような視線。その目を向けられ、名前を呼ばれるたびに、背筋に冷たいものが這い上がった。
だからあの時、「近寄るな」「視界に入るな」と突き放した。
それでもこの男はいつの間にかすぐそばにいて、甘い毒を含んだ声で自分の名を呼んだ。それが何よりも恐ろしく、そして屈辱だった。
「もしもーし」
黛は細身の体をかがめ、わざとらしく覗き込んでくる。
安心院はタバコを深く吸い、目線をずらした。
多めに吐き出した煙が白くぼやけるが、この男の派手な色味だけはどうしても消えてくれなかった。
「相変わらず見苦しい格好だな」
「そう? 結構かっこよくない?」
黛が照明の下でギラリと輝く。
左側の大量のピアスを指でなぞり、にっこりと笑った。
「下品だとしか思えんな」
「ありゃ、お気に召さなかったかな」
冷たい言葉を投げても、黛は意に介さずグラスを傾ける。
乾杯を申し出てきたが、安心院は無言でタバコに口を付けた。
「私に何の用だ」
「ますみ先生ってさ、最近話題の小説書いてる人でしょ?」
「だとしたら何だ?」
「有名人じゃん、一応サインもらっておこうかなーって」
「断る」
「つれないなあ」
黛は残念そうな顔をするが、離れる気配はない。
安心院はタバコを持つ指先に力を込める。
もう何度もこういう馬鹿どもと話してきた。
だがあの頃と変わらず、黛は微塵も退こうとしない。むしろ距離を詰めてくる。
黛は余裕の表情で酒を飲み、唇についた雫をちろりと舐めとる。濡れた赤い舌が蛇に見えた。目を逸らしたいのに、逸らせなかった。
「でもまさか、君があの安心院ますみ先生だなんてね」
「……」
「人間の怖さや破滅を書く話題のオカルトホラー作家様が、まさかこんな美少女だなんて誰も思わないでしょ」
「……貴様、何が言いたい?」
タバコが真っ二つに割れる。茶色の葉がぱらぱらと白い床に落ちていった。黛は床を軽く蹴ってそれを散らす。
「そんなに睨まないでよ、正直な感想を述べただけさ」
「不愉快だ。今すぐ、私の目の前から消えろ」
「あれ、もしかして気にしてた? ますみ先生てさ、見た目は超可愛いのに、中身は悪魔どころかクソ以下だって、みんな言ってたよねえ?」
これくらいの戯言、いつもなら無視できたはずだった。ただの冗談だ。こんな言葉のあしらい方など当の昔に心得ている。
なのに、喉の奥が焼け付いて、胸が痛くて、舌先に血の味が滲んできた。
「御託はいい、消えろ」
声が震える。タバコのフィルターにくっきりと歯形が付く。空になっていたソフトボックスは、安心院の掌の中で簡単に形を変えていく。
「ますみ先生は怒っても可愛いね」
「冗談抜かせ」
「いやマジで。昔から思ってたけど、君、怒るときの顔めっちゃ色っぽいよ?」
黛の言葉とその目に、安心院の心が引き裂かれるような感覚を覚える。
目の前に、子どもの頃の屈辱的な記憶がちらついた。無理やり作らされた笑顔、見つめ合うことを強いた目、触れられるたびのねっとりした不快感。美しさだけで評価され、支配されることへの嫌悪感。
その嫌悪と記憶が重なった瞬間、背筋を撫でる冷たい手となって安心院の逆鱗に触れた。
安心院はカクテルグラスの細い足をぎり、と強く握りしめる。
黛はくつくつと低くのどを鳴らしながら、グラスの酒をまた一口飲む。
「でもさ」
直後、黛の声の温度が下がった。
す、と潰れてしまったタバコを指さす。
「君、それだけは似合わないね」
甘くて、氷のような、妙に優しすぎる声。生暖かいそれが安心院の耳に刺さる。
周囲の音が消えた。黛の顔がやけにはっきりと映る。心臓を直接撫でられたかのような不快感。鼓動と彼の言葉だけがうるさく響く。
細められた視線。好奇心と悪意を隠さないあの目。高校時代、自分を絡め取ろうとしていた赤い蛇の目だ。あの頃の怒りと恐怖がよみがえる。
身体がかっと熱くなり、こみ上げる怒りが血管を焼いた。頭の中で限界を迎えていた何かが、音を立てて砕け散る。
手の中のグラスをテーブルに叩きつけると、鋭いガラスの破裂音が会場に響き渡った。振動が床を震わせ、同級生たちの視線が一斉に突き刺さる。安心院は黛を睨みつけてはっきりと怒鳴った。
「失せろといったのが聞こえなかったのか、貴様は!?」
場が凍り付く。しん、とした静寂が店内を支配した。
昔話に花を咲かせていた同級生たちの視線が刺さる。怪訝な目、怯えた顔、野次馬根性を覗かせる下衆なもの。
――ああ、何もかも不愉快だ。
檻の中にいる動物を見物するような視線。くだらない、馬鹿馬鹿しい。胸の奥がむかついてくる。
これ以上、ここにいる意味も理由はない。頭からすっと血の気が下がっていくのがわかる。
横で高まる甘ったるい声を無視して、安心院はコートを着た。
「……帰る」
冷たく、低い声で一言だけ吐き捨てる。コートがひるがえる音だけが響いた。
その一言に会場はさらに凍りつき、誰もが息を呑んだ。
それを気に留めることなく安心院は無言で歩き出す。黛は安心院の後ろ姿をじっと見つめた後、当然のようについてくる。
「おや、もう帰っちゃうの?」
「貴様には関係ないだろう」
「まだ話したいことがあるんだけどなあ」
「やかましい、私に構うな」
後ろから黛の声が追いかけてくるが、安心院の歩みは止まらない。全てをシャットアウトして、会場の出口に向かって足を向ける。
――もう、これ以上何も聞きたくはない。何も見たくもない。
そんな思いを胸に、安心院は檻から抜け出し、外の冷たい空気へと飛び出す。
会場を出ると、冷え切った風があたる。静かな夜が広がる。道の向こうに遠く灯る街灯が目に入る。今はそれが心地よく感じられた。
安心院はすべてを振り払うように肩をすくめた。
何もかも、もう終わったことだ。
あんな愚かな奴らのために、わざわざ自分の時間を浪費する必要などなかった。社交辞令とはいえ、こんな馬鹿馬鹿しい会に参加した自分のきまぐれに腹が立った。
それでも、あの男――黛の顔がどうしても頭から離れなかった。
あんな軽薄で最悪な奴と、二度と会いたくなかったのに。どうしてこんな形で再会してしまったのか。思い出すだけで胸がざわつく。
何を言われてもどうでもいいはずだったのに、黛の言葉が何故か突き刺さって離れない。
安心院は頭を振り、足を速める。落ち着かない心を紛らわせたくて、上着のポケットに手を入れる。そこにあるのは潰れてしまったソフトボックスだけ。そういえば先ほど切らしてしまったのだった。思わず深いため息が漏れる。
新しいものを買わなければ、と目線を周囲にやる。無心で歩いていたせいか、気づいたら繁華街のビル街がだいぶ後ろに見えていた。
その時、背後から誰かの指先が安心院の肩を押した。心臓が跳ねる。思わず足が止まる。
振り返ると、そこには悪魔がいた。
「ひどいなぁますみ先生、僕のことおいていくなんて」
「…………は?」
わけがわからなかった。あれだけ拒絶して無視したのに、追いかけてきたというのかこの男は。外気で冷めたはずの心が、また沸騰していく。
「なぜ貴様がここにいる?」
「いやなんでって、君が出て行っちゃったから」
「ついて来いと言った覚えはないが?」
「だから僕も勝手についてきちゃった」
全てを煙に巻くような笑顔に、安心院は頭痛に襲われる。視界がぼやけ、黛の声だけがやけに鮮明に響く。耐えがたいほどの苦痛をなんとか飲み込み、安心院は立ち止まって黛を見る。
「貴様に用はない、だからとっとと去れ」
安心院はたった一言、冷たく吐き捨てた。心臓が早鐘を打っているかのようにうるさい。一刻も早くこいつから離れたかった。離れないと、なにか取り返しがつかないことになるような予感がした。
この話はもう終わりだと、安心院は無駄な動きをしないように足を動かす。しかし黛の手がそれを阻む。挑発するように触れてくる手に、安心院の眉間のしわが一層深くなり、怒りがまたこみあげてくる。
「ついてくるな鬱陶しい」
「たまたま行き先が一緒なだけ、そうでしょう、ますみ先生?」
「貴様……!」
また声を荒げてしまう。黛は口角を冷たく歪め、それを待っていたかのように軽やかな口調で続ける。
「ほらほら、せっかくの可愛いお顔にしわができてるよ」
黛は安心院の眉間のしわをほぐすように、指先で強くぐりぐりとしてくる。皮膚が突っ張って、押されたところが冷たくなる。
弧を描く黛の赤い目は、安心院の反応全てを楽しんでいるかのような、いたずらっぽい輝きが宿っていた。
その様子に自身の感情がどんどん膨らんでいくのを感じる。理不尽だ、とわかっていても止められない。
「何がそんなに面白い?」
ギロリと鋭く黛を睨むが、黛は動じずにやりと笑う。
「君にはちょっとわからないかな、ごめんね?」
「本当に変わらないな、貴様は」
黛の言葉がますます気に障り、安心院の目はどんどん険しくなる。しかし黛は「おお、怖い」と軽く受け流し、まだ余裕を見せ続ける。
「変わらないなら、ますみ先生だって同じじゃないか」
「何が言いたい」
「だってさ、無理してるでしょそれ」
「…………なんだと?」
心臓が、一拍遅れた。
安心院の中の怒りが徐々に不信感に変わる。この男が今何を考えているのか、やはりよくわからない。お前なんて見透かしていると言わんばかりの目に、ぞわりと悪寒が走った。
「君の反応は昔から本当に面白いんだ、まるで何かを隠しているみたいでさ」
「私に隠すことなど」
「あるさ、僕にはわかるんだ」
黛の愉悦に歪んだ顔が月夜に照らされる。暗くなっても、あの赤い蛇の目は安心院をはっきりと映し出していた。
「――僕はね、人の感情を見るのが好きなんだ」
黛の囁くような声が、ねっとりと耳にまとわりつく。
「特に君が必死に否定しているときの顔、一番そそる」
「人を馬鹿にするのも大概にしろ」
「馬鹿になんてしてないさ」
「……じゃあ、なんだというんだ」
安心院の足が半歩下がる。黛は距離を保ったまま、言葉を紡ぐ。
「君は高校時代から、誰とも違う目をしてた。僕にとってずっと興味深くて、特別だったんだ」
息が詰まる。一瞬、この男が何を言っているのか理解できなかった。自分の心に沸き上がる感情が怒りなのか、それとも別の何かなのかもわからなくなる。
だがひとつだけ確かなのは、またこの男に付きまとわれるということ。これ以上自分の世界を侵されるなど、まっぴらごめんだった。
「私は貴様に興味なぞない、とっとと帰れ馬鹿が」
「やだよ、僕も目的があってここにいるんだ」
冷たい空気が肌に張り付くように、じわじわと押し寄せてくる。恐ろしい予感が胸を締めつける。何かがじっと静かに待ち構えている気がした。逃げ出したいのに、足は動こうとしない。
気づけば、黛の顔がすぐそこにあった。息のかかる距離。計算しつくされた笑顔が、目の前に広がっている。
「僕と君でなにかが生み出せる、そう確信してるんだ」
黛がまた一歩踏み出すと、その顔に影が落ちる。
足元がぐらつき、必死に踏みとどまることしかできない。寒さが体を包み込んでいるのに、指先だけが妙に熱を帯びている。
低く、ゆっくりと、確かめるような囁きが安心院の耳を撫でた。
「だからさ、もっと見せてよ、ますみ先生?」
黛がにい、と口角を歪める。ぞっとするほど艶めかしい笑顔。
これだ。学生時代の自分はこの表情が恐ろしかったのだ。この男には何を言っても無駄だった。だからこそ厄介だったのだ。
視界がブレる。ざり、とコンクリートと靴底がこすれる。冷や汗が止まらなくなる。息苦しさが喉を締め付け、冷たい汗が背中を伝う。
不気味に笑っていた黛は急に表情を計算された自然な笑顔に変え、安心院の心理を読んだのか両手をあげる。少し大げさに肩をすくめ、数歩後ろに下がった。
「ごめんね、君を怖がらせるつもりはなかったんだ」
黛は一息おいて、落ち着いて優しく話す。
「まどろっこしいのはやめるよ。僕は今フリーのアーティストで、作品製作のためにネタ探ししてるところなんだ」
あまりにも違い過ぎる黛の態度に、思わず面食らってしまう。
だが安心院の理解よりも先に、黛は続けた。
「ますみ先生は僕が美術部だったってこと、覚えてる?」
その言葉に、そういえば何かの賞をもらった、というのを全校集会で言っていたような記憶がよぎる。しかし黛が学生時代なにをしていたかなど知らなかったし、興味もわかなかった。なにより十年以上前のことなど、覚えていない。
安心院の態度を予想していたのか、「だろうね」と黛は困ったように笑った。
「とにかく僕、今ちょっと行き詰まっててさ」
「私には関係ないだろうが」
「いいから聞いてよ、ますみ先生にちょーっとだけ協力してほしいんだ」
「そろそろはっきり言ったらどうだ」
安心院の催促に、黛は挑発的な笑みを浮かべる。
「僕は君を"描きたい"んだ」
安心院は黛の言葉を飲み込みながら、じっと彼を見つめた。
少し黙ってから、安心院は冷静に口を開く。
「つまり、貴様に私を差し出せというのか」
「まあ、大体合ってるよ」
「……ふん、なるほどな」
黛の言葉を聞いて安心院は腕を組み、視線を暗い空に向ける。
過程がどうであれ、黛の魂胆はわかった。だが、安心院にとってそれはどうでもいいことだったし、許せないものだった。
「……全く、くだらんな」
安心院は口元に冷たい笑みを浮かべる。くしゃくしゃになったソフトケースが手のひらの中で更にぐしゃぐしゃに潰れていく。その感触が、妙に生々しく指先に残った。まるで、何か取り返しのつかないものを握り潰してしまったように。
「貴様は本当にくだらないな」
安心院は黛をまっすぐ見据え、深いため息をついた。
「何を言おうが私の気は変わらん、絶対にだ」
「それはどうかな?」
「試してみるか?」
ばち、と二人のあいだで火花が散る。しばらくにらみ合い、先に視線を外したのは黛の方だった。ふい、とそっぽ向いて、彼は肺にためていた息を吐きだす。
「じゃあ仕方ないな。ほら、とっとと僕の前から消えなよ」
野良犬でも追い払うかのように手の甲を振る。黛の目にもう安心院は映っていない。脅威は去ったというのに、安心院の心のイラつきは取れなかった。
だが相手が去れというなら好都合だ。安心院は足を繁華街の方へと向ける。遠くに見える灯はまぶしかった。
「本当に行っちゃうの?」
背後から黛の声が聞こえる。足がつい止まる。
「消えろといったのは貴様の方だぞ」
白い息とともに返答を吐きだす。振り返らずに、黛が望んだとおりに前へ進む。だが、背後からじわりと迫ってくる気配が、触れないギリギリの感覚で身体にまとわりついてくる。
「何だ、またついてくるのか? そんなに私が恋しいか?」
安心院は振り返ることなく、冷ややかな口調で言い放つ。無駄にしつこい黛をあざ笑ったのに、心のうちにある不安や苛立ちが言葉の中に混ざる。
「先に失せろって言ったのは君の方だろ?」
黛の声が耳元で軽やかに響く。
わざと煽ってるのだとわかっている。だがあの蛇のような目がまた自分を見透かす気がして、振り返りたくなってしまう。そんな自分を安心院は必死に抑え込むが、欲望は押さえれば抑えるほど強くなっていく。
「面倒な奴だな……」
つい、そんな言葉が口から漏れた。
黛の足音が近づいてくる。ずっと無視し続けていれば、やがてこの胃の奥の違和感も消えてくれるのだろうか。それでも黛の足音は、安心院の頭の中でずっと響き続ける。
「僕に構う気がないなら、そんな風に逃げちゃだめだよ」
ついに、黛の声がすぐ近くで聞こえた。背後に迫る影。冷えきった耳に、温かい吐息がかかったような気がした。
安心院の肩がびく、と揺れる。足を進めても、妙に軽やかな足音が粘着質に絡んでくる。追いかけてくる気配が、影のようにぴったりとくっついてくる。
「しつこいぞ」
冷徹をまとって、安心院は低い声で呟く。決して振り返りなどしない。だが、心の中に焦りがじわじわと浸食していく。
「逃げるわけじゃないでしょ、ただ歩く方向が違うだけだよ」
黛の声が再び背後から届く。
その一言に、安心院は思わず立ち止まった。
「何を言っているんだ貴様は」
つい反応してしまう自分が腹立たしい。しかし振り返ることもできない。振り返ってしまったら何かが変わるような気がして、どうしてもできなかった。
黛は一歩、また一歩と距離をつめてきて、安心院の耳元で囁くように言った。
「ますみ先生、僕を避けようとしても、どうしても気になるんでしょ?」
その声に、安心院は目を閉じた。確かに少しでも黛が近づけば、心がわずかに動く。だがそれが何かを理解したくない自分がいる。
「……やはり、くだらんな」
安心院がもう一歩強く踏み出す。黛はそれについてこない。
「逃げても変わらないよ。どうせまた会うんだ」
「またか……」
黛の予言めいた言葉に、安心院は苦々しげに顔をしかめた。
心の中で呟いただけなのに、つい口に出てしまった。だが黛の言う通りなのだろうか。彼の言葉を無視できなくなっている自分がいる。
黛が前にでて、少しずつ二人の距離が開いていく。無意識のうちに、安心院の青色の瞳はその背中を追っていた。
「もう一度聞く。黛、貴様はなぜ私に構う?」
黛はその問いに振り返ることなく答える。
「それは、君が僕の作品に欠かせないからさ」
淡々と言われたそれが、鋭利な刃物となって安心院の心に突き刺さった。刺さったそれを引き抜くより先に、安心院の顔に皮肉な笑みが浮かんだ。
「言ってろ、阿呆が」
安心院は黛と逆方向を向いて歩きだす。影は追いかけてこない。吐いた息が白くもやとなりその場に残る。
「やれるものならやってみろ」
怯えることはない、どうせすぐ飽きるだろう。
こんなのただのくだらない遊びだ――この時の安心院は、そう吐き捨てた。
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