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第二話「溶ける距離」

 あの同窓会から数日、安心院と黛は顔を合わせていない。  編集部との打ち合わせが長引いたこの日、疲れとともに、あの夜の黛の言葉が胸にじわじわと沈み込んでいた。  胸にのしかかる重さを振り払うために、安心院はお気に入りの喫茶店へ訪れた。  古びた店内の木のにおいと、窓際の三番目の席に差し込む光。そこに座る時間だけが、思考の波を穏やかにしてくれる。 だからこそ、扉を開いた瞬間に聞こえた声に、眉が跳ね上がった。 「おや、ますみ先生、やっほー」  窓際の特等席には、見慣れた派手な髪が陣取っていた。無邪気に手を振る姿に、安心院の疲れが一気に膨らむ。 「……貴様、なぜここにいる」 「んー、なんとなく?」 「ふざけるな。そこは私の席だ」 「いやいや、ここは僕のお気に入りの席だから。ていうか、先生こそいつもここ座ってるけど、予約でもしてるの?」 「私の座る席が"いつも"同じだと知っている時点で、偶然など通用しない」  黛はくつろぎきった姿勢のまま、へらへらと緩んだ顔をしている。  安心院は眉間を押さえ、こめかみを軽く指で叩く。 「というか、横が空いているだろうが」 「先生、そんなにここがいいんだ? しょうがないなぁ、膝貸そうか?」 「誰がそんな罰ゲームのような選択をするか」  黛は自分の膝をぽん、と叩く。  呆れながらも、安心院は黛の向かいの席に腰を下ろす。   黛はメニューを楽しそうに見て、ちらとこちらを見てくる。丸い目がこちらを見定めているように、じっと見てくる。  黛の視線が刺さるのを感じながら、安心院は買っておいた新聞を広げる。すぐにウェイターが水とおしぼりをテーブルに置いた。 「ご注文はお決まりですか?」 「ブラック、ホットで」 「じゃあ僕はパンケーキとサンドイッチ、ミルフィーユ、チーズケーキ……あとチョコパフェもね」  横から当たり前のように大量注文する黛に、ウェイターが一瞬動揺する。 「結構な量になりますが……?」 「大丈夫、ちゃんと食べられるから」  困惑するウェイターに、黛はウィンクをする。引き下がるしかなくなったウェイターは「かしこまりました」と言って、厨房へ駆け足気味に戻った。  安心院は新聞を一ページめくる。黛は紙ナプキンで鶴を折り始める。  天井のスピーカーから流れるジャズの音色が、妙に耳に残る。スプーンがカップを叩く音、店主が豆を挽く音。いつもなら心地よく流れていく音たちが、今日は妙にざらついて聞こえた。  安心院は新聞の活字を追いながら、ふとさっきの注文を思い返す。  チョコパフェにパンケーキ、サンドイッチ、ケーキ三種。どう考えても普通の人間が食べる量ではない。  黙っておこうとしたが、やはり気になる。見なかったことにしようとしたが、どうにも引っかかる。  「貴様、胃袋に穴でも開いているのか?」 「え、心の話? それとも物理的な話?」 「貴様の場合、どっちもだ」  黛が目を輝かせてこちらを覗き込んでくる。  新聞をめくる手に力がこもる。 「そんなに食って、何を満たしたい?」 「さあ、なんだろうね。欲望に忠実な方が楽しいじゃん」 「貴様の血液はさぞ甘いだろうな」  しばらくして、黛のテーブルがスイーツで埋め尽くされていく。  ふわふわのパンケーキ、具材がはみ出すほどのボリュームを持ったサンドイッチ、ケーキ三種の鮮やかな色どり。そして極めつけはチョコパフェ。真っ白な生クリームと、とろりとしたチョコソースが溶け合う、いかにも甘ったるそうなそれ。  黛は無邪気にフォークを取り、無邪気にスイーツを口に運ぶ。口の端についたクリームを舌でぺろりと舐め取り、至福の表情を浮かべる。  とても幸せそうなのに、安心院の喉はわずかに詰まる。  店内に漂う甘いにおいが鼻腔を犯す。とろける砂糖の香りに、整然と並んだ活字が歪む。  無意識に、指先でテーブルをトントンと叩いていた。 「先生、さっきから指すごいよ。タバコ吸えないストレス?」 「余計なお世話だ、誰のせいだと思っている」  黛はスプーンをくるくる回しながら、くすくすと笑う。 「ほら、ストレスには甘いものだよ。一口食べる?」  差し出されたスプーンには、たっぷりのチョコレートが乗っている。光が反射して暗い赤に見える。  その一瞬で、甘い匂いが一層濃くなった気がした。 「……誰がそんなものを口にするか」  視界の端で、チョコがとろりとスプーンからこぼれる。  思わず、胃の奥が冷たくなる感覚がした。 「ますみ先生って、甘いもの苦手なんだ?」 「それがどうした?」 「えー、なんか意外。こういうのって、食べたら幸せになるよ?」  黛はもう一度スプーンをくるくると回す。  とろけるチョコレート。  その光沢が、なぜか妙に気に障った。 「……貴様は、何も考えずにそれを食えるんだな」  思わず、そう口にしていた。 「え?」  黛がフォークを止め、こちらを覗き込んでくる。 「……いや、何でもない」  安心院は新聞に目を落とし、コーヒーを一口含む。  いつもより苦みが際立って感じられるのは、気のせいだろうか。 「そもそも、そんなに食べていたら糖尿病になるぞ」 「ますみ先生ったら僕の心配を……?」 「違う。どこかの馬鹿がいつ死ぬか予測しただけだ」  黛の戯言に、安心院はひときわ深くため息をつく。  もうすぐコーヒーが冷める頃だが、何も気にせず一口含む。とろりとした苦みのなかに、どこか甘さが隠れているような気がした。思わず吐き気がこみあげて、カップを握る指先が震える。  しかしここは喫茶店、同窓会の時と同じようにしてはいけない。辛うじて残っていた理性が、カップをそっとソーサーに戻した。 「てかさ、気になってたんだけど」 「……今度は何だ」  舌打ちが響く。黛のテーブルには空の皿がいくつか見えた。 「ますみ先生ってきっちりしてるよね」  その言葉に安心院は思わず固まる。無意識に背筋を伸ばし、カップに視線を落とす。全てを吸い込むような黒い湖面は揺れるばかりで、映った顔をぼかしていく。 「残さず食べるタイプでしょ、お行儀よく育てられたって感じ」  その声に、新聞をめくる指がぴたりと止まる。先ほどまで無邪気だった黛の声が、かすかに鋭さを帯びた。   「……貴様、何を勝手に想像している」 「だって、そうだろ?」  黛の目が、細められる。さっきまで笑っていたはずの瞳が、静かに光を吸い込んでいく。  黛はパンケーキの中心にフォークを突き刺し、クリームを塗りたくって口に運ぶ。 「こういう人って、なんでもきちんと整理して、なんでも完璧にこなすタイプだよね」  半分ほどの残ったケーキに手を伸ばし、きれいに積み重なったミルフィーユの層を削り取っていく。 「だからさ、感情とかもきっちり隠してるのかな?」  その言葉に、安心院の指先が再び震える。黛の鋭さについ反応しそうになる。どうしても答えたくない。その一言で触れられるのが、どうしても怖かった。 「別に、感情など隠していない」 「本当に?」  冗談めいた口調だが、黛の言葉にはどこか真剣な色も混じっている。黛の方を見ると、興味深くこちらを観察してくるような冷たい目があった。 「……うるさいぞ」  冷静を装ってあしらうが、少しだけ目が泳いだ。触れてほしくない部分に、黛は躊躇なく土足で踏み入ろうとする。その遠慮のなさに殺意すら湧いてくる。  黛はそんな安心院の心情に気付いたのか、ほんの少しだけ微笑んで続ける。 「まぁ、そんな完璧に見えるますみ先生にも、色々あるんだろうけどね」  その言葉に安心院は口を開くが、すぐに閉じた。黛から視線を外して、コーヒーを飲み干す。冷めてしまった風味が、嫌なものが残る心を落ち着けた気がした。  ウェイターが近づいてきて、安心院の机の上にグラスを置く。白と黒のコントラストが映えるそれは、甘い香りを安心院の脳に届ける。 「……これは、なんだ」  犯人と思しき男を安心院は睨む。黛はくすくすと笑いながら、スプーンを安心院に向けた。 「先生のために頼んでおいたんだよ。美人には甘いものが似合うって、昔から言うでしょ?」 「貴様……心底気持ち悪いな」  的確に地雷を踏んでくる黛に、指先まで冷えが広がってくる。目の前の甘さも相まってうくらくらしてくる。黛は楽しそうにスプーンを回す。ふりまかれる砂糖の甘さで吐きそうになる。 「でも食べるんでしょ、もったいないから」 「……黙れ」 「先生ってさ、何でももったいないって思うんだね」  黛はそう言って、右耳のピアスを触りながら少しだけ寂しそうに笑った。  目の前に置かれたパフェを見る。綺麗に飾り付けられたそれを崩したくなるが、口にはしたくない。頼みの綱のコーヒーは空になってしまった。  悩んでいると、黛は席を立つ。 「じゃ、あとは任せるね、ますみ先生?」  黛は手をひらひらと振り、軽やかに喫茶店を後にした。  からん、と扉のベルが鳴る。安心院はしばらく黛が去った方を見つめた後、深いため息をつく。  目の前に置かれたパフェをじっと見つめる。グラスに盛られた生クリームが光を受けて輝く。溶けて混ざり合っていく甘さの層が、じわじわと脳にしみこんでいく。  胃がひどく重くなる。冷たい指が頬を撫でる感覚が、脳裏の奥じわりとにじむ。甘いものに触れるだけで、吐き気がこみ上げてきた。  ――けれど、もったいない。  無意識に、指先がテーブルをトントンと叩く。何度も何度も、わずかな間隔で音が響く。その度に食べなければと考えてしまい、口元がわずかに歪む。  「もったいないから、一口だけでも」と、いないはずの声が聞こえてくる。甘い香りがあたりに満ちる。少しだけ目を細め、意識的にその感覚を遮断しようと試みるが、どうしても身体が反応してしまう。 「……黙れ」  言葉が空気に落ちる。  喫茶店の心地よいジャズが、皮膚の表面で震えていた。その奥で、甘い香りがまだ息をしている。  ここで負けるわけにはいかない。それでも、目の前のパフェが輝いているように思えて、手が自然に伸びてしまう。  ひとしきり睨んだ後、スプーンを手に取る。最初の一口を口に押し込むと、甘さという呪いが舌を蝕んだ。――あいつらの笑顔と同じ味だ。  スプーンにまとわりついたチョコの照りが、妙に気に障る。指先まで絡みつくようで、思わず置いた。 「やはり、嫌いだ」  眉をひそめてしまう。ぬるくなった水で口内を流すが、クリームのねっとりとしたいやらしい感触が舌先に残った。  ただただ気持ち悪い。それでも続けるしかなかった。もったいない、という言い訳を口にしながら、この呪いが自分の体内を蝕んでいく感覚を呑み込むしかない。 「くだらん……本当に、くだらん」  安心院はスプーンをそっと置き、吐き出すように息をついた。胃の奥が冷たくなる感覚。なのに、喉には甘さがこびりついて離れない。  静かに席を立つ。誰もいなくなった席には空になったパフェグラスと、几帳面に折りたたまれた紙ナプキンが残る。安心院はそれを一瞥し、ため息をついた。  また会ったとき、どうしようか。そんな思いが頭をもたげる。  黛の無邪気な笑顔が目に浮かぶ。あんな表情をしていたくせに、今はその裏に隠れた意味を探っている自分がいる。 「次は貴様に、二度とふざけた口を利かせん」  その言葉が、甘い香りの残る店内に冷たく響いた。  決して告げることのできなかった言葉。それを抱えて、安心院はゆっくりと喫茶店を後にした。

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