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第三話「無言の街」

「安心院先生、これ知ってます?」  次回作の打ち合わせ中、担当編集の久瀬がパンフレットを差し出した。  めくってみると、そこには不気味な色彩で描かれた抽象画がいくつか並んでいる。 「これはなんだ」 「最近巷で有名なアーティストですよ、ちょいと不気味なものを描いてるんです」 「不気味というか、虚無だな」  ページをぺらぺらめくり、安心院は遠くを見るような目で絵を眺めた。無気力で、自己表現としても薄っぺらい。参考になりそうもない。  ページをめくる手を止め、次のページに目を落とす。  ページの隅の赤い目と、安心院の青い目が交錯した。すべてを見透かすようなおぞましさが胸を締めつけ、全身が一瞬にして凍り付く。反射的に目をそらそうとしたが、なぜかそれができなかった。 「先生、どうかしました?」  久瀬の声が遠くから聞こえてくる。安心院は一瞬だけ顔をあげた。  普段なら冷たく言い放つだろう言葉が、口の中で止まる。 「……なにか言ったか?」  平静を装いながら、無理やり声を絞り出した。  久瀬は少し気を使ったように首をかしげる。 「先生って人の悪意とか怖さ、破滅を描くじゃないですか。だから参考になったらなーって思いまして」 「……」  安心院は一瞬黙り込んだ。普段なら余裕をもって反論するはずなのに、じっと考え込んだ。  悪意、怖さ、破滅。自分が描くものはそうだが、これはなにかが違う。  ピンクメッシュの人物が、こちらを見てくる。離れたくても、離してくれない。 「……先生?」  久瀬の声が遠くから聞こえてくる。  安心院は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。頬を流れていた冷や汗を拭って、パンフレットを置き、いつもの冷徹な顔に戻す。 「……いや、なんでもない」  うまくできていたのだろうか、一抹の不安がよぎる。視線を外したのに、あの赤い目が目の前にあるような気がしてならない。  久瀬は不安そうな顔をしたまま、話を続ける。 「この個展、結構近くでやってるみたいなんで、寄ってみたらどうです?」 「くだらん。時間の無駄だ」 「先生こういうの好きだと思ったんですけどね。人の破滅とか絶望とか」 「私が描くものと、これは違う」 「そういうもんなんですかねぇ」  俺は行きませんけどね、と久瀬はパンフレットを机に投げた。  安心院は投げられたパンフレットを手に取る。  行く必要はない。あの作品たちから得られるものなどないはずだ。久瀬が言う通り、行かない選択肢だってとれる。なのに、胸の内側で引っかかるものがある。  目を閉じる。赤い蛇の目が瞼の裏に焼き付く。  数秒の沈黙。同窓会の帰り、黛が言っていた言葉がよぎる。 「自分を題材にするなどと抜かす馬鹿が、どんなものを描くのかくらいは知っておいてやるか」   *    個展会場は編集部のあるビルから近いワークスペースだった。こじんまりとした会場には、いくつかの絵画が展示されていた。  白い蛍光灯の下に照らされたそれらは、どれも不穏で不気味だった。  どの作品も色がなく、人影もなく、空が歪み、建物が崩れている。黒ずんだ筆跡が、引き裂かれた痕のようにキャンバスを走っている。街の景色は遠近法を無視して捻じれ、地平線すら曖昧だ。空であるはずの部分には、微かに人の横顔のようなものが浮かんでいるように見える。  ただただ不気味で、なにもない。やはり期待外れだった。  ぐるりと一周していると、とある作品に目が留まる。  タイトルは「無言の街」。  それを見た瞬間、言葉が出なかった。  描かれているのは、異常な街並みだった。  遠近感が狂った建物の中に、気づかないほど小さく、誰かの横顔が描かれている。もしくは、ただの絵の傷か。よく見ようとすると、何も見えなくなる。  空に浮かぶかすれた線は、何かの文字のようにも見えた。この街にかつて存在したものの痕跡なのか、それとも無言の叫びなのか。  静寂が冷たく支配している――いや、支配じゃない。虚無でしかない。  言葉にしようとしても、息だけが喉を通っていく。  誰かが自分を背後から抱きしめるような錯覚を覚える。 『ますみちゃん、そんなこと言うものじゃないわ』    女性の声が聞こえてくる。  それは否定ではなく、ただ拒絶し、強制する言葉だった。 『ますみちゃん、お行儀の悪い子ね』    声を出してはいけない。意見を持ってはいけない。  だから、幼い頃の自分は黙るしかなかった。  それがどれほど苦しいことだったか、今でもよく知っている。 「……いや、これは、ただの絵だ」  一言ずつ、かみしめるように吐きだす。そうでもしないと自分を保っていられないような気がした。  一度、絵から目をそらす。すると、背中に何かの視線を感じた。  目を開けると、何かが自分を見ていた。冷や汗が流れる。絵の中に引き込まれていく感覚が強くなる。言葉を失ったその街のどこかで、自分も迷子になってしまったような気がしてならない。  途方もない孤独感が心を埋め尽くす。息ができなくなって、呼吸が浅くなる。視界がどんどん無彩色になっていく。 「まーすみ先生、どうしたの?」  肩に手が触れ、ばっと振り返ると黛のにやけ面が目に入る。不快なはずのそのまなざしは、どこか安心してしまう。 「……黛、貴様か」  するりと言葉がでてくる。息がしやすくなっていた。 「ここ僕の個展だもん、会いに来てくれたの? 嬉しいなぁ」 「貴様に会いに来る理由がどこにある」  取り戻した冷静の仮面をかぶる。  黛はそれをも見透かしたのか、肩をすくめてあっけらかんとした顔で答えた。 「えっ、僕の絵にインスピレーションをもらいに来たんじゃないの?」 「得られるものなどない、こんなのただの自己満足だ」 「なのにそんな顔してるんだ?」  黛の冷たい指が安心院の頬をかすめる。  虫でも払うかのように、安心院はそれを雑によけた。 「なれなれしい」  その言葉に、黛の口元に冷たい笑みが浮かぶ。  血のように赤い目に、澄んだ青い目がぶつかる。きりっとした目を向けるが、黛はすぐに目をそらす。 「まあいいや、それよりどう? 気に入ったものあった?」  黛は楽しそうにそれぞれの絵を解説し始める。それを一瞥で切り捨て、安心院はまた「無言の街」に向き合う。  これからは何も感じない、ただ空っぽなだけだ。でもなにかを感じる。言語化するなら、そう。 「――孤独、だな」  ぽつりと漏らすと、黛が石のように凍り付いて黙った。いつものように飄々とした態度で受け流すかと思ったのに、そうではなかった。  安心院の喉の奥がひりつく。自分が何を口にしたのか、気づいた時には遅かった。  一瞬、ほんの刹那。黛の赤い瞳に、かすかな影が落ちた。何かを思い出しそうになった時のような、わずかな歪みだった。  それを隠そうと黛はわずかに目を伏せ、そして笑った。  黛の薄い唇が軽やかに弧を描く。 「さあ、どうだろうね」  声が響く。  狭い部屋のはずなのに、急に広がっていくような、どこまでも距離ができてしまうような。言葉にしがたい寒さが、心の奥底に沈殿していく。  黛の赤い瞳は、もう安心院を見ていなかった。なのに、その視線はどこにも向かわず、たださまよっているように見えた。 「貴様は何を描きたい?」 「人間が壊れる瞬間、かな」  黛はごく自然に、当たり前のことのように答えた。 「ほら、人ってさ、壊れるときが一番『自分』になるんだよ。虚勢とか体裁とか全部剥がれてさ。綺麗でしょ?」  黛は額縁にはめられたそれを、ガラス越しに指先でゆっくりとなぞる。ねっとりとしたその仕草が、なまめかしくて、おぞましい。口元に浮かぶ妖艶な笑みは、何もない狂った街のなかにある、存在しない何かを見つめていた。  どこを見ているかわからない。透明なガラスに映る黛の目線に、胸の中がざわりと粟立った。    「ねえ、ますみ先生」  名前を呼ばれる。嫌悪感よりも恐怖が勝つ。返事をすることもできない。  頭上の白色灯がチカ、と点滅して、右耳のピアスが一瞬光る。一瞬の闇の中、黛の顔が見えなくなった。 「君は、どんな風に壊れるんだろうね」  独り言のようにつぶやいた言葉が、安心院の心の中にどす黒い闇として沈む。  これは異常だ。明らかにおかしい。離れないといけないと、本能がガンガン警鐘を鳴らし続ける。頭が痛くなりそうなほどなのに、黛から目を離せない。  これは使える。この男が破滅する瞬間は、どれほどのものになるのか。  作家としての安心院ますみがそう叫んでいる。 「その前に、貴様が先に根をあげそうだがな?」  安心院の口角が吊り上がる。  それを見て、黛は冷ややかに笑った。 「さあね」  先ほどと同じ返答を、黛は口にする。目は笑っているのに、焦点はどこにもあっていない。  その様子を安心院は喉で笑う。 「どうした黛、先ほどの威勢はどこへやった?」 「……うるさいなあ」  黛がわずかに鬱陶しそうな目を向けてくる。  その赤い瞳に宿る微かな苛立ちを、安心院は逃さなかった。 「なんだ、もう飽きたか?」  底意地悪く挑発すると、黛は小さく息を吐いて安心院から背を向けた。 「……ほんと、君って性格悪いよね」  投げやりにそういいながらも、黛の声にはどこか諦めに似たものが滲んでいた。それを聞いて、安心院は更に口角を歪める。  この赤い目が冷めきる瞬間も、揺らいでいく瞬間も、どちらも面白い。   黛となら、退屈しないかもしれない。胸に落ちたその感情を確かめもせず、安心院は嗤った。
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