3 / 4
第三話「無言の街」
「安心院先生、これ知ってます?」
次回作の打ち合わせ中、担当編集の久瀬がパンフレットを差し出した。
めくってみると、そこには不気味な色彩で描かれた抽象画がいくつか並んでいる。
「これはなんだ」
「最近巷で有名なアーティストですよ、ちょいと不気味なものを描いてるんです」
「不気味というか、虚無だな」
ページをぺらぺらめくり、安心院は遠くを見るような目で絵を眺めた。無気力で、自己表現としても薄っぺらい。参考になりそうもない。
ページをめくる手を止め、次のページに目を落とす。
ページの隅の赤い目と、安心院の青い目が交錯した。すべてを見透かすようなおぞましさが胸を締めつけ、全身が一瞬にして凍り付く。反射的に目をそらそうとしたが、なぜかそれができなかった。
「先生、どうかしました?」
久瀬の声が遠くから聞こえてくる。安心院は一瞬だけ顔をあげた。
普段なら冷たく言い放つだろう言葉が、口の中で止まる。
「……なにか言ったか?」
平静を装いながら、無理やり声を絞り出した。
久瀬は少し気を使ったように首をかしげる。
「先生って人の悪意とか怖さ、破滅を描くじゃないですか。だから参考になったらなーって思いまして」
「……」
安心院は一瞬黙り込んだ。普段なら余裕をもって反論するはずなのに、じっと考え込んだ。
悪意、怖さ、破滅。自分が描くものはそうだが、これはなにかが違う。
ピンクメッシュの人物が、こちらを見てくる。離れたくても、離してくれない。
「……先生?」
久瀬の声が遠くから聞こえてくる。
安心院は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。頬を流れていた冷や汗を拭って、パンフレットを置き、いつもの冷徹な顔に戻す。
「……いや、なんでもない」
うまくできていたのだろうか、一抹の不安がよぎる。視線を外したのに、あの赤い目が目の前にあるような気がしてならない。
久瀬は不安そうな顔をしたまま、話を続ける。
「この個展、結構近くでやってるみたいなんで、寄ってみたらどうです?」
「くだらん。時間の無駄だ」
「先生こういうの好きだと思ったんですけどね。人の破滅とか絶望とか」
「私が描くものと、これは違う」
「そういうもんなんですかねぇ」
俺は行きませんけどね、と久瀬はパンフレットを机に投げた。
安心院は投げられたパンフレットを手に取る。
行く必要はない。あの作品たちから得られるものなどないはずだ。久瀬が言う通り、行かない選択肢だってとれる。なのに、胸の内側で引っかかるものがある。
目を閉じる。赤い蛇の目が瞼の裏に焼き付く。
数秒の沈黙。同窓会の帰り、黛が言っていた言葉がよぎる。
「自分を題材にするなどと抜かす馬鹿が、どんなものを描くのかくらいは知っておいてやるか」
*
個展会場は編集部のあるビルから近いワークスペースだった。こじんまりとした会場には、いくつかの絵画が展示されていた。
白い蛍光灯の下に照らされたそれらは、どれも不穏で不気味だった。
どの作品も色がなく、人影もなく、空が歪み、建物が崩れている。黒ずんだ筆跡が、引き裂かれた痕のようにキャンバスを走っている。街の景色は遠近法を無視して捻じれ、地平線すら曖昧だ。空であるはずの部分には、微かに人の横顔のようなものが浮かんでいるように見える。
ただただ不気味で、なにもない。やはり期待外れだった。
ぐるりと一周していると、とある作品に目が留まる。
タイトルは「無言の街」。
それを見た瞬間、言葉が出なかった。
描かれているのは、異常な街並みだった。
遠近感が狂った建物の中に、気づかないほど小さく、誰かの横顔が描かれている。もしくは、ただの絵の傷か。よく見ようとすると、何も見えなくなる。
空に浮かぶかすれた線は、何かの文字のようにも見えた。この街にかつて存在したものの痕跡なのか、それとも無言の叫びなのか。
静寂が冷たく支配している――いや、支配じゃない。虚無でしかない。
言葉にしようとしても、息だけが喉を通っていく。
誰かが自分を背後から抱きしめるような錯覚を覚える。
『ますみちゃん、そんなこと言うものじゃないわ』
女性の声が聞こえてくる。
それは否定ではなく、ただ拒絶し、強制する言葉だった。
『ますみちゃん、お行儀の悪い子ね』
声を出してはいけない。意見を持ってはいけない。
だから、幼い頃の自分は黙るしかなかった。
それがどれほど苦しいことだったか、今でもよく知っている。
「……いや、これは、ただの絵だ」
一言ずつ、かみしめるように吐きだす。そうでもしないと自分を保っていられないような気がした。
一度、絵から目をそらす。すると、背中に何かの視線を感じた。
目を開けると、何かが自分を見ていた。冷や汗が流れる。絵の中に引き込まれていく感覚が強くなる。言葉を失ったその街のどこかで、自分も迷子になってしまったような気がしてならない。
途方もない孤独感が心を埋め尽くす。息ができなくなって、呼吸が浅くなる。視界がどんどん無彩色になっていく。
「まーすみ先生、どうしたの?」
肩に手が触れ、ばっと振り返ると黛のにやけ面が目に入る。不快なはずのそのまなざしは、どこか安心してしまう。
「……黛、貴様か」
するりと言葉がでてくる。息がしやすくなっていた。
「ここ僕の個展だもん、会いに来てくれたの? 嬉しいなぁ」
「貴様に会いに来る理由がどこにある」
取り戻した冷静の仮面をかぶる。
黛はそれをも見透かしたのか、肩をすくめてあっけらかんとした顔で答えた。
「えっ、僕の絵にインスピレーションをもらいに来たんじゃないの?」
「得られるものなどない、こんなのただの自己満足だ」
「なのにそんな顔してるんだ?」
黛の冷たい指が安心院の頬をかすめる。
虫でも払うかのように、安心院はそれを雑によけた。
「なれなれしい」
その言葉に、黛の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
血のように赤い目に、澄んだ青い目がぶつかる。きりっとした目を向けるが、黛はすぐに目をそらす。
「まあいいや、それよりどう? 気に入ったものあった?」
黛は楽しそうにそれぞれの絵を解説し始める。それを一瞥で切り捨て、安心院はまた「無言の街」に向き合う。
これからは何も感じない、ただ空っぽなだけだ。でもなにかを感じる。言語化するなら、そう。
「――孤独、だな」
ぽつりと漏らすと、黛が石のように凍り付いて黙った。いつものように飄々とした態度で受け流すかと思ったのに、そうではなかった。
安心院の喉の奥がひりつく。自分が何を口にしたのか、気づいた時には遅かった。
一瞬、ほんの刹那。黛の赤い瞳に、かすかな影が落ちた。何かを思い出しそうになった時のような、わずかな歪みだった。
それを隠そうと黛はわずかに目を伏せ、そして笑った。
黛の薄い唇が軽やかに弧を描く。
「さあ、どうだろうね」
声が響く。
狭い部屋のはずなのに、急に広がっていくような、どこまでも距離ができてしまうような。言葉にしがたい寒さが、心の奥底に沈殿していく。
黛の赤い瞳は、もう安心院を見ていなかった。なのに、その視線はどこにも向かわず、たださまよっているように見えた。
「貴様は何を描きたい?」
「人間が壊れる瞬間、かな」
黛はごく自然に、当たり前のことのように答えた。
「ほら、人ってさ、壊れるときが一番『自分』になるんだよ。虚勢とか体裁とか全部剥がれてさ。綺麗でしょ?」
黛は額縁にはめられたそれを、ガラス越しに指先でゆっくりとなぞる。ねっとりとしたその仕草が、なまめかしくて、おぞましい。口元に浮かぶ妖艶な笑みは、何もない狂った街のなかにある、存在しない何かを見つめていた。
どこを見ているかわからない。透明なガラスに映る黛の目線に、胸の中がざわりと粟立った。
「ねえ、ますみ先生」
名前を呼ばれる。嫌悪感よりも恐怖が勝つ。返事をすることもできない。
頭上の白色灯がチカ、と点滅して、右耳のピアスが一瞬光る。一瞬の闇の中、黛の顔が見えなくなった。
「君は、どんな風に壊れるんだろうね」
独り言のようにつぶやいた言葉が、安心院の心の中にどす黒い闇として沈む。
これは異常だ。明らかにおかしい。離れないといけないと、本能がガンガン警鐘を鳴らし続ける。頭が痛くなりそうなほどなのに、黛から目を離せない。
これは使える。この男が破滅する瞬間は、どれほどのものになるのか。
作家としての安心院ますみがそう叫んでいる。
「その前に、貴様が先に根をあげそうだがな?」
安心院の口角が吊り上がる。
それを見て、黛は冷ややかに笑った。
「さあね」
先ほどと同じ返答を、黛は口にする。目は笑っているのに、焦点はどこにもあっていない。
その様子を安心院は喉で笑う。
「どうした黛、先ほどの威勢はどこへやった?」
「……うるさいなあ」
黛がわずかに鬱陶しそうな目を向けてくる。
その赤い瞳に宿る微かな苛立ちを、安心院は逃さなかった。
「なんだ、もう飽きたか?」
底意地悪く挑発すると、黛は小さく息を吐いて安心院から背を向けた。
「……ほんと、君って性格悪いよね」
投げやりにそういいながらも、黛の声にはどこか諦めに似たものが滲んでいた。それを聞いて、安心院は更に口角を歪める。
この赤い目が冷めきる瞬間も、揺らいでいく瞬間も、どちらも面白い。
黛となら、退屈しないかもしれない。胸に落ちたその感情を確かめもせず、安心院は嗤った。
ともだちにシェアしよう!