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第四話「雨の日の夜」
雨が降り続いていた。
路面が光を弾き、街灯の下で景色が滲んでいる。
編集会議は、いつも通りくだらない。新作、展開、マーケティング――どれもどうでもいい。執筆に口を挟まれることほど、鬱陶しいものはない。
安心院は椅子の背に深くもたれかかり、目を伏せる。
どれも耳を貸す価値もない。安心院が書くのは「破滅」。それ以外の何かを描く気などさらさらない。なのに、編集部の連中は「それでは売れない」だの「読者が求めているのは違う」だの、自分たちが創作の主導権を握っているかのような口ぶりをする。
「それで先生、次回作の構想ですが……」
担当編集の久瀬が、気を使って安心院に話を振る。
「……聞く必要があるのか?」
不機嫌を隠そうともせず低く返すと、久瀬は冷や汗を浮かべながら苦笑いを浮かべた。
「いやあ、やっぱり前作よりももうちょっと希望のある展開の方が、読者としてはいいかなあって……」
「じゃあ貴様が書くか?」
一瞬の沈黙の跡、久瀬は顔をこわばらせて答える。
「いや、それは先生が……」
「ならば口を挟むな」
机の上に置かれたペンが、カタンと音を立てて転がる。久瀬は気まずそうに口を閉じる。他の編集はまだなにか言いたげだったが、安心院はもう聞く気はなかった。
うんざりする。
そんなもの、ただの空虚な妄想だ。
生きることが苦しい奴に『生きろ』と説教することほど、虚しいものはない。
どうせ誰も救えないのに、まるで救いがあるかのように錯覚させることがそんなに大事だろうか。
何もかもが馬鹿馬鹿しい。
組んだ腕を叩く指の速さが加速する。時計を一瞥すると、もう会議の時間は過ぎていた。
「……終わりだな?」
誰の返事を待たずに立ち上がる。
「先生、今日はもう……」
久瀬が慌てて何かを言うが、安心院はそれを無視した。
これ以上ここにいても、時間の無駄だ。
――ああ、早くタバコが吸いたい。
それだけを考えて、編集部の入ったビルを出る。
ビルの自動ドアが開いた瞬間、雨の音が耳を叩いた。低く鈍く、まるで地面が泣いているかのような音だった。
傘を差しても、すぐに靴が湿っていく。最悪な気分の上に、さらに冷たい水をぶちまけられたような気がした。
ポケットからタバコを出す。最後の一本だったらしい。
「クソが……」
低く舌打ちしながら、ジッポの火打石を幾度かこする。火花だけ散る。どうやらガス切れのようだ。
ぺたんこに潰れたソフトケースを無造作に握りつぶす。火のつかないタバコをくわえたまま、安心院は雨の中を歩きだす。目の前の街灯がぼやけて、闇に溶け込むようだった。
ふと、女の怒鳴る声と肉を打つ濡れた音が響く。音がした方を見ると、濃い化粧をした女性が、カツカツとヒールを鳴らしながら安心院の横を通り過ぎた。痴情のもつれというやつだろう、よくある話だ。
ふと、視界の端で輪郭が滲んだ。現実がそこだけ曖昧に溶けている。
ぼんやりした光の中、濡れた人影が虚ろに佇んでいた。
白いTシャツが雨に張り付き、死人のような肌にへばりつく。薄い布の下、骨ばった影が浮かんでいる。濡れた前髪の下、頬に赤い手形が腫れている。無機質な雨の中、その赤が生々しい。
顎から水滴がぽたぽたと落ちる――ただの雨か、それとも何か。
憂いも怒りも悲しみもない。濡れた町に溶け、静かにそこにいる。
「……何をしている?」
思わず声をかけてしまった。黛がこちらを見る無表情だった顔に突如として笑みが浮かぶ。
「なあに、ますみ先生。僕に何の用?」
「そういう貴様こそなにをしていた」
「んー……雨、気持ちいいなって思ってさ」
「馬鹿か貴様は、風邪でも引いて死ね」
「相変わらず手厳しいなぁ……まあ、そういうのも嫌いじゃないけどね」
黛は力なく笑う。その弱々しい姿が現実に思えなくて、安心院は瞬きを繰り返す。しかしそこにいるのは、濡れネズミとなり、頬に立派な紅葉をこさえた、まぎれもなく黛祥吾だった。
黛は濡れた髪先をいじり、雑に横に流す。赤く映える手形を指さし、にっこりと笑った。
「これすごいでしょ、結構いたかったんだよ?」
「貴様が悪い」
「『あんたのせいで』……なんて、今時のドラマでも聞かないよ」
黛は右耳のピアスを触りながら、冗談めかして肩をすくめる。一瞬、光が石に反射したかのように見えた。
「ますみ先生も一回くらい、こういうのつけてみる? 似合うと思うけどな」
「貴様、殴られたのにまだ足りないのか」
「そういうわけじゃないけど、ほら、先生も気に入らない編集とかいるでしょ? 一発くらい殴らせてあげるよ」
「余計なお世話だ」
軽口を叩く黛の唇が、ふっと弧を描いたまま止まる。
手形の跡をなをり、小さく息を漏らす。
しん、と雨音だけが響く。
何でもないように笑う黛はどこか空っぽだ。
「ねえ、ますみ先生」
真っ暗でなにもない、奈落の底のような暗い赤に、安心院の白い髪が映る。
安心院は思わず息をのむ。これ以上聞いてはいけない。関わってもいけない。なのに、濡れた靴は雨に縫いとめられてしまって動けない。
目の前の男は、何もかもを放棄したような虚ろな微笑みを浮かべる。薄い唇が、ゆっくりと動いた。
「僕を抱いてよ」
雨音が遠のき、世界が一瞬息を止めた。
感情が全く乗っていない声が響く。
雨音に紛れてしまいそうなギリギリの声量は、確かに安心院の鼓膜を揺らした。
「……何を、言っている」
絞り出した声が震えた。冷静を装うが、唇は微かに震えてしまう。
目の前の男は、確かに黛祥吾だ。しかし、その目の奥には、安心院も知らない何かが潜んでいる。安心院はそれに恐怖に似た感覚を抱いていた。
安心院は黛に目線を合わせるが、虚ろな赤い目はゆらゆらとしていて焦点が合わない。
「大丈夫だよ、僕は男もいけるから」
一瞬、言葉が出なかった。頭の中が真っ白になる。
作られた笑顔をたたえる黛の顔が、まるで悪夢のようで、現実のものとは思えなくなる。心臓が早鐘のように鳴り出すのが自分でもわかる。
「……そういうことではない」
ようやく絞り出した声は、思った以上に震えていた。
黛が少しずつ、何もなかったかのように微笑みながら、さらに距離を詰めてくる。
逃げたいのに足がすくむ。むしろ、自分から引き寄せられているような錯覚すら覚える。
「ますみ先生が初めてでも平気だよ?」
「話を聞け、黛」
安心院はらしくもない言葉で黛を制しようとする。
それに返事をすることなく、黛は安心院の目の前に立つ。
相変わらず表情は読めない。口元だけはいつものように弧を描き、いつものように安心院を煽る言葉を紡ぐ。
「君が嫌って言うなら、僕は他の人に頼むよ?」
「――何?」
胃の奥が嫌な熱を持つ。
……わざとだ。もう何度も聞いてきた常套句だ。
理性ではわかっている。自分は男に興味はないこと。それに、そういうこと自体に忌避感があること。
だが、たった今、胸に生まれたのは、かつてない強い衝動だった。
脳裏に浮かぶ、大きな手が自分を無遠慮に触れる感覚。あの手は腐ったように冷たく、だが確かに――強引に自分の体を握るような感覚が蘇る。
吐き気がする。思い出すだけで全身が粟立つ。心の奥底で黛を拒絶しようとしても、その嫌悪感の中に溶け込んでくる、何かがある。
自分の中にある欲望が絡み合って、目の前にある黛の顔が無視できないほどに近づいてくる。
理性なんて、もう声を上げることすらできない。息が浅くなる。心臓がうるさい。
あの手がまた……いや、黛が、無理にでも自分を引き寄せようよしている。
理性は「やめろ」と叫ぶ。だが本能は囁く。「触れ、引き寄せろ、支配しろ」と。
火のついたタバコを吸う。灰が汚れていく感覚だけが、一瞬の現実だった。
もう無理だ、止まれない。
衝動が、理性を超えた。
「……場所を移すぞ」
その言葉の意味を、安心院自身が一番理解していなかった。
衝動のまま黛の腕を取る。これはあの男の戯言を黙らせるためだ、そう理性を騙しながら。
安心院は雨の冷たさも、靴の湿り気も気にせず歩き出す。黛の濡れた服が肌に貼りつき、歩くたびに小さな水音がする。雨が冷たいという感覚すら失っていく。ただ、黛の腕をつかんだ手の感触だけが生々しく残った。
「……先生?」
「黙れ」
何かを言おうとした黛を制し、呼び止めたタクシーに乗り込む。
行先を告げると、怪訝な顔をした運転手は静かに車を走らせた。
エンジンの音、ワイパーがフロントガラスを拭う音。それ以外は何も聞こえない。
流れていく街灯をぼんやり眺めていると、濡れた手が自分の足に触れる。見ると、黛が濡れた髪を書き上げながらじっとこちらを見ていた。
「先生、今どんな気分?」
「……くだらん質問だな」
「そっか。じゃあ、もっとシンプルにしようか?」
そう言って、黛はシートにもたれながら、自分の濡れたシャツの襟を引っ張った。細い鎖骨が覗く。安心院は無意識に舌打ちをした。
景色は流れ、街灯が少なくなる。タクシーが止まった場所は静かな住宅地の一角だった。料金を払い、黛を車内から引きずり出し、玄関に急ぐ。
かぎを開ける音が響く。玄関をくぐると、黛は勝手知ったる場所のように部屋を見まわした。薄暗い室内は無機質で、書棚の本と灰皿だけが散らばっていた。安心院は無言のままコートを脱ぎ、ソファを指さす。
「座れ」
「命令口調だねえ」
「貴様が犬のようについてきたからだ」
「そんなに嬉しかった?」
「……」
黛はくすくすと笑いながら、びしょ濡れのTシャツを引っ張る。
「着替え、貸してくれる?」
安心院は黛を一瞥し、クローゼットへ向かう。
黛はその隙に書棚の本や机の原稿を指でなぞる。濡れた跡が濃いシミを残す。普段なら激昂するが、今は気にならなかった。
奥から引っ張り出した古いジャージを黛に投げる。黛はそれを広げ、ひどく楽しげに笑う。
「高校の時みたい」
「違う、さっさと着替えろ」
安心院はいつも座っている椅子にどっかりと座る。新しいケースを開け、一本取りだして深く吸い込む。強く吐きだした副流煙が天井まで届く。
いったい自分は何をしているんだろう。そんなことを考えてしまう。だがもう戻れない。分水嶺はとうに過ぎ去った。
衣擦れの音がやむ。着替え終わったのかとみれば、黛は下着以外の全ての服を取り払っていた。
「ねえますみ先生、さっきの話、冗談だと思った?」
その言葉に、安心院の心がひとばしり止まる。薄暗い室内の中、黛が艶やかに微笑む。
冷たい手がシャツを引っ張ってきて、少しだけ冷たい指先が肌に触れる。その感覚に、思わず息を吞んでしまう。
「……貴様の冗談は不愉快だ」
安心院は冷ややかな声を返す。その答えをすぐに覆すように、黛の表情はさらに挑発的なものに変わる。
「冗談じゃないんだけどなぁ」
一瞬の沈黙。
黛が静かに笑う。安心院は微動だにせず、椅子に深く座ったまま冷徹な視線を向ける。しかし、目が黛の顔を追うたびに、胸の奥で抑えきれない衝動が波のように押し寄せてきた。
濡れた冷たい手が黒いジャージを引っ張る。その感覚が突き刺さるようで、理性がまた徐々に削り取られていくのが分かった。黛の挑発的な笑みを目の当たりにして、再び呼吸が浅くなる。
「……ふざけるな」
冷徹さを保ったまま切り捨てる。しかし、無理していたのかどこかひび割れている。
その瞬間、黛はさらに近づいて手を無遠慮に引っ張る。それを自身の薄く冷え切った旨に押し付けた。
「じゃあ、本気だと言ったらいい?」
そのたった一言が、まるで火をつけるように安心院の中で暴れた。戻りかけていた理性が崩れ、冷徹さを誇る彼の青い目に、欲望が色を帯び始める。
「黙れ」
灰皿にタバコを押し潰す。まだ半分も燃えてない穂先がじゅ、と潰れた。
安心院は目の前の黛を見つめ、冷徹な瞳を光らせる。怒りを押し殺したような、明らかに制御を失いかけているような感情が浮かんでいた。
「貴様、私を愚弄するのもいい加減にしろ」
腹の底から絞り出された低い声が、部屋全体の空気を力強く揺らす。
黛は微笑みながらも、いつものようにじっと目を合わせている。その赤い目には、挑戦的な火花がついていた。
「ますみ先生、もしかして初めて? 怖いの?」
その一言で、安心院の理性は完全に壊れた。
次の瞬間、黛の細い体がぐらつく。腕を強く引かれ、ベッドに沈められた。左耳の大量のピアスがじゃらり、と鳴る。
安心院の冷徹で理知的な青い目が、ギラギラと輝く。それを見て、黛は喉を鳴らし、うっそりと笑みを浮かべた。
その日、二人は境界を越えた。
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