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第五話「雨に沈む欲望」
部屋の薄暗さが、二人の影を曖昧にしていた。
外は雨が降り続いている。窓ガラスにぽつぽつとぶつかる音が、濡れた吐息のように響く。汗と熱の匂いが、部屋を犯していた。
白いシーツに押し倒された黛の体は、汗と雨に濡れ、薄い胸が淫らに光っていた。濡れた髪が頬に貼り付き、滴るしずくが喉元を滑り落ちる。その無防備な姿に、心の奥が熱くざわめく。触れたくないのに、手を伸ばしてしまう。
安心院はジャージの袖を捲り、震える指で黛の肌に触れた。冷たい肌が汗で滑るようだった。
「……動くなよ」
掠れて熱を帯びた硬い声が室内に落ちる。
浮いたあばら、細く締まった腰と、指先でなぞる。そして、下着のふちにたどり着いたところで、指が止まった。
その様子を黛は冷ややかに微笑み、見つめている。全てを見透かす赤い瞳が、安心院の心の柔らかいところを抉る。
安心院は唇の端を持ち上げようと意識するが、その動きはぎこちない。嫌悪が喉を締め、衝動がそれを押し流す。
「どうした黛。私を試すつもりか、それとも――ただ弄ぶだけか?」
安心院はゆっくりと手を滑らせる。冷えた皮膚の下で鼓動を感じる。そのかすかな脈動に、指先がわずかに震えた。確かに生きているはずなのに、まるで人形のようだ。
下着のふちに手をかけ、恐る恐る取り払う。露わになった彼の鼠径部と内ももには、よく見たら小さな傷がいくつかあった。
それらをよく見ようとすると黛の手が伸び、秘部へ導かれ、生暖かい温度が伝わってくる。同性ともそれなりに経験があるのか、想像以上に柔らかい。熱くぬめる肉が、乾いた指に吸い付くように締める。
先へ動かそうとすると、肉壁が抵抗するように閉じる。無理やり進めようとすると、黛の眉が歪み、冷たい笑みに塗り替わる。
その無言の微笑みに、戸惑いが這う。動揺のない瞳が、計り知れない冷たさだった。
「……本当に、何も言わないんだな」
安心院は独り言のようにつぶやき、指先で肉壁を強く押す。
すると黛は挑発するように、意地の悪い笑みを浮かべる。
「どうしたいかなんて、先生が一番わかってるんじゃない?」
甘い声色に、安心院の目が一瞬動いた。言葉の裏が掴めず、胸が熱くざわめく。
これは、自分が主導権を握っている行為なのだから。
……そう、最後まで。
そう言い聞かせても、抑えきれない欲望がじわじわと沸き上がってくる。ぎり、と奥歯を噛み締める。それを悟られないよう、さらに奥へと指を進めた。動揺など見せるものか。
深呼吸で冷徹さを保とうとするが、思考が熱で溶け、何かが崩れ始めているのを感じた。
知識だけを頼りに指を動かし、しこりのようなものを探り当てる。それを軽く押すと、黛の身体が小さく震え、びくりと跳ねた。
「…………ぁ」
黛の喉からか細い嬌声が漏れる。想定よりもなまめかしい反応に、安心院は少し目を見開き、動きを一瞬とめた。心の中で何かが弾ける音がした。
こんな声を聞きたくなかった。初めての響きに頭が軋み、吐き気が込み上げる。なのに、もっと聞きたくてたまらない
夢中で指先で繰り返し押し当てる。黛の身体がびくびくとけいれんし、芯を持ったものが徐々にたちあがる。安心院は柔らかな膨らみを握り、上下にしごく。押し寄せてくる快楽の波に合わせて、黛の腰がかくかくと揺れる。
「ダメ、も、イく……!」
「構わん、好きにしろ」
安心院が許可を出すと、黛は舌なめずりをしていびつに笑う。
黛の中側が獣のようにうごめき、指を熱く締め付けられた。それと同時に、白く濁った精を吐きだした。断続的に出てくるそれは、安心院の手にどろりと絡みつき汚していく。
「それ、使って……」
黛の甘く濡れた声に、安心院の喉がごくり、と鳴った。
乾いた手を避け、白く汚れた指を中に入れる。ぐちゃりと、濡れた音が響いた。閉じた肉の奥を、粘つく肉壁がにちにちと締まり、誘い込むようにうごめく。こじ開けるように二本目の指を入れると、一瞬黛の顔が溶けた気がした。
それを不愉快だと思うよりも、むしろ心の奥底に眠っていた暗い欲望が、次第に目を覚ましていく。
――もっとだ。もっとこの男が堕ちていく様を見たい。堕ちて、破滅していくとき、この男はどんな姿を晒すのだろうか。想像するだけで、背筋がぞくりと震えた。
「ねえ、先生。そんな顔して、まだ余裕あるの?」
黛の腕が安心院のジャージのズボンへと滑り込む。力のない指がゴムを引っかけ、下着ごとずり下ろす。汗ばんだ肌に布が擦れ、ゆるく膨らむ肉が露わになる。
そういうことに嫌悪感があったはずなのに、安心院の中心は確かに反応していた。
「……どうして」
安心院の目が揺れた。胸の奥にひどく冷たいものが広がり、冷徹でいるはずの自分が崩れそうになる。認めたくない。背中を這う悪寒が、それを証明している。
それでも、止められない自分がいる。それが、自分自身の汚れた一面であることを知っていても。吐き気がする。背中がざわつく。自分の中に黒い汚泥が溜まっていくような感覚がする。黛が触れてくるたびに、触れられたところから底なしの闇のようなものが広がっていく。
どうしてこんなことに。どうして今、自分はこれに反応しているのか。認めたくない。絶対にこんなもの認めたくなんて、ない。
なのに。
どうしても引き寄せられてしまう。否応なく求めてしまう。その感覚に委ねてしまいたくなる。
だから、止めることができなかった。
黛は上半身を起こし、ゆっくりと安心院の方へとすり寄る。蛇のような滑らかな動きに、安心院は何もできずただ見つめている。黛はまだ固まらない芯を撫で、熱くぬめる口へ迎え入れる。
裏筋に舌全体を添え、アイスキャンディーのように丁寧になめとる。唇で甘噛みし、じゅる、と粘つく音が響く。鈴口の汁を吸い上げ、唾液が滴る。
与えられる刺激のひとつひとつが知らないものばかりで、思わず安心院は腰を引いてしまう。黛は逃すまいと安心院の腰を掴み、喉奥まで一気にくわえ込む。ごふ、と奥から空気がつぶれる音が響く。きゅ、と締まる喉が安心院の快楽神経を容赦なく刺激した。
「きもひいい?」
黛が上目遣いで聞いてくる。赤い蛇の目は快楽に歪み、溺れている。その色に、安心院の本能は逆らえなかった。
引き抜かれた肉棒は唾液にまみれ、いやらしい光沢を放っていた。思わず息を呑んだ。黛はうっそりと笑い、意地悪く目を細め、安心院の腰を掴んだままベッドへと引き寄せた。
ぼす、と柔らかい音を立ててリネン素材のシーツが二人を受け止める。黛は安心院のジャージを開け、Tシャツをまくり上げて胸に直に触れる。
「先生、やっぱ緊張してるんじゃん。心臓、ドクドク言ってるの、分かるよ?」
「……余計なことを言うな」
安心院は冷たく言い放つ。黛の挑発を受け流そうとしているのに、どうしても身体が反応してしまうのが腹立たしい。
黛は屹立した肉をつぼみに擦る。ぬめる白濁が絡み、熱く誘う。それに気づいた瞬間、安心院の顔色が一変し、一瞬だけ理性を取り戻した。
「貴様、ゴムは」
「いいの、そんなものいらないから」
焦りを隠さない安心院に、黛は無言で制する。そうして、熱く昂った安心院のものを自らの中へと埋めていった。
衛生観念や倫理、世間の目――いろんなものが安心院の頭の中にめぐるが、すぐにそれらは吹き飛んだ。
今まで体験したことのない肉体の温もり。意識が遠のきそうになるほどの強烈な快感。なにより、あの食えないような笑顔を浮かべる黛が、あんな顔をしていた。澄ました笑顔ではなく、蕩けるように溺れている顔。
その表情を見た瞬間、安心院の胸の中に何かがこみ上げた。戻ってきた理性が崩れ落ち、抑えきれない欲望が呼び覚まされる。
自身の胸のところまで上げられた細い太ももを掴み、ゆっくりと抜いて、勢いよく叩きつける。繰り返すたびに、快楽が一層強くなっていく。結合部からぐじゅぐじゅといやらしい音が鳴り、汗と熱が絡み合う。
「あ、ぁ……は……ん……っ」
黛は高く細い嬌声をあげ、安心院にしがみつこうと手を伸ばす。その手を無視して、安心院はひたすら抽挿に集中した。自分が腰を動かすたびに、黛は喉をのけぞらせ、甘い悲鳴をあげる。
いつもの余裕そうな態度なんて見当たらない。ただ自分を求めるだけの獣。その必死な姿が愉快で、安心院の暗い感情を昂らせた。
「ぁ……センセ、きもちい、よ?」
「しゃべるな」
情欲を孕む濡れた赤い目が、安心院を捉える。揺さぶられる手足が安心院の全身を絡めとる。
捕らえられたのは、一体どちらなのだろうか。その境界は、今はわからなかった。
「ダメ、も、ぼく、限界……!」
きゅう、と中が一気に引き締まる。全てを搾り取るその反応に、安心院も限界を迎える。息を詰め、痛いほど張りつめた我慢の糸が切れた。自分から何かが流れ出していく感覚に身をまかせ、安心院は黛の上に倒れこむ。熱いのか冷たいのかわからない肌の下から聞こえる心音だけが、現実のように思えた。
*
紫煙が薄暗い部屋に漂う。タバコの灰が静かに落ち、乾いた音が空っぽの部屋の中で響く。吸い込んだ煙を深く吐き出し、酸素が奪われる感覚が薄れていた理性を冷やしていく。
さっきまでの出来事を頭に浮かぶたび、胸の中で強い嫌悪感がこみあげてくる。黛の冷ややかな笑顔と、欲に濡れた赤く濁った目が脳裏に焼き付い離れない。
今すぐにでもこの重さを振り払いたい。先ほどまでの行為をなかったことにしたくてたまらない。だが、根底に潜む歪んだ衝動が、心を熱く締め付ける。
「私は一体、何がしたかったんだ……」
部屋の外からシャワーの音が聞こえてくる。雨とはまた違った水音が、安心院の思考を現実へと引き戻していく。
乱れたシーツ、汗にまみれた自分の身体、背中に残るぴりっとした痛みが、あれが夢じゃないことをつきつけてくる。耳の奥には、あの時の甘い声がまだうっすらと残っている。
肺の中から息を吐きつくす。普段は苦いだけの吸い口が、何故かとても甘かった。
その呪いに舌打ちする。穂先が赤く燃え、重くなった感情が胸に広がる。重さに耐えきれなかった灰が落ち、シーツを汚した。
「シャワー借りたよ……って、ますみ先生何してんの?」
扉が開き、黛が入ってくる。まだ乾かない髪からしずくが滴り、濡れた首筋を這う。
安心院は目を合わせることなく、ぼうっと窓の外を見る。黛はにこにこと笑顔を浮かべ、濡れた足跡を残しながら安心院に近寄った。
「先生どうしたの、気持ちよくなかった?」
「……うるさいぞ貴様」
何事もなかったように黛が隣に座る。ふわっと香るシャンプーの匂いが鬱陶しい。
黛という人間がわからなくなる。気持ち悪いのに、心が軋む。
「普通、こういうことがあった後は気まずいものじゃないのか?」
「そう? こんなもんじゃない?」
疑問をそのままぶつけると、黛はきょとんと首を傾げた。
黛からしたら大したことじゃないのかもしれない。だが、安心院から見たら大問題だ。様々な懸念が次々に浮かぶ。一番許せないのは、この世で一番嫌悪する男と衝動で関係を持ってしまったことだ。
真意が読めない笑みを浮かべる黛をにらみ、安心院は意趣返しのつもりで、煙を黛の顔に向けて吹きかけた。
「今日のことは忘れろ」
「なんで?」
「こんなもの不毛だ」
「僕は忘れたくないなぁ」
けほけほと咳き込みながらも、黛の蛇の目が煙の向こうで安心院を映し出した。ぞく、と背筋に嫌なものが走る。
「先生ったら、すごく気持ちよさそうな顔してたんだよ」
「……ほざけ」
「僕たち、体の相性結構よかったりして?」
「誰が貴様と寝るか」
「もう寝ちゃったよ?」
からかうような黛の笑顔が、心のささくれた部分に引っかかった。
タバコを吸う手がとまる。黛はくすくすと声を隠さずに笑う。
「"過去と他人は変えられない"、そうでしょう、ますみ先生?」
「……エリック・バーンか」
その言葉に、安心院は一瞬目を閉じる。冷たい笑みを浮かべ、鼻でひとつ笑った。ゆっくりと、静かな声で名言の続きを言った。
「"だが未来は変えられる"、だから私は貴様ともう関わり合いたくない」
安心院は強く、冷たく言い切る。静かな空気が部屋を満たす。絶対零度の視線を向けても、黛はますます楽しげに唇を歪めた。
「そんなの、僕が決めるんだよ」
「貴様の意見は聞いておらん」
ベッドがきしむ。少しだけ開いていた距離が縮まる。黛のしっとりとした髪から、シャンプーのにおいが漂う。張り付いた前髪から覗く赤い瞳は、夜闇の中で爛々と輝いていた。同窓会の時とは似ていて違う、嫌な雰囲気がする。
安心院は無意識で背を引こうとするが、ヘッドボードで阻まれてしまう。
「それ以上近寄るな」
「君の意見なんて聞いてないよ?」
安心院の膝に黛の手が置かれる。これ以上距離が縮まると、本当に引きかえれなくなる。そんな予感がしたのに、手が動かない。
黛は緩慢な動きでにじりよる。やめろ、と言葉にしようとしても、胸につかえる何かが押しとどめる。なぜだか、黛の姿から目が離せない。
黛の薄い唇が安心院の耳にふれ、吐息がかかる。
「ますみ先生」
名を呼ばれる。嫌なのに、拒絶できない。
黛の声が悪戯に、甘く響いた。
「また、しようね?」
唇で耳を軽く甘噛みして、そっと離れた。
残された熱が染みつく。息苦しいほど不快なのに、全身にじわじわと伝えていく。シャンプーの香りと、ほのかに混じる黛自身の匂いが鼻孔を刺激するたびに、胸が不意に高鳴る。拒絶しようとすればするほど、体はその熱を欲しているのを感じる。反射的に求めてしまいそうになる自分が、どうしても許せなかった。
フィルターぎりぎりのところでタバコが燃える。苦くて甘い煙がゆらめく。拒絶の能書きを組み立て、口を開いた。
「……気が向いたらな」
能書きになかった回答が、口から自然とこぼれた。
自分の真意すらわからなくなる。だが、ふいに沸き上がってくる、あの不快で甘い熱の正体を確かめたい。体を重ねたときに感じたあの暗い欲は、きっと今後の糧になる。
窓の外をみると、夜が深くなっていた。雨はまだやみそうにない。
燃え尽きたタバコたちが灰皿のなかに積み重なる。いつもより早いペースで消費している。さらにもう一本と取り出すと、横からそれをかすめ取られた。
「返せ」
「いいじゃん、一本くらいちょうだい」
「貴様は吸わんだろうが」
取り返そうと手を伸ばすも、黛は届かない高さへと腕をあげる。黛はにやっと笑い、取ったタバコを手のひらで転がす。安い挑発に、安心院の神経は苛立ってくる。
「ふざけるな黛」
「そんなに怒らないでよ、ますみ先生」
「だったら返さんか」
安心院の催促に、黛はひるむ様子を見せない。むしろどんどんからかってくる。
だんだん本当に腹が立ってきて、掲げられた手首を強い力で取った。
「貴様、調子に乗るなよ」
地を這うようなかすれた低い声で、黛を睨みつける。黛は掴まれた腕を無理に払うことなく、もう片方の手でタバコをつまんで口にくわえる。
「今夜は吸ってみたい気分なんだ」
窓から差し込む月光が黛を淡く照らす。雨はやんだようだった。
黛の細い指先が、安いライターをくるくると弄ぶ。
「やめておけ」
「どうして?」
安心院がつかんでいた手首に、黛の手がするりと絡む。そのまま、ゆっくりと顔を寄せてきた。
近い。タバコの先端が、二人の距離を測るように揺れる。
「先生が吸ってるもの、興味あるな」
黛が猫のように優雅に微笑む。そして、ライターの火をつけようとスイッチを押す。
安心院はそれを無意識に叩き落していた。脳裏には、同窓会の帰りの、あの夜が浮かんでいた。
「……貴様にそれは、似合わん」
その言葉に隠された意図に、黛の目がわずかに細まる。
雨音が遠のいた静寂の中で、タバコの煙だけが静かにゆらめいた。
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