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第六話「滲む影」

 あれから黛はどこで知ったのか、たびたび安心院に連絡をよこすようになった。  最初は鬱陶しいと無視していたが、自宅におしかけられてからは、くだらない用件だけ聞いてやることにした。  電話の向こうから響くのは、どうでもいい世間話と、安心院をからかうような気取った冗談ばかりだ。  けれど本題は、いつもあの雨の日の夜の再演だった。  興味ないと突っぱねても、あの甘い声で誘われると、体の奥底がうずき胸がひりつく。こんなものに屈する自分への苛立ちとともに、その夜、黛が決まって安心院の自宅を訪ね、互いの欲を発散させていた。  こんな関係は不毛だ。なんの生産性もない。喉の奥に違和感としてずっとひっかかっていた。なのに、またこうして肌を重ねている。 「貴様、あと何回こうするつもりだ」  何度目かの夜、行為の後に安心院が吐き捨てるように言った。  黛は目を丸くして、くすりと笑いながら頬杖をつく。 「何も考えてないよ」 「だったら何故だ?」 「そんなことわかんないよ、ただ気の向くままに動いてるだけさ」  シーツをまとった黛はくすくすと笑い、安心院の脇腹をつついてくる。鬱陶しいと跳ねのけても、黛は笑い声を隠さない。 「じゃあますみ先生、君はあと何回僕を抱くの?」  赤い目がす、と細められる。  そう言われて、答えに詰まってしまった。  その答えを出せないまま、安心院は次の予定でホテルのラウンジに向かっていた。  とある文芸誌の取材だ。いつものジャージではなくスーツを強要され、タバコも吸えない息苦しさに苛立ち、コーヒー片手に関係者の話を聞いていた。  格式高い雑誌と聞いていたが、口を開けば見た目を褒めちぎる言葉ばかりだ。作品の話を振っても無視され、すぐ顔の話に戻ってくる。 「先生、本当に素敵なお顔立ちですね。絵画や彫刻のモデルにぴったりです!」 「その繊細な顔立ち、もっと近くで見せてください」  何度も繰り返される無駄な言葉を、安心院は無関心に受け流し続けた。  コーヒーカップを手に薄ら笑いを浮かべるが、美貌しか見ない愚か者へ の苛立ちに口の端が抑えきれずひくつく。こちらが話すタイミングすら与えられず、くだらない雑談を交わすしかなかった。  久瀬が何度か話題を変えようと会話に割り込むが、彼らはそれを無視して安心院ばかりを見る。そのたびに久瀬の顔色が青くなっていく。  汚らしい目が、安心院の全身をねっとりと這い回る。 「本当に芸術家の方って、世間とは違った美学を持ってるんですね……」 「先生のような素晴らしい作品を書かれる方は、やはり美貌も兼ね備えていらっしゃるんですね」  本当に無駄で、鬱陶しくて、くだらない。  作品や安心院の考えには一切触れず、「美しいだけの人間」として消費していく。  醜い思考を隠す気のない態度に、カップを持つ手に力が入る。だんだんと指先が震え、貧乏ゆすりが増えていくのがわかる。 「でも、作品を通して見えるものが全てですよ」  久瀬が助け船を出す。冷や汗を流しながら、久瀬は安心院に視線を送る。それに乗っかろうと口を開く前に、彼らはまた意味のない戯言を垂れ流す。どれもこれも同じような、どうでもいい言葉ばかり。いい加減うんざりだ。  結局、打ち合わせは建前でしかない。ここにいるのは、安心院の外見だけを欲しがる人たちだ。  指先に力が入り、徐々に白くなる。コーヒーが揺れ、濃い色の湖面のように波打つ。心の奥底で堪えていたものが、今にも噴き出しそうになる。  この屈辱感を、どうしてくれる。  言葉にならない怒りがこみあげ、喉の奥がひどく焼け付くのを感じる。安心院の手は震えを抑えきれず、カップをソーサーに戻す際にカタカタと音を立てた。 「おい貴様ら、いい加減に……!」  限界を迎えた怒りが口から出ようとした瞬間、安心院の目は知っている顔を捉えた。  いつものゆったりとしたカーディガンではなく、余所行きの上品なスリーピースのスーツを身にまとい、黛は愛想のいい笑みを浮かべている。対面に座るのは、成金趣味丸出しで不愉快極まりない、いかにも金持ちそうな中年男だ。漏れ聞こえる会話は穏やか過ぎて、どこか不自然に感じた。 「…………黛?」  なぜ奴がこんなところにいる。  先ほどまでの怒りがどんどん冷めていく。  おそらく向こうも商談かなにかだろうと思われるが、金持ちの男の方の目は違っていた。 どこか品定めするような、全身をなめ回す欲望に満ちた目線。知っている。これは、幼い時自分に向けられていたものと同じだ。  男は立ち上がり、黛もそれに従う。男がためらいなく黛の腰に手を回し、撫で回す姿に、安心院の胸に幼い頃の嫌悪と怒りが込み上げた。  二人はエレベーターホールへと歩いていき、そのまま姿が見えなくなった。   「安心院先生? どうかしました?」  意識の外から話しかけられる。取材に来ていた彼らが、怪訝な目をこちらに向けてくる。そういえば、今は取材の最中だった。  腰を下ろそうとする。だが、黛が男に向けていた媚びた表情が脳裏から離れない。 「――久瀬」 「は、はい?」 「これ以上、無駄な時間を過ごすつもりはない」 「ちょ、え!? 先生!?」  久瀬が素っ頓狂な声をあげるが、安心院は無視してそのまま席を立つ。後ろから何かわめいているが知ったことか。  つかつかと革靴のヒールを鳴らし、喫煙室へと飛び込む。扉を乱暴に開け、タバコと同時にスマホを取り出す。通話履歴から目当ての番号を探し、通話開始に指をかけたが、止まる。  ――あと何回、僕のことを抱くの?  先日言われた言葉が耳の中でうるさく木霊する。  この番号にかけるということは、つまりそういうことになる。 「……違う」  そんなこと、自分は望んでいない。  壁に背を預け、ずるずると沈んでいく。スーツがしわになるのも気にせず、床に座り込んだ。  黛がどうしていようと、自分には全く関係のないことだというのに。あの雨の夜の日から、何が変わってしまったというのか。  タバコに火をつけて、深く吸い込む。  苦くて甘い煙は、答えを教えてくれるはずもなかった。 *  数日後、黛から再び連絡が来た。  電話の向こうから聞こえる、あの甘い声。普段なら電話を叩き切ってやるところだが、妙に引き寄せられるところがあって、黙って聞き流していた。 「先生、このあといいかな?」  いつもの誘い文句。「やかましい」と一刀両断したい気持ちよりも先に、肯定の言葉が漏れていた。  黛は一瞬の沈黙の跡、くすくすと笑う。 「わかったよ……じゃあまたね、ますみ先生」  その言葉の後、通話は切れた。今回はやけにあっさりしていた。スマホを机に置くとき、手が震えていたことに初めて気が付いた。  どうして、こんなことに。  心の中で呟くが、空虚に響くだけだった。  その疑問を振り払って、安心院は執筆に戻る。原稿用紙に向き直っても、言葉が一向に浮かんでこない。思考がまとまらず、まともに手がつかない。  これでは仕事に支障が出る。席を立ってコーヒーを淹れに行く。火が小さく爆ぜる音を聞きながら、無意識のうちにせわしなく手が動いていた。  その時、玄関のチャイムが鳴る。 「ますみ先生、こんばんわ~」  形だけのあいさつをして、無遠慮に中に入っていく足音が聞こえてくる。それはまっすぐにこちらに向かってきて、ひょっこりと顔をのぞかせた。 「あれ、ますみ先生もしかして休憩中だった?」 「貴様は待てができない駄犬か?」 「相変わらず冷たいねえ」  そこも可愛いけど、と抜かす黛の足を即座に踏む。踏まれた足を引っ込めながら、黛は「ひどいなあ」と大げさに笑ってみせる。だが痛がるどころか、むしろ楽しんでいるようにすら見えた。 「お茶くらい出してくれてもいいんじゃない?」 「出す理由がない」 「先生はそうやって、愛想も何もないから編集さんに苦労かけるんだよ」 「貴様に言われる筋合いはない」  安心院は黛を睨みつけ、乱暴にカップを置く。陶器同士がぶつかり、甲高い音を立てた。  黛はそれを目で追いながら、ニヤリと笑う。 「ねえ、もしかして怒ってる?」 「……誰が」 「だって顔が怖いよ。こわ~い先生に怒られたら、僕泣いちゃうなあ」  両手を顔で覆ってウソ泣きをして見せる黛に、呆れてため息が出てくる。  しかし指の隙間から覗く彼の赤い瞳に映る自分の顔は、きっと今、ひどく歪んでいるのだろう。怒ってなどいない。そう言い切る自信はなかった。  つい先日、ホテルで見た光景が脳裏にちらつく。  成金趣味の男が黛の腰に手を回し、馴れ馴れしく撫でる。そして、品定めするような、欲を隠さない汚らわしい視線。  なにより、それを拒むことなく、当然のことのように受け入れていた黛の媚びた笑み。  ぎりっと安心院の奥歯がきしむ。 「……ますみ先生?」  黛の声が、やけに甘く響く。  気づけば、いつの間にか距離が縮まっていた。すぐ目の前で、安心院の手に黛の細い指が添えられる。 「そんな怖い顔して、どうしたの? 何か気に障ることでもあった?」 「貴様には関係ない」 「ふーん?」  意地わるそうに笑う唇が、挑発するように動く。見定めてくるような視線にうんざりする。  こんな男に踊らされるのは、もう限界だ。  それなのに。 「……貴様の芸術には、何の誇りもないのか?」  ケトルの甲高い音を立てる。  唐突に零れ落ちた言葉に、黛の眉がぴくりと動いた。 「何の話?」 「しらばっくれるな、貴様のやっていることだ」  曖昧にごまかそうとする黛を、安心院は逃さない。  黛は視線をそらしながらも、その動きの隅々に計算された冷淡をが感じられた。 「先日、ホテルのラウンジにいただろう」 「だから?」  記憶の中で、黛が他の男と一緒にいたシーンがフラッシュバックする。自分の言葉を封じられ、欲望に振り回されるあの光景が、今も頭から離れない。 「……そんな薄汚いやり方で、何を表現できるというんだ?」  言葉が吐き出されると同時に、安心院の視界が揺れる。胸の奥から湧き上がる怒りを必死に抑え込むが、止められない。  黛は感情の見えない目でじっと、安心院を見たあと、唇の端を冷たく歪めた。 「先生には関係ないことでしょ?」  その言葉に、安心院の喉が締めつけられた。  目の前が暗くなって、立っていられなくなる。視界が狭まり、全てが歪んでいくような感覚が広がる。喉元にナイフを突きつけられたような緊張感が、二人の間に漂う。 「芸術の世界ってのはね、金持ちの道楽でしかないんだ」  黛は虚ろな目で、小さい子に教えるように、ゆっくりとかみ砕いて話していく。  添えられただけの黛の指が、安心院の掌に絡む。触れられているのに、動くことを許されないような気がしてくる。 「フリーの僕が好き勝手やってられるのは、まあ、彼のおかげってわけさ」  自己満足のために他人を道具にすると、安心院はそう解釈したが、理解はできても脳が飲み込むのを拒んだ。可能性は十分考えられたのに、それを除外していたのはなぜか。理解不能な出来事の多さに、思考が溶けていく。  次の言葉を並べる前に、黛は一度口を閉じる。感情の見えない瞳が、不気味なほど静かだった。 「……ていうかさぁ」  黛の目が妖しく歪む。悪意を隠す気がない邪悪な笑みが、安心院の視界いっぱいに広がった。こちらを食ってやろうという蛇の目が、まっすぐに安心院に向けられた。 「先生はさ、僕が誰かに触られるの、そんなに見たくなかった?」 「……それ、は」  そんなわけがない。そう答えれば済むだけなのに、言葉が喉を通らない。  否定するための言葉をかき集めても、何もかもが絡まってしまって、全て言い訳のように聞こえてしまう。  安心院が答えに詰まっていると、黛はため息をひとつつく。絡めていた指を離し、すたすたとキッチンから出ていく。 「今日はもういいや、帰るね」  玄関からドアの音が聞こえる。  バタン、と閉じる音が廊下に響く。無音の中、安心院はじっとその場に立ち尽くしていた。心臓の鼓動が耳鳴りのように響き、肩がやけに重い。  数分が経過した頃ようやく動けるようになったが、黛に掴まれていた手が震えていることに気付いた。 「……私は、一体、何をしているんだ」  小さく呟く言葉が、静かな部屋で反響する。  冷たい空気の中で、問いが頭の中でぐるぐると渦を巻き、答えのない迷宮に迷い込んだような気分になる。  らしくもない。自分が誰かを気にすることも、行動を咎め制限しようとするのも。他人など心底どうでもいい。奴らは自分に対して欲望を向け、そのはけ口にしようとする。だから今まで拒絶して、独りで生きてきた。  それなのに。 「何故私が、黛を気にせねばならんのだ」  自嘲するように笑っても、心の奥底に溜まった答えは見つからない。  震える手を強く握りしめてみるが、それで少しは心が静まるわけでもなく。黛が帰った今も、部屋にはどこか彼の影が残っているような気がしてならなかった。  数秒後、立ち上がる。その足が、どこか重く感じられたが、すぐに冷静を取り戻そうとする。 「今日は、もう寝るか」  けれど、部屋の隅に落ちた彼の言葉が、消えることはなかった。

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