6 / 7
第六話「滲む影」
あれから黛はどこで知ったのか、たびたび安心院に連絡をよこすようになった。
最初は鬱陶しいと無視していたが、自宅におしかけられてからは、くだらない用件だけ聞いてやることにした。
電話の向こうから響くのは、どうでもいい世間話と、安心院をからかうような気取った冗談ばかりだ。
けれど本題は、いつもあの雨の日の夜の再演だった。
興味ないと突っぱねても、あの甘い声で誘われると、体の奥底がうずき胸がひりつく。こんなものに屈する自分への苛立ちとともに、その夜、黛が決まって安心院の自宅を訪ね、互いの欲を発散させていた。
こんな関係は不毛だ。なんの生産性もない。喉の奥に違和感としてずっとひっかかっていた。なのに、またこうして肌を重ねている。
「貴様、あと何回こうするつもりだ」
何度目かの夜、行為の後に安心院が吐き捨てるように言った。
黛は目を丸くして、くすりと笑いながら頬杖をつく。
「何も考えてないよ」
「だったら何故だ?」
「そんなことわかんないよ、ただ気の向くままに動いてるだけさ」
シーツをまとった黛はくすくすと笑い、安心院の脇腹をつついてくる。鬱陶しいと跳ねのけても、黛は笑い声を隠さない。
「じゃあますみ先生、君はあと何回僕を抱くの?」
赤い目がす、と細められる。
そう言われて、答えに詰まってしまった。
その答えを出せないまま、安心院は次の予定でホテルのラウンジに向かっていた。
とある文芸誌の取材だ。いつものジャージではなくスーツを強要され、タバコも吸えない息苦しさに苛立ち、コーヒー片手に関係者の話を聞いていた。
格式高い雑誌と聞いていたが、口を開けば見た目を褒めちぎる言葉ばかりだ。作品の話を振っても無視され、すぐ顔の話に戻ってくる。
「先生、本当に素敵なお顔立ちですね。絵画や彫刻のモデルにぴったりです!」
「その繊細な顔立ち、もっと近くで見せてください」
何度も繰り返される無駄な言葉を、安心院は無関心に受け流し続けた。
コーヒーカップを手に薄ら笑いを浮かべるが、美貌しか見ない愚か者へ
の苛立ちに口の端が抑えきれずひくつく。こちらが話すタイミングすら与えられず、くだらない雑談を交わすしかなかった。
久瀬が何度か話題を変えようと会話に割り込むが、彼らはそれを無視して安心院ばかりを見る。そのたびに久瀬の顔色が青くなっていく。
汚らしい目が、安心院の全身をねっとりと這い回る。
「本当に芸術家の方って、世間とは違った美学を持ってるんですね……」
「先生のような素晴らしい作品を書かれる方は、やはり美貌も兼ね備えていらっしゃるんですね」
本当に無駄で、鬱陶しくて、くだらない。
作品や安心院の考えには一切触れず、「美しいだけの人間」として消費していく。
醜い思考を隠す気のない態度に、カップを持つ手に力が入る。だんだんと指先が震え、貧乏ゆすりが増えていくのがわかる。
「でも、作品を通して見えるものが全てですよ」
久瀬が助け船を出す。冷や汗を流しながら、久瀬は安心院に視線を送る。それに乗っかろうと口を開く前に、彼らはまた意味のない戯言を垂れ流す。どれもこれも同じような、どうでもいい言葉ばかり。いい加減うんざりだ。
結局、打ち合わせは建前でしかない。ここにいるのは、安心院の外見だけを欲しがる人たちだ。
指先に力が入り、徐々に白くなる。コーヒーが揺れ、濃い色の湖面のように波打つ。心の奥底で堪えていたものが、今にも噴き出しそうになる。
この屈辱感を、どうしてくれる。
言葉にならない怒りがこみあげ、喉の奥がひどく焼け付くのを感じる。安心院の手は震えを抑えきれず、カップをソーサーに戻す際にカタカタと音を立てた。
「おい貴様ら、いい加減に……!」
限界を迎えた怒りが口から出ようとした瞬間、安心院の目は知っている顔を捉えた。
いつものゆったりとしたカーディガンではなく、余所行きの上品なスリーピースのスーツを身にまとい、黛は愛想のいい笑みを浮かべている。対面に座るのは、成金趣味丸出しで不愉快極まりない、いかにも金持ちそうな中年男だ。漏れ聞こえる会話は穏やか過ぎて、どこか不自然に感じた。
「…………黛?」
なぜ奴がこんなところにいる。
先ほどまでの怒りがどんどん冷めていく。
おそらく向こうも商談かなにかだろうと思われるが、金持ちの男の方の目は違っていた。
どこか品定めするような、全身をなめ回す欲望に満ちた目線。知っている。これは、幼い時自分に向けられていたものと同じだ。
男は立ち上がり、黛もそれに従う。男がためらいなく黛の腰に手を回し、撫で回す姿に、安心院の胸に幼い頃の嫌悪と怒りが込み上げた。
二人はエレベーターホールへと歩いていき、そのまま姿が見えなくなった。
「安心院先生? どうかしました?」
意識の外から話しかけられる。取材に来ていた彼らが、怪訝な目をこちらに向けてくる。そういえば、今は取材の最中だった。
腰を下ろそうとする。だが、黛が男に向けていた媚びた表情が脳裏から離れない。
「――久瀬」
「は、はい?」
「これ以上、無駄な時間を過ごすつもりはない」
「ちょ、え!? 先生!?」
久瀬が素っ頓狂な声をあげるが、安心院は無視してそのまま席を立つ。後ろから何かわめいているが知ったことか。
つかつかと革靴のヒールを鳴らし、喫煙室へと飛び込む。扉を乱暴に開け、タバコと同時にスマホを取り出す。通話履歴から目当ての番号を探し、通話開始に指をかけたが、止まる。
――あと何回、僕のことを抱くの?
先日言われた言葉が耳の中でうるさく木霊する。
この番号にかけるということは、つまりそういうことになる。
「……違う」
そんなこと、自分は望んでいない。
壁に背を預け、ずるずると沈んでいく。スーツがしわになるのも気にせず、床に座り込んだ。
黛がどうしていようと、自分には全く関係のないことだというのに。あの雨の夜の日から、何が変わってしまったというのか。
タバコに火をつけて、深く吸い込む。
苦くて甘い煙は、答えを教えてくれるはずもなかった。
*
数日後、黛から再び連絡が来た。
電話の向こうから聞こえる、あの甘い声。普段なら電話を叩き切ってやるところだが、妙に引き寄せられるところがあって、黙って聞き流していた。
「先生、このあといいかな?」
いつもの誘い文句。「やかましい」と一刀両断したい気持ちよりも先に、肯定の言葉が漏れていた。
黛は一瞬の沈黙の跡、くすくすと笑う。
「わかったよ……じゃあまたね、ますみ先生」
その言葉の後、通話は切れた。今回はやけにあっさりしていた。スマホを机に置くとき、手が震えていたことに初めて気が付いた。
どうして、こんなことに。
心の中で呟くが、空虚に響くだけだった。
その疑問を振り払って、安心院は執筆に戻る。原稿用紙に向き直っても、言葉が一向に浮かんでこない。思考がまとまらず、まともに手がつかない。
これでは仕事に支障が出る。席を立ってコーヒーを淹れに行く。火が小さく爆ぜる音を聞きながら、無意識のうちにせわしなく手が動いていた。
その時、玄関のチャイムが鳴る。
「ますみ先生、こんばんわ~」
形だけのあいさつをして、無遠慮に中に入っていく足音が聞こえてくる。それはまっすぐにこちらに向かってきて、ひょっこりと顔をのぞかせた。
「あれ、ますみ先生もしかして休憩中だった?」
「貴様は待てができない駄犬か?」
「相変わらず冷たいねえ」
そこも可愛いけど、と抜かす黛の足を即座に踏む。踏まれた足を引っ込めながら、黛は「ひどいなあ」と大げさに笑ってみせる。だが痛がるどころか、むしろ楽しんでいるようにすら見えた。
「お茶くらい出してくれてもいいんじゃない?」
「出す理由がない」
「先生はそうやって、愛想も何もないから編集さんに苦労かけるんだよ」
「貴様に言われる筋合いはない」
安心院は黛を睨みつけ、乱暴にカップを置く。陶器同士がぶつかり、甲高い音を立てた。
黛はそれを目で追いながら、ニヤリと笑う。
「ねえ、もしかして怒ってる?」
「……誰が」
「だって顔が怖いよ。こわ~い先生に怒られたら、僕泣いちゃうなあ」
両手を顔で覆ってウソ泣きをして見せる黛に、呆れてため息が出てくる。
しかし指の隙間から覗く彼の赤い瞳に映る自分の顔は、きっと今、ひどく歪んでいるのだろう。怒ってなどいない。そう言い切る自信はなかった。
つい先日、ホテルで見た光景が脳裏にちらつく。
成金趣味の男が黛の腰に手を回し、馴れ馴れしく撫でる。そして、品定めするような、欲を隠さない汚らわしい視線。
なにより、それを拒むことなく、当然のことのように受け入れていた黛の媚びた笑み。
ぎりっと安心院の奥歯がきしむ。
「……ますみ先生?」
黛の声が、やけに甘く響く。
気づけば、いつの間にか距離が縮まっていた。すぐ目の前で、安心院の手に黛の細い指が添えられる。
「そんな怖い顔して、どうしたの? 何か気に障ることでもあった?」
「貴様には関係ない」
「ふーん?」
意地わるそうに笑う唇が、挑発するように動く。見定めてくるような視線にうんざりする。
こんな男に踊らされるのは、もう限界だ。
それなのに。
「……貴様の芸術には、何の誇りもないのか?」
ケトルの甲高い音を立てる。
唐突に零れ落ちた言葉に、黛の眉がぴくりと動いた。
「何の話?」
「しらばっくれるな、貴様のやっていることだ」
曖昧にごまかそうとする黛を、安心院は逃さない。
黛は視線をそらしながらも、その動きの隅々に計算された冷淡をが感じられた。
「先日、ホテルのラウンジにいただろう」
「だから?」
記憶の中で、黛が他の男と一緒にいたシーンがフラッシュバックする。自分の言葉を封じられ、欲望に振り回されるあの光景が、今も頭から離れない。
「……そんな薄汚いやり方で、何を表現できるというんだ?」
言葉が吐き出されると同時に、安心院の視界が揺れる。胸の奥から湧き上がる怒りを必死に抑え込むが、止められない。
黛は感情の見えない目でじっと、安心院を見たあと、唇の端を冷たく歪めた。
「先生には関係ないことでしょ?」
その言葉に、安心院の喉が締めつけられた。
目の前が暗くなって、立っていられなくなる。視界が狭まり、全てが歪んでいくような感覚が広がる。喉元にナイフを突きつけられたような緊張感が、二人の間に漂う。
「芸術の世界ってのはね、金持ちの道楽でしかないんだ」
黛は虚ろな目で、小さい子に教えるように、ゆっくりとかみ砕いて話していく。
添えられただけの黛の指が、安心院の掌に絡む。触れられているのに、動くことを許されないような気がしてくる。
「フリーの僕が好き勝手やってられるのは、まあ、彼のおかげってわけさ」
自己満足のために他人を道具にすると、安心院はそう解釈したが、理解はできても脳が飲み込むのを拒んだ。可能性は十分考えられたのに、それを除外していたのはなぜか。理解不能な出来事の多さに、思考が溶けていく。
次の言葉を並べる前に、黛は一度口を閉じる。感情の見えない瞳が、不気味なほど静かだった。
「……ていうかさぁ」
黛の目が妖しく歪む。悪意を隠す気がない邪悪な笑みが、安心院の視界いっぱいに広がった。こちらを食ってやろうという蛇の目が、まっすぐに安心院に向けられた。
「先生はさ、僕が誰かに触られるの、そんなに見たくなかった?」
「……それ、は」
そんなわけがない。そう答えれば済むだけなのに、言葉が喉を通らない。
否定するための言葉をかき集めても、何もかもが絡まってしまって、全て言い訳のように聞こえてしまう。
安心院が答えに詰まっていると、黛はため息をひとつつく。絡めていた指を離し、すたすたとキッチンから出ていく。
「今日はもういいや、帰るね」
玄関からドアの音が聞こえる。
バタン、と閉じる音が廊下に響く。無音の中、安心院はじっとその場に立ち尽くしていた。心臓の鼓動が耳鳴りのように響き、肩がやけに重い。
数分が経過した頃ようやく動けるようになったが、黛に掴まれていた手が震えていることに気付いた。
「……私は、一体、何をしているんだ」
小さく呟く言葉が、静かな部屋で反響する。
冷たい空気の中で、問いが頭の中でぐるぐると渦を巻き、答えのない迷宮に迷い込んだような気分になる。
らしくもない。自分が誰かを気にすることも、行動を咎め制限しようとするのも。他人など心底どうでもいい。奴らは自分に対して欲望を向け、そのはけ口にしようとする。だから今まで拒絶して、独りで生きてきた。
それなのに。
「何故私が、黛を気にせねばならんのだ」
自嘲するように笑っても、心の奥底に溜まった答えは見つからない。
震える手を強く握りしめてみるが、それで少しは心が静まるわけでもなく。黛が帰った今も、部屋にはどこか彼の影が残っているような気がしてならなかった。
数秒後、立ち上がる。その足が、どこか重く感じられたが、すぐに冷静を取り戻そうとする。
「今日は、もう寝るか」
けれど、部屋の隅に落ちた彼の言葉が、消えることはなかった。
ともだちにシェアしよう!

