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第七話「過去の残響」

 ホテルでの一件は、お互い触れられぬタブーと化した。あの屈辱を認めるような話題は、安心院にとって耐え難く、黛にとっても避けるべきものだった。  黛は気まぐれに連絡をよこし、安心院の家に現れては体を重ねる。変わったことといえば、行為の後に黛がスマホで誰かと連絡を取る癖が増えた。鼻歌を歌いながらスマホを弄る黛はどこか楽しげで、安心院には不愉快極まりなかった。  行為後のけだるさが部屋に漂うなか、安心院は黛の顔を見たくなくて、目をそらすことしかできなかった。  それなのに、目をそらしても、なぜか黛の影に引き寄せられる自分がいた。  あの軽薄な振る舞いに苛立ち、距離を取ろうとする瞬間にも、心は無意識に貴様の存在を追い続けている。無意識に避けようとするほど、黛の居場所が気になった。  こんなものはただの不快感だ、そうに決まっている。だが、どこかで黛の存在を追っている自分を否定できない。無意識にそちらに引き寄せられているのが、腹立たしかった。 「ますみ先生ってさ、意外と好かれてるよね」  黛がニヤつきながらベッド下を漁り、埃まみれの紙の束を取り出す。それらは薄汚れており、開封された痕跡すらなかった。  黛は一枚一枚丁寧に開け、中身を見ていく。無骨なものやかわいらしいもの、色も形も様々だが、安心院にはそれらが全てつまらないものに見えていた。なかに綴られていたのは、作品に対する感想と次回の展望への要望、そんな純粋な思いたちだ。 「くだらんだろう、そんなもの」 「そう? ありがたいものじゃん、ファンからの声ってさ」 「そんなくだらん思いを綴る前に、一つでも多く作品を読め」 「ますみ先生らしいね、そこが面白いんだけどさ」  黛は無表情で便箋をめくりながら、どこか楽しそうに続きを見ていく。その様子が、安心院にとってとても苛立たしかった。  ふと、積み重ねられた白の中に、普段とは違う気配を感じ取る。黛は封筒の山を漁り、それを拾い上げる。 「茶封筒に入れるなんて、なんか事務的じゃない?」 「そんな輩もいるのかもしれんな」 「適当すぎでしょ」  黛はけらけらと笑いながら、糊付けを乱暴に剥がし、便箋を取り出す。丁寧に三つ折りされたそれを開いた瞬間、安心院の目が限界まで見開かれた。 「えーと、『ますみちゃんへ』……って、君、名前で呼ばれるんだぁ?」  その単語を聞いた瞬間、安心院の呼吸が凍りつき、背筋に過去の冷たい恐怖が突き刺さった。  記憶の底から、一番思い出したくないものがあふれてくる。両親に支配されていた日々。耳の奥に残っている母親の声が勝手に再生される。「ますみちゃん」――そう呼ばれた瞬間に閉じ込められたあの檻の感触が、再び蘇った。  その感情が膨れ上がると同時に、安心院は無意識に声を荒げていた。 「今すぐそれを捨てろ!」  静かだった部屋に、安心院の怒号が反響する。黛の便箋のめくる手が止まる。  安心院は便箋を取り上げ、無言でびりびりに破り捨てる。もう文字も読めないほど細かくし、灰皿の上で燃やしていく。ゆらめく炎のなかに、過去に捨ててきた嫌な記憶が映っている気がして、視界が揺れ、目の前がぼやける。体中に冷たい汗がにじみ、心臓が激しく鼓動を打つ。目を閉じてその感覚を押し込めようとするが、体が硬直し、全身が震える。息を詰めることさえできず、鼓動が耳を支配する。視界がぼやけ、喉の奥がひりつくほど渇いていく。 「あれがなんだったか、聞いても?」  黛の挑発的な声が、近くにいるはずなのに遠くから聞こえてくる。安心院の動揺を愉しんでいるかのような態度が癇に障る。  安心院は震える手でタバコを深く吸い、そして濃い煙を吐き出す。煙が不規則に漂い、怒りを表すように空気を圧迫し、充満していく。 「……あれは、戸籍上私の父母にあたる奴からだ」 「へえ、お父さんとお母さんいたんだ」 「あくまでも書面上の話だ、私はあれを親などと思いたくない」  吐き捨てるように言うが、どうしても声が震えた。拳をきつく握りしめ、手のひらに血がにじむ。燃えつきた灰すら、両親の面影を残しているように見えて、限界を迎えた嫌悪感が喉をせり上がってくる。胃の中がひっくり返りそうになる。それを無理やり飲み込んだ代わりに、胸の中がじりじりと焼け付くように痛んだ。  黛はそれを冷ややかな目で見ていた。 「両親くらい大事にしたら? 君を育ててくれたんだし」 「黙れ黛」  煙る部屋の中で、安心院の青い瞳が冷徹に鋭く光る。抑えきれない殺意と怒りが、胸の奥でじわじわと膨れ上がっていく。  安心院の殺意を正面から受け止めながら、黛は笑い続ける。 「君を愛してくれる親がいるなら、いいじゃないか」 「それ以上喋るな……!」  黛の容赦ない言葉が安心院の胸をえぐり、溜まっていた嫌悪感が一気に噴き出す。  しかし黛は無表情でそれを受け流し、目を伏せ静かな笑みを浮かべた。 「……そう。君も、そうだったんだ」  まるで自分に言い聞かせるような言葉が、黛の口から静かに、そして冷たく吐き出された。  黛の目には、無関心と自嘲の影が滲んでいた。安心院をあざ笑うのではなく、自分の傷を他人に投げかけているような。普段の姿から想像できない姿に、安心院は思わず固まった。  黛の一言が、安心院の心にひとしずくの冷水を投げ込む。それが驚くほど温かく、そして痛い。曇りのような感情が、心の奥でじわじわと広がる。 「……貴様も? どういう意味だ」 「意味なんて自分で考えなよ、先生ならわかるでしょ?」  黛はゆっくりと目を合わせ、その視線に含まれた意味を少しだけ滲ませて、安心院の目を見つめた。  その一言で、安心院の心にぽっかりと穴があいたように感じた。怒りが冷めていくのと同時に、その言葉がどこから来たのかを考えずにはいられなかった。  黛は自分の衣服を整え、足早に家から去っていった。いつもなら「またしようね」とほざく口は、開かれなかった。  自分一人だけになった部屋で、安心院は紫煙をくゆらせる。 「……黛、貴様は一体何を考えているんだ?」  窓から差し込む月明りが灰皿を照らす。灰にまみれたそこにタバコを押し付け、火を消す。うまく消えなかったのか、細く煙が立ち上る。  なんとなく嫌な予感がする。安心院の直観がそう告げている。その直感がただの気のせいじゃないことを、すぐにでも実感するのだろう。  そして、それを知るのは、思ったより早かった。  数日後、編集部から呼び出しを受けた安心院は、面倒くさそうに椅子に深く腰掛けていた。大事な用件と聞いているが、原稿の打ち合わせはこの前したばかりだ。雑誌の取材であれば断るように言ってある。 「久瀬、用件は何だ」 「えーと、その……先生にお会いしたい方がアポを取ってきまして」 「聞いてないぞ、帰る」 「いや、先生に帰られると困るんですけど!? このあと打ち合わせなんですからね?」  足を組み替え、威嚇するように久瀬を睨みつける。久瀬はたじろぐが、先方の都合もあるのか引いてくれない。割と融通をきかせてくれる久瀬がここまでするとは、相手は相当強く言ってきたのだろう。それとも、なにか特別な理由があるのか。  自分のペースを乱されてイライラしてくる。タバコを吸いに行こうかと席を立つと、部屋のドアがノックされる。 「お客様が来られましたね」  久瀬がドアを開けると、妙齢の男女が入ってきた。彼らが近づくたびに、安心院の中に不安の波が広がる。何も変わらないはずなのに、何かが違う。そんな不穏な気配が漂っている。 「ますみちゃん、久しぶりねぇ」 「親からの連絡を無視するなんて、ひどい子だよ」  偽りの優しさを纏った挨拶に、安心院の両目が限界まで見開かれた。  心音が自分の耳に響くようにうるさい。耳鳴りがひどく鳴る。  どうして、何故。疑問が安心院の脳内をぐるぐると駆け巡るが、目の前の二人は待ってくれなかった。 「ますみちゃん、そんな怖い顔しないで?」 「ひどいなあ。ずっとますみのこと心配していたんだぞ?」 「どうしてそんなに怒るの? 私たち、ますみちゃんのために来たのに」  ふたりは安心院に近寄り、肩に手を置いたり、頭を撫でる。柔らかく、優しく、心を撫でるような声。  はたからみたら、親子の感動の再会なのだろう。しかし、安心院の心中はとても穏やかじゃなかった。 「…………ふざけるな」  だん、と安心院の拳が机を思い切り叩く。鈍い音が狭い会議室の中に響き渡る。安心院に触れていた手たちがぴたりと止まり、冷たい視線がじっと注がれた。 「貴様らは……私の人生から消えたはずだ」  怒りが自身のうちに煮えたぎっているのに、出てくる声は他人のもののように弱々しい。両親を見上げるも、ふたりは余裕の笑みを浮かべ、冷え切った目で安心院を見ていた。 「ますみちゃん、どうしてそんなに怒るの?」  氷よりも冷たい声が、安心院の耳に刺さる。心臓がドクンと鳴り、過去に閉じ込めたはずの記憶が一気に浮かび上がる。両親の作られた優しげな笑顔、自分を飾り立てる手、そしてあの冷徹な視線。 「貴様らは、私の――」  途中で言葉が続かなくなる。両肩に手を置かれ、母親の手が肩に触れるたびに、安心院の体が硬直する。どこからか冷たい空気が流れ込み、息が詰まる。触れられるたびに、自分が再びあの頃に戻されていくような気がして、体が拒絶反応を起こす。  母親が顔を近づけ、安心院の耳元で諭すように囁いた。 「いけないわますみちゃん、そんな乱暴な口きいたら」  立ったその一言で、安心院の体が重く、自由を奪われるような感覚に襲われる。あの頃の自分が、再び体の中に戻ってきたようだった。心の中では「黙れ」と叫んでいるのに、体が全く動かない。  いつもそうだった。何か話そうとしたら「はしたない」、何かすれば「お行儀よくしなさい」と厳しく𠮟り、両親は安心院が自分たちに従順であることを強制した。  もう大人になったというのに、両親はあの頃と変わっていない。  過去の影が、今も自分に縛り付けられている。あの頃、必死で逃げようとしたが、結局どこに逃げても、あの支配からは逃れられなかったのだ。  母親の手が、安心院の肩を包み込むように、優しく撫でる。その温かさが、逆に痛みを伴う。まるで安心院を無理にでも守ろうとするように。そのやさしさが、安心院にとっては恐怖そのものであり、愛情の形をした鎖のようだった。 「ますみちゃん、私たちはあなたのことを思って言っているのに、どうしてそんな態度を取るの?」  母親の顔が、まるで美しい仮面のように安心院の視界を塞ぐ。あまりにも上品で、冷徹で、何もかもが計算された微笑み。安心院の胸の中に、生理的嫌悪感が沸き起こり、荒れ狂う並みのように押し寄せる。 「愛しているからこそ、あなたを大切にしているのよ」  全身が凍りつき、何かが壊れていくような音がした。  その言葉を聞くたびに、安心院は自分がいかに無力だったかを思い知らされる。あの頃の自分が、今もここにいるような気がしてならなかった。  父親が安心院の前に膝をつき、目線を合わせる。優しい父親の顔が美しい仮面となって、安心院の目の前をふさいだ。 「そうだぞますみ、私たちはお前のことを愛しているんだ」 「そうよますみちゃん、あなたは私たちの大事な子よ」  感情が伴っていない両親の声が、安心院の全身を雁字搦めに縛っていく。胸が締め付けられ、息が詰まる。今胸の中に渦巻いているのは怒りと痛みのはずなのに、過去の自分が蘇ったのか、体が全く反応しない。  微笑んでいる両親の優しげな瞳が、安心院の精神を圧し潰す。この表情が偽りであることを、痛いほど知っている。どれだけ「愛している」と口にしても、その裏に隠されたものを知らないわけではない。あの頃と同じように、両親は安心院ますみを"自分たちを飾るための道具"としてしか見ていない。それが分かっているからこそ、安心院はどうしてもその愛を受け入れられなかった。 「…………黙れ」  その言葉が喉を通り抜ける時、心の中で何度も叫びが響いていた。自分の声を振り絞っただけで、頭がズキズキ痛んで、体が震えているのがわかる。 「ますみ、そんなこと言うな。お前はそういう子じゃないだろう?」  父親の手が肩に触れる。悪寒が背筋を駆け抜ける。たったそれだけで何も言えなくなる自分が、とても情けなかった。 「……あのー、申し訳ないんですけど」  今まで黙っていた久瀬が、ひとつ咳払いをしてから口を開いた。その一言で、安心院の遠のきかけていた意識が戻る。油切れしたブリキ人形のようなぎこちなさで動き、久瀬は会議室のドアを開けた。 「その、このあと打ち合わせが入っていまして、本日はもうご遠慮いただいてもらっても……?」  久瀬は大量の冷や汗をかきながら、安心院たちを見る。両親は不快感を隠せない表情を浮かべるが、久瀬はドアを開けたまま立つ。そして無理に笑顔を作り、軽く頭を下げた。  冷ややかな目をしていた両親はすぐに優しい笑顔の仮面をはめ、かわるがわる安心院の頭を撫でた。 「お仕事なら仕方ないな、頑張るんだぞ」 「ますみちゃん、また来るわね」  名残惜しそうに両親は離れ、会議室から退室した。  ドアが閉まった瞬間、久瀬の顔から一気に疲れがにじみ出る。膝から崩れ落ちるように座り込むと、顔を両手で覆い、言葉が漏れた。 「あ~~~~緊張しましたよ、ほんと!!」  短い黒髪をがしがしとかき、ぶつぶつと文句を垂れ流す。  安心院は椅子から立ち上がる。ゆっくりと久瀬に近寄り、震える肩を優しく叩き、顔をじっと見つめた。 「……久瀬、貴様にしてはやるじゃないか」 「……え、マジっすか?」 「助かったぞ」  久瀬は安心院の表情に一瞬の疑念を感じ取ると、その不安を隠すかのように顔を引き結ぶ。安心院はそれに感謝を一言だけ述べ、久瀬から離れドアに手をかけた。 「先生、どちらに?」 「打ち合わせは明日にしろ」 「え!?」  引き留めようと言葉を続ける久瀬を背に、安心院は会議室を出た。今日はこれ以上ここにいたくない、ただそれだけだった。  ビルから出たら外はもう夜のとばりが下りてきていて、街灯がぼんやりと周囲を照らしている。周囲の人間はこちらを見ることなく流れていく。それでも誰かに見られているような気がして、両親の言葉が脳裏に反響していく。 「…………チッ」  しばらくその場で立ち尽くしてから、再び深呼吸をした。夜の空気が胸に沁みる。そのまま歩きながら、思わず舌打ちが漏れる。  こんな夜は何かに没頭したくなる。帰って新作にでもとりかかろう。脳内でプロットを組み立てながら夜道を歩いていくと、ふと誰かにぶつかった。 「――あれ、ますみ先生じゃん」 「…………あ?」  かけられた声に、安心院は息を呑んだ。よりにもよって、今一番会いたくない人物とぶつかってしまった。  黛はにこやかに近づき、わざとらしくサングラスをずらして直接目を合わせてきた。  目を合わせることなく、安心院は足早に立ち去ろうとするが、すぐに横に並ばれた。あたかも偶然を装って、黛はにやけたまま歩幅を合わせてくる。 「なんだか機嫌悪いみたいだけど、何かあったの?」  振り返りたくない。見たくない。でも、黛の声がどんどん近くで響く。無視してやり過ごそうと思うのに、どうしてもその声が耳に入ってくる。  それでも、今は相手にしたくない。安易に返事をして、黛が望むとおりに反応してやるのがさらに嫌だった。冷静になりたくて、意識的に足を速めたが、黛はそのまま後ろに続いてくる。 「もしかして……生理中とか?」  目の前にひょい、と指先が伸びてくる。見れば、相手はほくそ笑んでいる。 「ほっといてくれ」  冷たく突き放し、歩調を早める。黛はすでに横並びに歩いていなかったが、こちらが「どうしても相手にしないといけない」ように、言葉を切らさない。 「だめだよ、無視しちゃ」  心の中で舌打ちをする。  わかっていたが、どれだけ冷たくしても黛はわざとらしく声をかけ続け、無理にでも関わってくる。少しでも安心院が反応するのを期待している。  早く黙らせてやりたい。今の自分では、黛の思うつぼにはまってしまう。それだけは嫌だった。  安心院はひたすら無視して歩き続けた。しかし黛は諦めず、距離を詰めてくる。安心院の反応を引き出そうと色々言葉をかけていた黛が少しだけ口を閉じ、そして安心院に囁いた。 「もしかして……ご両親と何かあった?」  悪意で歪んだ唇がそれを言った途端、安心院の背筋がぴんと張った。心臓が一瞬、止まりそうになる。先ほどの会議室のことを思い出す。優しい手、作られた笑顔、こちらを飾りとしか見ない浅ましい視線。  ――何もかもが不快で、腹立たしい。   「……黙れ」  声が震える。自分でもわかるほど、感情が乱れているのが分かる。隣にいる黛の顔が、過去の自分に変わっていくような恐怖を覚える。  冷徹で無慈悲な目が、安心院に向けられる。それだけで、息が詰まりそうだった。 「君も色々あったんだね、かわいそうに」  黛が放つ言葉たちが、ひとつひとつ鋭い棘となって刺さる。痛みで胸が締め付けられる。まるで意図的に引き金を引かれたかのように、過去の記憶が一気に溢れ出す。 「僕は分かるよ。親に愛されなかったら、どうなるかなんてさ」  黛の目が少しだけ冷たく、どこか興味深そうに輝く。  その瞳が両親たちのものと重なり、抑えきれない恐怖と絶望が安心院の脳内を支配する。  もう、限界だった。 「黙れ! もう貴様と話すことはない!」  安心院は声を思い切り張り上げ、あふれ出た感情を全て吐き出す。手が震え、ぜーぜーと肩で息をする。心臓が激しく鼓動を打ち、体の芯から冷えていくのを感じる。  過去の屈辱と両親への怒り、自分が今まで孤独だったことが入り混じり、体の中で暴れまわる。自分でもどうしていいのかわからないほど、いろんなものがないまぜになっていた。 「本当にかわいそうだね、ますみ先生」  憐れみを含んだ言葉に、安心院は全てを砕くほど強い視線を向ける。そこには冷徹な怒りと、深い悲しみが混ざっていた。  黛はそれを鼻で笑い、挑発的な笑みで唇を吊り上げた。 「怖い顔しちゃって、ますみ先生。そんなに怒るなんて、よっぽどのことがあったんだね?」 「ほっとけと言っている!」  肩に置かれた黛の手を、安心院は乱暴に払いのける。  それを見て、黛はますます愉しそうに笑った。 「でもさ、君って結局、誰かを思い通りにしないと気が済まない人じゃん?」  その一言に、安心院の足がぴたりと止まった。  黛は無邪気な口調のまま続ける。 「ほら、僕のこともそう。最初はうざったがってたくせに、気づいたら僕のことばっかり見てる。嫌がるくせに、僕が離れようとすると無意識に引き止める。可愛いよね、そういうとこ」  安心院のこめかみがぴくりと動く。内側で何かが切れそうな音がした。  だが黛は言葉を止めず、さらに深く抉ってくる。 「だって君、自分の手のひらの上に置けないものは全部、怖いんでしょ?」 「…………っ!」  思わず呼吸が一瞬止まった。もうやめてほしいのに、安心院の耳は黛の甘い毒を受け入れ続けてしまう。 「ほら、昔からそうだったじゃん。僕のことだって、貴族みたいに見下してたくせに。本当は僕のことが気になって仕方なかったんでしょ? それなのに、僕が好き勝手に動くのが気に入らなかった。君の思い通りにならないことが、すごくすごく気に食わなかったんだ」 「……それ以上言うな」  安心院の指先がかすかに震えた。  自分の中の何かが、壊れそうになる。 「で、今も同じ。君の大好きなご両親に会った後で、最悪の気分のときに、僕が目の前に現れた。何が気に食わないの? 僕が君をコントロールできると思ってるのに、僕の方が君の動きを読んでるから?」  ――この男、何もかも分かっていて言っている。  喉の奥に、熱い鉄を流し込まれたようなひどく焼け付く感覚。指先が、冷たく強張る。血が逆流するほどの怒りが、腹の底からせり上がってくる。  どうして、こいつはこんなに楽しそうなんだ。  どうして、こいつはこんなに余裕で笑っていられるんだ。 「……黛。貴様は、何か勘違いをしているようだな」  静かすぎる声。耳鳴りのように、自分の鼓動だけが響いている。  安心院の頭の中が真っ白に塗りつぶされる。視界の端で、何かが音を立てて崩れ落ちるのが見えた気がした。  喉が焼け付くように痛い。貴様ごときが私を支配するなどありえない――そう否定しなければ、取り返しがつかなくなる。だが、もう遅い。  気づけば、黛の胸元を乱暴に掴んでいた。手のひらから伝わる熱、至近距離にある吐息。視線が絡みつく。 「貴様は……私のものだ……!」  その言葉は支配を刻む呪いとなり、安心院自身をも縛り上げていた。  声が震えているのは、怒りか、それとも別の感情か。どちらにせよ、この言葉を口にした時点で、もう理性は吹き飛んでいた。  どれだけ否定しても、どれだけ目を逸らしても、安心院の意識は常に黛を追っていた。  うるさくて、鬱陶しくて、憎たらしいのに、いつもそばにいる。  突き放しても、何度も何度も戻ってくる。  それなら、いっそ――この手で黙らせてやる。  黛は抵抗するそぶりも見せず、ただじっと安心院の目を覗き込んでいた。その瞳には恐怖の色など一切なかった。むしろ、まるで「この先の展開を心待ちにしている」ような、歪んだ期待感すら滲んでいた。 「……っはぁ、やっと本音が出たね、ますみ先生」  喉を締め上げられながらも、黛は薄く微笑む。  体勢は苦しいもののはずなのに、その顔が――腹立たしいほど、色っぽい。 「さあ、どうする? 君のやりたいこと、やってごらんよ」  吐息交じりの言葉が耳を撫でる。ゾクリとするほど柔らかい声。それは即効性の毒となって、安心院の思考をどろどろに溶かしていく。  試されている。そんなもの、受ける義理はないはずなのに。  自分のものであるならば、もう容赦も遠慮もいらない。向こうがそれを望むというのであれば、こちらがやりたいようにやるだけだ。 「ついてこい」  言葉はいつも通り冷徹に響いた。けれど、その響きはどこか、自分自身に言い聞かせるようでもあった。  掴んでいた胸元から手を離し、安心院はつかつかと歩き出す。乱れた襟を整えず、黛はスキップしながら安心院の後ろをついていった。 「先生、これからどうするの?」  夜の帳に溶けるような声が、背後から囁く。安心院は答えなかった。ただ一歩、また一歩と先へ進む。背後から続く足音が途絶えない限り、それでいい。  そうしてまた、ふたりは境界を侵していくのだ。

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