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第1話
神に愛された子
龍山りゅうざんの國―東市場
両側に琥國、亀國という大国を置いた龍山では、貿易が盛んであり、一日の内で二回。朝は東、夕は、西と市場が開かれている。取り扱われる商品は、様々で庶民の食べ物から、絹、宝石といった宝飾品も日常的に扱われていた。それゆえ、事件は多く。
春も中頃の今日も、賑やかな市場の一角で、それは起きた。
「やめてくださいっ」
総髪の少年・砡《ぎょく》は、叫び。自分の右腕を掴んだ手を振り払おうとした。
「いいから、大人しくしろっ」
ドスッと鈍い音をたてて、砡の腹に男の膝がめり込む。「う…」その場に沈みこんだ砡であったが、それでも左腕に抱いた荷物は落とさなかった。
「この糞餓鬼っ、まだ離さねえのか!」
「うう、いや、やだ」
砡が必死になり守ろうとしているのは、主人に届けねばならない荷物だった。宝石問屋である主家の取引先からの帰り、市場を歩いていたところ盗人に絡まれた。奴隷である自分がこれを失えば待っているのは、酷い折檻だ。
(怖い)
傷だらけになっていく、体。
(死ぬのかな、私)
市場の往来での大人と子供の争いに、周囲は助け船をださない。先の内戦で、多くの者が焼け出され。その混乱は、まだ終わっていない。何処にでもある光景であるがゆえに、反応は冷たかった。
「いい加減に、しろ!」
「ぎゃっ」
男の足先が脇腹にめり込む。体重の軽い砡は、容易く吹き飛ばされ、近くの露店を壊して倒れた。それでも体が荷物を離さなかったのは、待ち受ける折檻の恐ろしさを体が覚えていたからだろう。
その場に嘔吐し、近付いてくる盗っ人の男見つめながら朦朧とした頭で考えていた。
(父上、私はここまでのようです……)
亡くなった父に謝罪し、目を閉じたその時。
「やめよ」
玲瓏たる男の声が静止を呼び掛ける。
その後、複数の打撃音が聞こえ。砡は、我が身が浮くのを感じた。
「だ…れ…」
「心配ない。俺は武官だ。|蒼龍《そうりゅう》という…」
助けてくれたらしい恩人の名前を聞くも、左腕の荷物感触に安堵した砡の意識は泥寧に沈んでいった。
***
目覚めた砡ぎょくが見たのは、冷たい石畳と鎖に繋がれた足枷だった。それは、恐れていた折檻の前状態だ。
ガシャンと、慌てて足枷を外そうとするが、鋼鉄製のそれは頑丈で、少年の指ではびくともしない。徒に生傷を増やすだけだった。
「いやだ、どうしてどうして?!」
気を失う前に助けられたと思ったのは、勘違いだったのか。脂汗がどっとわきだす。
正方形の石が作る奴隷用の牢は、放り込まれた者は心に傷を負う。誰の声も通さないからだ。外の声は、勿論。閉じ込められた者の声さえも。それは、これを作った主人がもつ悪趣味のせい。牢の奥にある分厚い石扉が邪魔をする。
カツンカツン、金具が、石床を打つような音がする。何かを引き摺る音も。主人が近付いてきたに違いない。
体が震える。どう詫びよう、どうしたら許して貰える。
「砡」
だが、砡にかけられた声は、気を失う前に聞こえたものと同じもので。緊張で固まった首を動かし、声の方角を見れば、長い黒髪の美青年が立っていた。
「貴方は…|蒼龍《そうりゅう》?それに」
彼が左手に掴んでいるのは、砡が恐れていた主人だ。
「この男か。お前と荷物を送り届けた時―声をかけてた。丁重に治療してやれと」だが、いとも容易く裏切った。
乱暴に主人を投げ落とす。かなり負傷しており、生きているのか死んでいるのかわからない。それでも、砡は、主人が起き上がり折檻するのではないかと思って震えていた。
「余程辛い目にあったのだな。すまない。」
蒼龍は、手を差しのべる。
砡は、優しいこの男が恐ろしかった。奴隷の身分である自分を心配するなんておかしい。何故そんなことをするのかと。
戸惑いが通じたのか、蒼龍は少し困った顔をした。
「大丈夫だ。これからは俺が守ろう」
男の検討違いな心遣いに、砡は首を横に振る。
後退り逃げようとする自身にため息をついた蒼龍は、近付き枷へ手を翳すと壊してしまった。
「まだ信じられないのも無理はない。お前の苦しみを取り除いてやりたいだけだったんだ」
「そこまでされる理由なんてありません」
「ある」
え、と見上げる砡を蒼龍は見詰めていた。深い水の底のような瞳は、砡を捕えてしまった。
「例え恐怖が理由だとしてもお前は、命をかけた。俺はそれに報いたい」
「え、命をかけてって」
砡がそんなことをしたのは、主人から頼まれた荷物を運んだ時だけだ。それと目の前の男に何の関係がある。彼は、武官と身分を明かしている。取引先と何らかの関係があるのだろうか。
「俺が関わっているのは、お前が運んだ石そのものだ」
砡の疑問に応えように蒼龍は、告げた。
その間も、彼の手は、傷ついた砡の足に手当てを施している。
「俺にとってそれはとても重要なものでな。居所がわからないと不味いことになる。お前がそれを守ってくれて嬉しい」
屈みこんだ蒼龍は、砡を抱えあげる。そのまま、牢を出ようとする。もはやされるがままの砡であったが、やはり主人の様子が気になり肩越しに伺う。
微動だにしないことに安心し、どうか追ってきませんようにと願う。理由を説明されたが、納得するにはわからないことが多すぎる。しかし、砡には、行く宛などない。蒼龍についていくしかなかった。
「私は、どうなるのですか?」
「そうだな、まずは……俺と結婚してくれ」
「え?」
石の意味
「|砡《ぎょく》は、目を瞬き|蒼龍《そうりゅう》を」見つめる。
この男は、何を言っているんだ?
「結婚…?」
「そうだ」
一対の美しい黄玉の瞳が真摯に応える。
「奴隷であるお前を守るためには、それが一番いい。主人を失った奴隷は、市場に出されるからな。」
「そうですが、でも、それは…」
龍山國の奴隷制度に、【主人の所有権喪失】がある。主人が死亡あるいは、奴隷を維持できる資産を失った場合、その所有権を喪失する。
権利の外に出された奴隷は、市場の競売にかけられ新たな引き取り先を待つ仕組みだ。
「お前の主人は、死んではいないが、商売を含め随分やり方が酷かったからな。俺と屋敷に来た連れ…が、締め上げている。だから事実上、お前は、主人を失ったことになる」
砡は、自分の足首に残る鎖の跡を見つめた。
主人を失った、というのは確かに事実だ。しかし、それは自由になったということではない。市場に出され、次の所有者に買われるだけ――それが奴隷の運命。
「……では、私は誰かに買われるしかない、ということですね」
ぼそりと呟いた言葉に、蒼龍は微かに眉を寄せた。
「そういうことになるな」
「でも、何故貴方が? 私を買う理由なんてないでしょう」
目の前の男は、武官だという。ならば、奴隷の一人を助ける義理などないはずだ。しかも「結婚」などという形で、わざわざ自分を引き取る理由が分からない。
「あるさ。お前が守ったものの価値を、俺は知っている」
蒼龍は、ゆっくりと手を差し出した。砡の肩に軽く触れ、意識をこちらへ向けさせる。
「お前が持ち帰った荷物――あの石が、ただの宝石だと思っているか?」
「……違うんですか?」
砡は驚きに目を瞬かせた。主人が宝石問屋を営んでいたのは事実だし、あの荷物には確かに貴重な宝石が詰まっていた。しかし、蒼龍の言葉は、それだけではない何かを示唆しているようだった。
「そうだな……お前には話しておくべきかもしれない」
蒼龍は少し間を置き、静かに続けた。
「あの石は、龍命石と言ってこの国の命運を左右するものだ。」
その言葉の意味を、砡はすぐには理解できなかった。ただ、ひとつだけ分かることがある。
――自分は、とんでもないものを運んでしまったのかもしれない。
蒼龍は砡の細い手首を軽く握り、落ち着かせるように指先で叩くとその手を離した。
「さあ、行こう。ここに長居は無用だ」
砡は迷いながらも、牢の外を見た。淡い光が天井からもれている。
「……私は、どうなってしまうんでしょうか」
「少なくとも、奴隷として競りにかけられることはない。俺の妻として、ここを出るんだからな」
「…………」
冗談のような、だが冗談ではない言葉に、砡は言葉を失った。
地下牢を出た砡を待っていたのは、喧騒と散らばった書類で埋め尽くされた屋敷だった。何人もの官吏が部屋〃を行き来しており、そのうちの一人、やや緑がかった黒髪の官吏がこちらへやって来た。
「|八焰《バオヤン》」
「蒼龍、どこへ行っていたんですか」
「迎えに行っていた」
蒼龍は、顎をくいと動かし、腕の中の砡を示す。胡乱気な目を向けた官吏だが余程忙しいのかすぐに蒼龍へ視線を戻して話し出した。
「なるほど、貴方の目的は|それ《..》だったわけですね。詳しくは後程、宮殿で聞きます。随行させた兵士を二人つけますから早く帰ってください。私はここの主人を探して隈無く書類に纏めなければ」
「わかった」
言うだけ言うと、踵を返してしまう。その背中に、蒼龍が投げ掛ける。「ああ、主人なら地下で伸びてるぞ」
八焰は、振り返らず中指を立てて返事をした。どうやらそういう間柄らしい。
砡は、腕の中からそっと顔を上げた。
「……あの方は?」
「八焰。俺の腹心の官吏だ」
「仲が……良いんですね」
蒼龍は一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐにくっと喉を鳴らして笑った。
「良いように見えたか?」
「……いや、違う気がしてきました」
砡の正直な感想に、蒼龍は肩をすくめる。
「八焰は有能だが、まあ、口が悪くてな。それに、俺のやり方が気に入らんらしい」
「それなのに、貴方の腹心なんですか?」
「有能だからな。どれだけ文句を言われようと、必要な人間だ」それにああいうのは、嫌いじゃない。
その言葉の裏には、深い信頼があることが窺えた。
砡は、蒼龍が単なる力の持ち主ではなく、人を動かす能力に長けていると思った。
――だからこそ、こうして屋敷を掌握し、奴隷である自分にまで手を差し伸べてくるのだろう。
「さあ、行くぞ」
蒼龍が言うと、二人の兵士が歩み寄ってきた。鍛えられた体躯に、無駄のない動作。見るからに精鋭だ。
「今回の摘発は大きい。アイツが言った様に宮殿まで護衛がいた方が安心だろう」
「……?」
「わからんか。あり得ない話ではない、逆恨みや財宝の略取、火事場泥棒とかな」
砡は唇を引き結んだ。
「……はい」
砡に拒否する権利などない。妻と言われたが、それは彼の口約束に過ぎないし、奴隷にそもそもそういう権利はない。
だが、彼の中に芽生えた疑問は尽きなかった。
なぜ、蒼龍はここまでして自分を庇うのか?
なぜ、あの石が「国の命運を左右する」とまで言われるのか?
――そして、なぜ、自分はこの流れに巻き込まれてしまったのか。
砡が言葉を飲み込む間に、蒼龍はもう歩き出していた。
「宮殿までは、少し距離がある。見られるのも嫌だろうし、馬車を使おう」
「……はい」
砡は小さく息を吐き、長い奴隷生活で負った傷だらけの両手を握り締めた。
屋敷を出た先に待つ運命が、どのようなものなのかは、まだ分からないまま。自分の心を守るように。
最初の夜
第3話
二人を乗せた馬車は、宮殿門通ると長く直進した、桑の木が並ぶ広大な庭園を従えた一角に、蒼龍の居館はあった。
宮殿全体が華やかな装飾を施された堂宇(どうう)や回廊によって結ばれているのに対し、この居館は剛健な造りをしている。中央に堂々と構える主殿は、壮麗ではあるが、重厚さと威厳を兼ね備えたものだった。
「さあ! 入ってくれ」
蒼龍はそう言って、扉を押し開けた。砡の目の前に広がったのは、これまで見たこともないほど豪奢な部屋だった。
絹の帳が垂れた寝台、細工の施された調度品。部屋の隅には燭台が並び、揺らめく灯りが金の装飾を淡く照らしている。
しかし、砡は戸惑いのまま足を踏み入れられずにいた。自分がここにいることが、まるで現実味を帯びてこない。
「……あの、私はどうしたら……?」
気後れしたように呟くと、蒼龍は一つ息をつき、ぶっきらぼうに言った。
「ここはお前の部屋だ。自由にしていい」
「え……?」
「宦官を一人つける。わからないことがあれば、その者に聞け」
「そ、その……ここは広すぎて落ち着きません」
砡がそう言うと、蒼龍は軽く鼻を鳴らし、「なら、お仕置き牢に戻るか?」と言いかけ……途中で言葉を切る。
砡がびくりと肩を震わせたのを見て、蒼龍は眉をひそめた。
「……冗談だ」
砡は、蒼龍が冗談を言うような性格に見えなかったので、ただ黙り込んでしまう。
「もうここはお前の部屋だ。気に入らなければ、宦官に言え」
蒼龍は言葉を投げるように言い、部屋を出ようとするが、一瞬だけ立ち止まり、低く付け加えた。
「――ただ、逃げるなよ」
砡が顔を上げたときには、蒼龍はそれ以上砡に構うことなく踵を返し、そのまま部屋を後にした。
取り残された砡は、ぽかんとしたまま立ち尽くした。
「……自由にしていい、って言われても……」
今さらこの状況をどう受け止めればいいのかわからない。
奴隷だった自分が、こんな立派な部屋にいていいはずがない。
途方に暮れていると、バタバタと小走りで近づいてくる足音が聞こえた。
現れたのは、やけに活気のある宦官だった。
「まあまあ! 蒼龍様が奥様を娶られ……え、あ、男、なるほどそういう……いえいえ、なるほど」
宦官は何かを察したように頷き、咳払いをした。
「兎にも角にも急ぎましょう!」
「えっ、何を?」
「夜伽でございますよ!」
砡はぎょっとして、反射的に宦官から一歩引いた。
「いや、ちょ、待っ……」
「急ぎましょう!」
有無を言わせぬ勢いで引っ張られ、砡は着替えをさせられそうになる。
(いやいや、待て待て……!)
「その……夜伽って、本当に必要なことなのか?」
砡が恐る恐る問いかけると、宦官はきょとんとした後、にっこりと笑った。
「そりゃあ、王座を巡る争いで有力候補である蒼龍様の正妻となるには、大事なことですよ?」
妙に楽しそうな宦官に、砡は何も言えなくなった。
とはいえ、蒼龍の態度を見る限り、自分を夜伽の相手として期待しているようには見えない。庇護として礼として受けている境遇だ。
(……まあ、そもそも蒼龍様は来る気すらないだろうし……)
砡はため息をつき、ややこしくなるので宦官に言われるがまま、着替えを済ませた。
慣れない衣の感触に落ち着かない気分のまま、寝台に横になる。
しばらくして、扉の外の足音に耳を澄ませたが――
その夜、蒼龍がこの部屋を訪れることは、なかった。
「申し訳ありません」
翌朝、宦官|去坂《ク―バン》は、砡の前で膝を折った。
「いえ、私もはっきりと言えばよかったのです。」
夜伽だ正妻だ、などと持ちかけたにも関わらず蒼龍が訪れなかったことに謝罪したのだ。
この宦官は、ここに来るまでの経緯や砡の立場も聞かされていなかったのだろうと、砡は、これまでの経緯を説明することにした。
宦官は、深く頷いて熟考する素振りだった。
「なるほど、蒼龍様がなるほど。」
「だから私はその、これからむしろどうするべきかお聞きしたくて」
砡は、膝の上で拳を握りしめる。
奴隷仕事なら染み付いているが、他の仕事などやってみたことがない。
宮中に、ましてや蒼龍の妻(これから数多作るだろう内の一人)として、突然砡は放り込まれた。きっと蒼龍のあの様子では、ここに入れたことで満足してほぼ顔を見ることもなくなるのではないだろうか。
砡がそんな憂いを宦官に伝える。
宦官は、苦笑して。
「そうでございますね。そこまで薄情な方ではないのですが、少々粗っぽい所がおありですから」
宦官は微笑みながら、どこか困ったように肩をすくめた。
「ですが、奥様――いえ、砡様はすでに蒼龍様の妻になられたのです。どのような形であれ、その立場に変わりはございません」
「……それは、つまり?」
「おそらく蒼龍様は、しばらく奥様を放っておかれるでしょう。しかし、それをただ待つのか、それとも自ら動くのかは、砡様次第です」
砡は少し考え込んだ。
「……私は、どうするべきでしょうか?」
「ふむ……」宦官は顎に手を当て、少しの間考えた後、にこりと笑った。
「では、まずは宮中での立ち振る舞いからお教えいたしましょう。奥様方がどのように暮らし、どのように動いているのか、それを知ることが大切です」
「そうですね……私も、何も知らないままではいられませんから」
砡は深く息をつき、気を引き締めた。
蒼龍が自分に関心を持っていないのは、すでにわかっている。しかし、だからといってこのまま流されていては、ただ“存在するだけ”になってしまう。
それだけは避けなければならない――。
(そんな人形のような人生、嫌だから)
「よろしくお願いします」
砡が頭を下げると、宦官は満足そうに頷いた。
「はい、奥様。ではまず、宮中の仕組みからお話しいたしましょう――」
こうして、砡の新たな日々が始まった。
史学:蒼龍とは
|砡《ぎょく》は、|去坂《クーバン》が作法書等をとりに行き、誰もいなくなった室内を見て、少し肩の力を抜いた。
(おかしな話だ)
と、今更ながらに思う。
7年前、鍛冶屋を纏めていた実家が政争に巻き込まれ没落した。それ以来、奴隷として諦めて生きてきたのに。
「…………」
砡は、今までとは違う高貴な衣を着せられている。襤褸衣とは違った意味で、所有物になった自分がここにいる。柔らかい絹の袖から覗く奴隷の紋を撫でる。そこは、焼き印で押されたその上に、幾重にも鞭や痣がつけられ、傷だらけになっている。
「こんな私を妻にするなんて、何を考えているんだか」
とはいえ、昨日の蒼龍の態度を見る限り。自分を女のように扱うというのではなく。石の礼、奴隷への慈善というのが正しいのだろう。豪奢な部屋、与えられるだろう宮中での教育。それ以上に、砡は、期待をもってしまう。
「|宮中《ここ》なら見つかるかもしれない」
家族を壊した罪人がーー
向かいの廊下から沢山の書物を抱えて、去坂がやってくるのが見えた。
龍山國の始まりは、陽前2000年頃。始祖帝君が荒れ狂う五つの龍を平定し、建国したことに始まる。
始祖帝君は、腹違いの九子をもうけ。後に九帝一族と成るその子供たちは、広大な大地と豊富な水を利用し、国を発展させ周辺国と競り合いつつも龍山國を強大な国にした。
「そして175年、今より10年前。王が崩御され王座は空席になりました。本来であれば皇太子が王を継がれるのですが、王ご崩御の直前に亡くなられた為、その席を巡り九帝一族が名乗りを上げます。」
そこまで言って、去坂は一旦区切る。
去坂から龍山國の史学を教わっていた。
場所は、屋敷の北側奥。やや薄暗いが春とはいえ寒く、特に北西にある険しい山肌を滑るように流れ込む風は、冷たいため扉を大きく開く居間は避けたのだ。勉強台がわりの卓に、温かい茶と足元に火鉢をを置いてくれたことに去坂の配慮が感じられた。
「……つまり、今の王座争いは、九帝の誰がその席を奪うかという話、ということですね」
砡は、去坂の言葉を咀嚼しながら呟いた。去坂は静かに頷き、手元の書を閉じる。
「そうでございます。九帝たちは皆、始祖帝君の血を引く名門ですが、それぞれに支持する貴族や派閥があり、完全に対立している。中でも有力なのが、|炎煌《えんこう》、|玄鴉《けんあ》、|煌烈《こうれつ》――」
「そして|蒼龍《オレ》だな」
「!」
さっと、宦官である去坂は、腰を落とし後ろへ下がる。砡は驚いて顔を上げた。扉の向こうに立つ|蒼龍《そうりゅう》の姿が目に入る。
陽光を背に受け、長身の影が伸びる。その姿は、鋼のように鍛えられた武官の証そのものだった。
「……勉強中だったか」
砡の視線が蒼龍の金の瞳とぶつかる。途端に、息が詰まるような緊張感が走った。
「史学について学ぶとは、なかなか熱心だな。よいことだ」
蒼龍はゆっくりと砡へと歩み寄る。
初めてしっかりと対峙する距離。
砡は、急いで座っていた椅子から離れ腰を落として礼をする。
「この度は、余りあるご厚意に感謝致します。蒼龍様」
「大したことは、していない。気にするな」
そう言うと左手を軽く振って、そのまま対の椅子に腰掛けてしまった。どうやら話があるらしい。去坂の方を砡が見ると、空気を察して部屋を出ていく。
「奴隷だから文字も読めぬかと思っていたのだがな」
「……奴隷になる前、少し触れることがあったんです」
蒼龍は砡をまっすぐに見据えたまま、低く問うた。
「お前、龍命石のことをどれ程知っている?」
「……あの石のこと、ですか?」
砡は、わずかに眉を寄せた。言葉の意味はわかる。しかし、どの文脈でそれが語られているのかが分からない。
「石の礼、と仰っていましたが、蒼龍様がおっしゃった国の命運を左右する石。というのを聞いたばかりで。それが具体的に何を指すのかは……私は存じ上げません」
何しろ知らずに運んでいたのだ。
「そうか」
蒼龍は一つ頷くと、卓上に置かれた茶碗を軽く回した。静寂が部屋を満たす。
「石とは、龍山國の礎そのものだ」
「……礎?」
「そうだ。お前も史学を学ぶなら、そのうち気づくだろう。この国の歴史は、龍命石と共にある」
蒼龍の視線が、一瞬砡の袖口に向けられた。砡はその意図を測りかねたが、袖に隠れた奴隷の紋を無意識に撫でる。
「お前がそれを知るのは、そう遠くないだろう」
それだけ言うと、蒼龍はふっと視線をそらし、続けた。
「それはさておき、お前が今学んでいる史学のことだが」
砡は姿勢を正す。
「先ほど、九帝について学んでいたな。お前はどう思う?」
「どう、とは……?」
「王座を巡る争いについてだ。お前は外から見て、どう感じる?」
砡は一瞬言葉に詰まる。
九帝の争い。始祖の血を引く王族たちが、それぞれの派閥を持ち、王の座を巡っている。その中に蒼龍もいる。
「私は奴隷でしたから、」
「そういうのは、いい。今のお前の意見を聞いている。」
「……混乱している、と感じます」
「混乱、か」
蒼龍は微かに口角を上げた。
「確かに、混乱しているだろうな。だが、それだけではない」
砡は蒼龍の表情を伺った。鋼のような黄玉の瞳が、砡を射抜く。
「この国の未来は、ただの争いの勝者が決めるものではない。どれだけ力を持ち、どれだけ信を得るか。それが重要だ」
「……信を得る、とは?」
「それはお前が学ぶべきことだ」
その言葉の裏に含みがあることは、砡にも分かった。だが、それ以上問うことはできなかった。
去坂が再び部屋へ戻ってきた。
「蒼龍様、お呼びがかかっております」
「そうか。ならば今日はここまでにしよう」
蒼龍は立ち上がる。
「砡。お前にはまだ学ぶべきことが多い。だが、そう焦ることはない」
ふと、蒼龍が砡に手を伸ばした。
砡は息を呑む。
彼の手は、冷たいものだと思っていた。しかし、その指先が砡の顎に軽く触れると、思いのほか温かかった。
「……っ」
そのまま、砡の視線を絡め取るように、蒼龍は静かに言った。
「いずれ、お前自身が答えを見つけるだろう」
まるで何かを見透かしているようなその目に、砡は動けなくなる。
——この人は、何を考えているのだろう。
去坂が咳払いをし、砡はようやく我に返った。
蒼龍は何事もなかったように手を引き、踵を返して部屋を出ていく。
残された砡は、ぼんやりと自分の顎に触れながら、心臓の鼓動がわずかに速くなっていることに気づいた。
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